留学中の想い、いろいろ書きます。

鹿児島大学留学生
鹿児島国際大学



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英未東南アジア平和之旅2016第2章
2016/02/13


英未EMI東南アジア平和之旅2016第二章
 親友とのセンチメンタルジャーニー
 カンボジアの10日間


 初めての陸からの国境越えは、私たちの緊張をよそに、スムーズに行われた。

しかし、バスから降り、30メートル歩いてまたバスに乗り込み、今度は荷物を全て持ってバスを降りて出国手続きを行う、と出国と入国で三回バスを乗り降りした。その度に、バスからはぐれないように必死だった。


 そして約10時間後、いよいよカンボジア第二の都市シェムリアップに着いた。クメール語で書かれた看板は予想もつかないほど内容が読めない。

しかしこの都市は観光地であるため、街の商売人はほとんど簡単な英語を話すことができる。

 私たちは一日目のバスにTukTukと呼ばれるこちらのタクシーで移動した。このTukTukは、現地では外国人の重要な移動手段となっている。

運転手は、私たち外国人を見るたびに、「hey!TukTuk?」と聞いてくる。この誘いがあまりにもしつこいので、外国人はそのうちこの誘いに嫌気がさしてくる。

街で「No TukTuk today and tomorrow」と書かれたTシャツを見かけたときは、思わず笑いが止まらなくなってしまった。


私たち以外の外国人もみんなこの誘いに呆れてしまっていること、そしてこのTシャツを売っているカンボジア人もそれを自覚していること、半分ちょっかいを出すつもりで私たちに声をかけているのだと思うと、呆れて、そしておかしくなってしまった。


 TukTukはさておき、いよいよカンボジアに来た。オーストラリアと日本のNGOを見学するという大きな任務が待ち構えているこの国で、気を引き締めていこう!と決めた。


  カンボジアで活躍する日本のNGO


 カンボジア到着二日目、カンボジアで教育支援、技術提供を行っている日本のNGO、JVCを訪問した。

シェムリアップからバスで一時間のコンポンクディ。シェムリアップが観光地であるのに比べ、ここは一人の外国人も見かけないほどのCountry Sideであった。


私たちは寝ぼけたまま、バスを降り、バイクの後ろに乗せていただき、事務所へと移動した。

インターンシップ中の石川さんに活動内容について説明していただき、お昼は近くの屋台で地元の人たちに紛れて食事をした。

三人で食べて、ひとり1,5ドル程度だった。

お昼休みに、JVCカンボジア事務所で働いているスタッフの一人のかたの家にお邪魔させていただくことになった。バイクでゆっくり走り、20分程度のところである。


この家庭訪問は私たちを驚かせた。家は木材で作られていて、去年の夏中国でボランティアをしたときの家と同じようだった。


私たちが到着すると、おじさんが30メートル程もあるヤシの木にスイスイ登っていって、私たちに搾りたての椰子の木ジュースをご馳走してくれた。


親戚の女の子は20歳で、元気な女の子を出産したばかりだった。

ここは、とにかく子沢山で、横たわっている犬には6匹の子犬たちが一生懸命しがみついてミルクを飲んでいた。その姿に見とれていると、今度は鶏の親とその後ろをついてくる沢山のひよこたちが見えた。


ここでは、犬も鳥も共存している。人間同士は様々な派閥が生まれ、摩擦が生まれる。ときに人間は、動物にも優らないのかもしれない、とふと思った。


午後は小学校を訪問した。子供達は私たちを最初は別の惑星から来た人たちのように興味津々な顔で見つめていた。

しかし、授業の休み時間に教室に入り、カメラを出すと嬉しそうにレンズに入ってきた。


私たちは一緒に写真を撮ることで、異国の壁を溶かしていった。この学校では、日本から肉や魚などのフレークの缶詰、そしてUSAから小麦が送られてきている。


そして毎日近くに住む人たちがボランティアで朝食を作り、子供たちに無料の朝食を提供している。
元気な子供達に大きく手を振り、私たちは最初の小学校を後にした。


Emmaとの再会


いよいよ、CPCS(Centre for Peace and Conflict Studies)の事務所を訪問する日が来た。

スタッフのメーガンがホステルまでTukTukで迎えに来てくれ、ひとつひとつ複雑な事務所を案内してくれた。


そして会議が終わったころに南京大学で出会ったEmmaに、ここカンボジア、シェムリアップで再会を果たしたのだ。

Emmaと大きなハグをしたあと、エマは私たちに、今後のカンボジアでの平和の旅をコーディネートしてくれた。それは、北朝鮮の方々が投資して設立したアンコールワット博物館と、シェムリアップのキリング・フィールドであった。


翌日は日本の地雷撤去団体CMCを訪問することになっていたので、翌々日にEmmaとランチを共にすることを約束して、事務所を後にした。


日本の地雷撤去NGO,CMC訪問

カンボジアのバッタンバンは、タイとの国境線まで2キロの距離にあり、カンボジアの中でも、まだ地雷の撤去されていない地域である。


バイクで一本道を走っていくと、あたり一面綺麗に整えられたただっ広い土地が見える。そこは地雷撤去がすでに終わったところであり、痩せた牛が草を食べている姿を見かけた。


私たちはまず、地雷被害者宅を訪問した。ボイスレコーダーを準備し、わたしが日本語で質問をして、それをCMCスタッフの松元さんが英語に訳し、それをCMCのカンボジア人スタッフがクメール語に訳す。


質問は、センシティブなものもあったかもしれないが、どれもしっかりと生の、声を聞くことができた。


地雷被害者のVirさんは、反政府軍として軍隊に入り、銃を持って森の中に入った時に、地雷を踏んでしまった。


そして左足を奪われた。1995年、23歳の時である。現在は三人の子供の父親で、奥さんが町へ出稼ぎに行き、Virさんは家事を行っている。


30分のインタビューの最後に、わたしはVirさんの「希望」を訪ねた。

すると、「いまは、たとえ敵でも見方でも、誰にも地雷を踏んで欲しくない。そして一日も早く、地雷を全て撤去してほしい。」と語ってくださった。


また、自分自身については、「息子に大学を出て欲しい。」と希望を語った。カンボジアでは、村の出身で大学を出られるのは一割にも満たない。二人の息子には自分らしく生きてほしいという願いを語ってくださった。


Emmaの言葉 平和(自分)と向き合うこと

 翌日の午前中、CPCSの事務所に行って、平和に関する本を読みあさった。ここには、平和に関する本しかない。普段英語の読解は得意ではないが、自分の一番興味のあるこの分野の本は、何時間でも見ていられる気がした。


 あっという間にお昼になり、仕事を終えたEmmaが降りてきた。Emmaの車に乗り込むと、カンボジア料理のおいしいレストランに連れて行かれた。


Emmaは、オーストラリアで修士課程を終えたのち、カンボジアに渡り、まずはボランティアから始めた。ゼロからのスタートだった。


そして、18年経った現在は、カンボジアに在住し、クメール語を習得し、カンボジア人の夫を持ち、カンボジアで平和を作るNGOを運営している。


 私は、Emmaに自分の夢と、そして達成できていない目標についてEmmaに相談した。私の顔は暗かった。奨学金をもらって中国に留学しているのに、何一つ貢献を果たせていない、と。


 Emmaは私の話をゆっくり聞いてくれた。そして、こう言った。「Emi、あなたは南京大学で平和学を学ぶことを選んだ。あなたは、冬休み日本に帰らずにここカンボジアに来ることを選んだ。


あなたは平和学を学ぶことを選んだ。だからわたしはあなたがここに来ることを受け入れたのよ。

あなたはもう、自分の進む道は心の中で分かっているはず。」最初はEmmaの言葉を消化することができなかった。


しかしこの言葉は、インドネシアまで来て、やっと理解納得することができることになる。

 この先の旅にも不安が募っていたわたしに、Emmaの言葉は私に勇気をくれた。

私たちが、これから行くジャカルタでテロが起きたことに触れると、Emmaは、世界は広いのよ。あなたたちがテロに遭う確率は、ここで交通事故に遭う確率よりはるかに低いわ。」と笑顔で言った。


たしかに、そんな気がしてきた。恐れていたら、前に進むことができない。
 Emmaと大きなハグをして再会を誓い、私たちはシェムリアップを離れた。

 二日間の合宿

 翌早朝、私たちはEmmaの夫Nyanの車に揺られていた。

シェムリアップから3時間のバッタンボーンに向かうためだ。2週間の旅の疲れが溜まっていたのか、連日の早起きで疲れたのか、車に乗っている間ふたりともずっと寝てしまっていた。

 着いた先は、CPCSの建てた小中学校。ここでは地元の学生が通い、また世界中からボランティアで学生が来る。


私たちが行ったときはちょうど台湾からの学生がここで英語を教えるボランティアを行っていた。


 私たちは、学校の真向かいにあるバンガローに泊まることになった。ここで二日間カンボジアの学生、そして台湾の学生と交流することになる。

 台湾の学生は笑顔で日本から来た私たちを歓迎してくれた。私たちは、木のテーブルを作ったり、子供達と一緒にカンボジアの伝統楽器を弾いたりして交流した。

 夜バンガローに戻ってくると、問題は起こった。シャワーが出ない。。。

子供達と泥だらけになってサッカーをした後に、シャワーを浴びないという選択肢はなかった。


しかし、どこをどうひねっても、浴室のシャワーは水一滴出ない。私はトイレのところまで歩く。便器の横に、シャワーのようなものを見つけた。手に取ると、水が勢いよく吹き出した。

私は親友のまこに相談した。「このシャワーって、便器の横にあるけど、何のために使うと思う?」もちろん、聞きながら自分でも薄々分かっていた。


東南アジアの大部分の地域では、トイレットペーパーを使うという習慣がない。その代わりに、便器の横にこのシャワーが設置してある。私はこのシャワーを握り締め、ためらっていた。

 全てを忘れて、無になって、私はシャワーを浴びた。人々がこのシャワーを使って何をするか、この水がどこから来たのか、気にしない。ただ、心を無にしてシャワーを浴びた。人生で初めての試みだった。


 二日間の合宿は、短い時間だったが、私たちを強くした。テレビもWifiもシャワーもないバンガローでの生活。食事は40人もの台湾からの学生と分け合って食べ、鶏のコケコッコーの声で目覚め、星が出るころに眠りに就いた。ここは星がとても綺麗だった。


 最終日に私が中国語で台湾の学生と話し始めると、彼らはとても驚いていた。これまでは彼らに合わせて英語で会話をしていた。しかし、中国語で話すことでやはり距離がかなり縮まった。。。。


 いよいよバスでカンボジア首都プノンペンに行くときが来た。

プノンペン 虐殺記念館、キリング・フィールド

 プノンペンについたのはたしか、夜だった。日が暮れて、ライトアップされた看板がやけに目立った。日本のCANON、Panasonic、中国銀行など日系、中国系企業を見つけると嬉しくなった


。遠いカンボジアにいるのに、日本や中国が近いように思えた。

 翌日からさっそく、プノンペンに来た目的であるキリング・フィールドを訪れた。入口で日本語のガイドの流れるイヤホーンをもらうと、それをつけて回った。全部で30箇所以上の見学スポットがあり、すべての解説を聞いて回ったころにはは2時間以上経っていた。


 1975年、ポルポト政府は革命を開始した。都市部に住む人々を農村部に移動させ、過酷な労働を強いた。


ポルポトは、農業こそ国家の基礎であり、非常に重要であると考えていた。そしてその他の職業に就くものは全て革命の邪魔者だと考えていた。


そこでポルポトは、医師や教師、弁護士などの職業に就く人たちを片っ端から捕まえて、拷問の末、殺した。それだけでなく、メガネをかけたひと、手の綺麗なひとなど、信じられないが、本当にその理由で様々な人々を捕まえ、キリング・フィールドへと送った。


このジェノサイドの亡くなった人々の数は200万人、当時の人口の4人にひとりである。

 キリング・フィールドを見学する人々はみな無言で、悲しい表情をして、一歩一歩歩いていた。あまりにも残酷な現実が目の前にあり、まるで自分がタイムスリップしてそこにいるかのような錯覚まで抱いた。


当時の骨や、被害者の衣服、穴の空いた頭蓋骨など、それらを見るたびに、何とも言えない感情がこみ上げてきた。ここで、カンボジア人が、カンボジア人を、殺したのだ。


血の関係を断つために、子供も容赦なく殺した。どこか見覚えのある光景は、南京大虐殺を思い出させた。

 英未東南アジア平和之旅と題して旅したこの6カ国。私がみてきたのは、東南アジアの様々な国の戦争の歴史と、平和を作るために活躍する人々、そして日本の姿だった。

このあとに旅するベトナムで学んだベトナム戦争の歴史、インドネシアでホームステイ中にホストファミリーから聞いた「かつての日本の姿」。日本人にとって「被害者」の日本は、東南アジアでは間違いもなく「加害者」であった。


しかし、それらの国で活躍する日本のNGO団体、日本人の方々の姿は、私たちにとって希望に見えた。


 中国で歴史を学ぶ学生として、ひとりでは持ちきれないほどの戦争責任と深い悲しみの心を養った。


それは南京大学での一学期だけでも、抱えきれないものだった。しかし、現地の人々の優しさと寛大な心は、わたしに前に進む勇気をくれた。


「前事不忘后事之师」過去のことを忘れずに、未来の糧にすること。歴史を学ぶのは難しい。しかし、私はひとりではないということ。国籍を越えた、こんなにもたくさんの人たちが、私のことを支えてくださっているのだということを、心から感じた。


PS.カンボジアには十日間滞在した。たくさんの人との出会いがあり、たくさんの物語が生まれた。


ここでは、すべてを書く事ができない。しかし間違いなく、ここで、たくさんの奇跡が生まれた。ありがとう、カンボジア。
 
 次回、プノンペンからベトナム、ホーチミンへ。    第二章終り      EMI

英未東南アジア平和之旅2016第1章
2016/02/13


英未EMI東南アジア平和之旅2016 第一章
―親友とのメモリアルジャーニー

 一ヶ月間の東南アジアでの修行を終えて、空っぽの大学に帰ってきた。1月7日に出発してから、2月7日に上海に帰国するまで、丸々一ヶ月間、わたしは大の親友とふたりで東南アジアを旅した。

一ヶ月で、タイ、カンボジア、ベトナム、シンガポール、インドネシア、台湾の6ヵ国を周った。節約のため、陸続きのところは陸を渡った。初めて陸からの国境越へだった。そして初めて「ことば」の分からない国に入った。

そして言語は通じなくても、気持ちは伝わることが分かった。初めてムスリムの文化を体験した。


そして、友情に国籍や民族は関係ないのだということを確認した。
書ききれない思い出が、わたしの記憶の中にある。


その思い出のひとつひとつを、書き出すことは難しすぎるが、いまこの場を借りて、思い返したいと思う。
忘れてしまわないうちに・・・・・・。

 
 旅のはじまり

 全ては、前学期、南京大学で平和学を学びに行ったことにはじまる。
南大で平和トレーニングに参加した際、カンボジアで平和NGOを運営しているオーストラリアのEmmaに出会った。

その活動を聞き、私はぜひカンボジアに実際に行って、彼らのNGO活動を目で見てみたいと思った。劉成先生にお願いをして一緒に食事をする機会をいただき、わたしの熱意を伝えた。


答えは、「Welcome!」だった。
 カンボジアに行けることが決まったところ、論文の構成発表があった。振り出しに戻ったわたしはがっかりを隠しきれなかった。


そして、本気で論文に取り組まなければ卒業が危ないということを友人から促された。その前にタイの観光地でテロが起こり、パリでテロが行われたニュースで世界は緊迫していた。

わたしは中国を出るのが怖くなった。「これから行く先の国々でテロにあったらどうしよう。。。」


わたしは、Emmaに再び連絡をした。それは、カンボジア行きを取り消したいという内容だった。

 自分の安全を確保したわたしは、南京で残りの生活を充実させようと思っていた。その矢先、親友から連絡があった。

「チケット取った?」わたしは、カンボジアに行くと決めたその日に親友に連絡をしていたことをすっかりと忘れてしまっていた。


私が行かなくなったことを告げると、彼女はがっかりを隠しきれないようだった。
それからというもの、3日に一回連絡が来た。

「本当に行かないの?それでいいの?」

仕事を辞めてニュージーランドに留学している彼女にとって、新しい仕事に就く前に行くつもりだった東南アジア旅行は、大きな意味を持っていた。


「もう長期休みは取れないから、これが人生最後の旅行になるんだよ。」
その言葉に、私はドキっとした。彼女は、11歳からの大親友である。自分から言い出した東南アジア旅行。

そして自分から断ってしまった彼女の人生最後の旅行。。。私は、大の親友を振り切ってしまった。

「まこ、いま世界は前みたいに安全じゃないんだよ。それに論文が書けないと卒業できないんだ。本当に今回は、いけないんだ。お願いだから、諦めてくれないかな。」


私がこうメールで伝えて突き放してしまったとき、彼女がどんなに私に対して失望したのか計り知れない。


しかしその時の私は意気地なしで、この安全な上海の寮から出て、冒険に出る勇気が全くなかった。


 それからしばらく親友からの連絡がなくなった。やれやれ、と肩を下ろせるかと思いきや、それからというもの、彼女の言葉だけが頭をよぎっていた。


「人生最後の旅行」「今しかチャンスがない」。。。

ぬるま湯に浸っている生活に慣れてしまっていた私は、外に出ることが完全に怖くなっていた。


そして、これまで南京にいた私は、上海で腰を下ろしたい、上海からこの不安定な世界に飛び立ちたくなんかない、と思っていた。しかし、友情の力はその不安に打ち勝つものだった。


 私は、気がついたとき、タイ・バンコク行きのチケットを買っていた。時間も、宿も、何も考慮に入れないで、ただ一番最初に目に入った航空券を買った。私は、自分の気が変わってしまうのが怖かった。

明日にはまた「行きたくない」と言い出すことがわかっている自分に、諦める機会を二度と与えないために、キャンセル・変更不可のチケットを買った。深夜1時を回っていた。。。


不安な日々

 チケットをとってすぐ、私は親友に連絡した。もうすっかり行けないのだと思っていた彼女は、一人でオーストラリアを旅行する準備を始めていた。

彼女は自分の取ったオーストラリア行きのフライトをキャンセルし、代わりにタイ行きのチケットを取り直した。私とタイで合流するためである。


 荷物は一ヶ月も前からすでにリュックに詰めていた。友人に出発の日を伝えた。換金に行き、タイのバーツを初めて手にした。旅行の準備は整った。整っていないのは、私の心の準備だけだった。。。


 チケットは取り、最初の目的地も決まったものの、テロに対する不安や、初めて言語の通じない国に行く不安、は拭うことができなかった。

それどころか、出発の日にちが近づく度に、「行きたくない、、、」という思いが強くなった。

「タイでまたテロが発生したらどうしよう。。。カンボジアで地雷を踏んでしまったらどうしよう。財布を取られたらどうしよう。それに論文。。。。」


 不安はいくらでもあった。おまけに、私が先に断っため、出発の時間を相談することができず、親友より一週間早くタイに着くことになってしまった。初めての国に、一人で入国する。。。


 そんな不安は、出発当日までかき消すことはできなかった。わたしは、中国で仲の良い友達に、出発前の自分の素直な気持ちを伝えた。

「怖いけど、行くしかないみたい。」友人たちは、「必ず生きて帰ってきてね。」と私に伝えた。いまでは大げさだと思われるかもしれないが、本当にそのときは、「生きて帰ってくること」が最大の目標だった。
 

 出発の朝

 時間も見ずにチケットを買った私は、朝7時10分上海発、バンコク行きの飛行機に乗るために、朝4時に大学の寮を出た。タクシーの窓から外を見ながら、旅に出ている自分を想像した。


そして、ありとあらゆる起こりうる危険を想像しては、ぞっとしていた。そんな私の不安の表情を見たタクシーの運転手のおじさんは、私に声をかけた。

「そんな不安そうな顔をしてどこに行くの?」

わたしは、これからの旅の大体の日程と、私が抱えている、起こり得りそうな危険を次々に述べていった。


おじさんは、「あなたは本当に勇気があるね。大丈夫だよ。あなたはきっと生きて帰ってくる。」この運転手さんとの会話の中で、不安がなくなったといえば、嘘になる。

しかし、空港に到着し、トランクから大きなリュックを下ろすとき、おじさんからもらった言葉は、わたしの背中を強く押した。

 「あなたが帰ってきたら、僕がまたここに迎えに来るよ。だから必ず帰っておいで。」

まだ帰りのチケットも買っていない私にとって、いつ上海に戻って来れるか、そのときは分からなかった。

しかし、おじさんの温かい言葉に、わたしは必ず上海に帰ってこよう、帰って来たい、と誓った。

 サワディカ〜 タイ

 格安航空AsianAirでは、機内食どころか、水一滴提供されない。深夜から行動を始めていたわたしは、4時間半のフライトで空腹と戦っていた。


 冬の中国から、常夏のタイに着くと、飛行機を降りた瞬間ムッとした熱気が身体にかかった。上海から来たお客さんたちはみんな一斉にコートを脱いだ。


 わたしはリュックを背負い直し、予約したバックパッカーのホテルへと向かった。バンコクでは地下鉄やMRTが通っており、移動はとても便利である。

電車の中からバンコク市内を見下ろしたとき、その都会の程に上海を思い出した。

 バックパッカーのホステルを予約した際、メールで連絡を取っていたのは日本人スタッフの千代さんである。

千代さんから送っていただいた住所を照らし合わせ、やっとホステルに着いたのは、午前11時前だった。

 後に述べるが、この旅で最初に泊まったこのホステルは、環境、人との出会い共に素晴らしいものだった。

 チェックインを済ませると、まずはお腹を満たすために私はカメラ片手に街を歩きだした。

バンコク市内から6駅ほど離れたこの町は、忙しい市内とは打って変わって、静かな街並みが広がっていた。


道ばたでものを売る人、バス停でお昼寝をしているひと、まるで時間が止まっているようだった。


そしてテレビで見たような戦後の日本の下町のようにも見えた。

 がっかりと喜びと

 夕方から、タイの市内をゆっくり見て回ることにした。そして気がついたのは、バンコクの市内は上海と変わらないほど都会だということである。


タイと言えば、勝手に、畑仕事をする人々と、緑の大地を想像していた私は、思わずがっかりしてしまった。バンコクは、凄まじいスピードで発展を遂げていた。

 ホステルに戻ると、日本人スタッフの千代さんとお話をした。なぜ私がここに来たのか、これからどのように旅を進めていくのか、話しながら自分にも言い聞かせていた。

千代さんはタイに来て一年、現在は日系企業で働きつつ、このホステルでお手伝いをしている。

上海から遠く離れたこの土地で素敵な出会いがあった。

 二日目は、ホステルで出会った日本人の、ヒロと一緒に観光をした。朝市やバンコク市内の観光地を回った。

三日目、一人でタイの宮殿に出かけた。入り口を入るとあたり一面金色の世界に、ただただ口を開けて見ていた。世界中から観光客の集まるここTemple of the Emerald Buddha。


 この宮殿には、服装規定があり、膝の見える服など露出の多い服では入ることができない。

そしてこの宮殿の中では、様々な言語が飛び交い、様々な民族の人たちが笑い合っている。そんな光景を目にし、その人たちの来ている身なりや雰囲気の違いで、彼らの様々なバックグラウンドを考えていた。


「この人はきっとお金持ちなんだろうな」「この子は両親とツアーで来たのかな」・・時より、人々の渦に飲まれながら、「人間たちは生まれる場所が違うだけでこんなにも違う人生を歩むのかと」、ため息をついた。

宮殿の中心、仏様のいらっしゃるところは、撮影禁止で、また裸足で入らなければならない。

世界中から来た観光客が次々と中に入っていく。外のざわめきが一瞬止み、人々は静寂の中にいた。


そして彼らは、仏様の前で膝をつき、祈りを捧げる。様々な宗教、様々な民族の人たちが一点を向いて祈りを捧げている。その光景にただ、感動した。


裸足になった私は、神の前では人はみな、平等なのだと、心から思った瞬間であった。

Ayutthaya

ホステルで出会った日本人の先輩方にアドバイスをいただき、一人でアユタヤに行くことにした。


親友の到着まであと3日間もある。私はこの大都会よりも、田舎のタイの姿を見たかった。そしてわたしは、この国で最初の世界遺産と出会うことになる。


アユタヤまではバンコクから列車で3時間。ガイドブックや、街の人たちからは一時間半で着くよ、と言われたけど、列車はゆっくりと進み、各駅で10分程度ずつ止まる。

そのため実際のところ、二倍の時間がかかるようである。
見つけたホステルは一人部屋で、一泊1000円未満で泊まることができる。チェックインを済ませると、さっそく外に出かけた。


自転車をレンタルした。復旦で自転車通学している私は、水を得た魚のように嬉しくなり、一本道をハイスピードで走り抜けた。10分ほど走ると、アユタヤ古代遺跡の入り口についた。

テレビで見たことのある、人から聞いたことのある、しかし実際に自分の目で見たことのない、そんな光景を初めて目にしたとき、感動で胸が熱くなった。歴史学部にいながら、歴史が嫌いになってしまっていたわたしは、歴史を学ぶ素晴らしさをこの目で確かめた。


とくに、木の幹の中にすっぽりと埋もれてしまったお釈迦様の顔を拝見したとき、膝をついてうっとりとその姿を眺めていた。今私は、古代遺跡の町、アユタヤにいるのだ。

私と女の子とワニと

アユタヤには、二日間滞在した。金銭的に余裕がなかった私は、ご飯は毎食150円程度で済ませた。疲れて帰ってきては夕食を省いた。


食べ物に対して執着のない私は、何を食べてもおいしいと思えるのは、日本にいたときからである。そして旅の間、美食よりも目の前の景色の方が魅力的だった。

二日目の朝、自転車に乗って広い公園を駆け抜けた。四方八方どこを見ても遺跡。観光地なのにいつも人の少ないアユタヤは、静かな雰囲気がどこまでも広がっている。


その遺跡をぼんやりと眺めながら、紀元前を生きた人たちの生活を想像していた。想像を膨らませていると、彼らは今にも蘇ってくるような、そんな気がした。
お腹がすくと、屋台が出てくる4時頃に生春巻きとグァバフルーツを買って、池の淵に座り、それを頬張った。


遺跡の残る公園で古へ思いを馳せながら食事をする、私にとって至福の、贅沢の時である。


するとその時、わたしの座っているちょうど正面の反対側の岸でバシャッと音がした。何かが動いた。何か大きなものが口を広げて、閉じたようである。


そう、ワニだ!私は食べかけの春巻きを持って直ちに池を離れた。野生のワニを見たのは生まれて初めてである。

そして、もしワニが現れたのが反対側でなく、こちら側であったら、生春巻きをアユタヤで食べたばっかりに、命の危険を負うことになっただろうと思い、ぞっとした。


ホステルに帰ると、インターネットをするために一階のテラスに降りた。
毎日の日課である日記を書いていると、女の子が近寄ってきた。

まだ三歳くらいのようだ。
彼女はわたしにビーズの玉を見せてきて、わっと広げて見せた。


するとビーズたちはあたり一面に広がった。わたしが唖然としていると、彼女は嬉しそうにわたしにニコッと笑い、そのビーズを拾い出した。


引き続き日記を書いていると、女の子はわたしの手をとって、手のひらに拾い集めたビーズを載せだした。


彼女はわたしにもビーズを一緒に拾うように合図し、私も彼女と一緒になって床に散らばったビーズを集めだした。


後からこの女の子は、このホステルを経営している女性の娘さんだということが分かった。オーナーは女の子に、私にちょっかいを出さないように促すが、女の子はどうしても私から離れようとしない。


私も日記を書く事を諦め、女の子と一緒になって遊んだ。
遊ばれた、と言ったほうが良いかもしれない。私たちに、会話はなかった。


タイ語も赤ちゃん語も話せないからだ。しかし、私たちに、笑顔は絶えなかった。世界中、どこの赤ちゃんもこんなに可愛くて、キラキラしているのだと、改めて思った。

親友とバンコクで合流

アユタヤに二日間滞在したのち、三日目の早朝、バンコクへ戻るために駅へと向かった。


改札口を入ったところで、朝食を買うと、ベンチに座りなからそこをうろつく犬を眺めていた。15分もすると、定刻の時間に列車が到着した。私はすぐに飛び乗った。


まさかその列車が、バンコクとは正反対のバンコクの北、チェンマイに行く列車だとは思いもしなかった。

列車が300メートルほど動き出すと、私はすぐに何かが違うと悟った。バンコクの方向と真逆の方向に列車は進み出している。


しまった!と思った。わたしの様子を見た駅員の方は、「Where are you go ?」と聞いてきた。「Bang kok.」私の言葉を聞くと、駅員さんがトランシーバーを使って一言話した。


すると列車は急にキーンといって止まった。ドアは開き、駅員さんは降りるように私に合図した。


列車を降りて振り返ると、窓から沢山の人達が顔を出して私をみている。

そして、笑っている。私は駅員さんに「ありがとう」と告げると、駅の方へと線路を歩きだした。

最後まで何かしらしでかしてしまったが、アユタヤに来て、タイがとっても好きになった。


列車から見える景色は緑の畑と、お昼寝をする犬たち、そして、のんびりと暮らす人々だった。

バンコクに戻ってくると、また居心地の良いホステルが待っていた。そしてわたしは翌々日の親友の到着を待ちわびていた。


私たちは、小学校からの親友である。放課後、二人で走って帰り、ランドセルを玄関に放り投げては時間を惜しんで遊んだ。


あの頃から、やんちゃで、冒険が大好きだったように思う。そんな親友は、三年間働いた職場を辞め、ニュージーランドに短期留学する道を選んだ。


新たな仕事が始まる前の半年間、新しい自分を見つける旅にでたのである。その旅を締めくくる最後の挑戦が、ここ東南アジアであった。


私はバンコク国際空港に彼女を迎えに行き、私たちは半年ぶりの再会を果たした。


しかし親友に、距離や時間の間隔は関係ない。私たちはいつものように、また二人で歩きだした。二人の旅はこうしてはじまった。


この夜ホステルで出会ったのぞみさんとの出会いと励ましの言葉は、いまでも忘れられない。
タイからカンボジアへ

親友の到着を待ちわびていた私は、カンボジア行きの長距離バスの切符を前日に二枚取っていた。


タイを離れる前日、タイの屋台で晩餐をして、翌日早朝、私たちはタイから国境を越えるためにバスに乗り込んだ。

 インターナショナルバスと言っても良いほど、このバスの中には外国人しかいなかった。

タイからカンボジアのシェムリアップまで、約6000円程度で行けるこのバスは、外国人、とくに、欧米からのバックパッカーで埋め尽くされていた。


私たちは、カンボジアに着くまでの約10時間、寝たり、話したり、これからはじまる本格的なふたりの「メモリアル旅行」に期待を膨らませていた。
                       第一章のおわり        EMI

2015 年の瀬に。
2015/12/26


  2015年の瀬に        吉永英未
 
年の瀬というのに、大学の中に住んでいると、全くその気配を感じない。というのも、ここ中国では旧正月を過ごすので、日本のようなわくわくとした慌ただしさはない。日本で見るクリスマスのイルミネーションを懐かしく思った。

 12月18日、住み慣れた南京を離れる日が来た。9月25日に南京に来て、10月はホームシックになり、上海に帰る日を指折りに数えていた。

そんな日々を乗り越え、論文の構成発表を終えて帰ってきた南京には、待ってくれている友達がいて、帰る場所があった。

南京はすでに、わたしの二番目の家になっていた。そしていよいよ、上海に帰る日が来てしまったのだ。

もともとは、12月31日までいる予定だったが、復旦大学で行われる日中韓女性史会議のため、18日に上海に戻ることになった。それは、思いがけないことだった。

 会議への通訳としての参加は、担任の先生からのお誘いがきっかけだった。11月の後半、

「来月歴史学部で女性史についての日中韓シンポジウムがあります。えみにぜひ、中日の通訳をお願いしたいのだけど」

わたしは、初めは戸惑った。アルバイトで中国人旅行客の通訳をした経験はあったが、学術的な会議での通訳をしたことは一度もなかった。

しかし、自分の所属する歴史学部から頼まれた仕事。きっと引き受けたいと思った。

 その後、18本もの論文とその概要が送られてきた。会議までに目を通しておくこととのことだった。

テーマは、慰安婦問題から中国文学まで、多岐にわたった。
わたしは一つ一つに目を通し始めた。それは、大量の時間と、根気のいる作業だった。

一本の論文に目を通したあとは、南京大学の友達に分からない中国語の表現の意味を聞き、討論をした。

とても情けないのだが、中国に来て初めて短期間でこんなにもたくさんの論文と向き合った。なんですべて漢字で書かれているんだ!と拗ねたこともあった。

 12月18日午前11時。南京大学の食堂の大きなテーブルを囲み、わたしはお世話になった友達と南京で最後の食事をした。
バドミントン、盲学校のボランティア、わたしの教えている日本語の授業などで知り合った友達同士は、この場で初めて顔を合わせた。

お昼の後は、そのままみんなでわたしの家に行き、家を出る手続きを済ませた。
午後1時半、復旦大学の学友の方、現北京科学研究所教授で現在南京支部にお勤めしている楊先生が車で迎えに来てくださった。

この楊先生とは、バドミントンで知り合い、お話をする中で、名古屋大学の修士と博士を出て、アメリカで14年間働き、また学部は復旦大学卒業ということで、様々な共通点も重なり、連絡先を交換させていただいたのだ。

その楊先生は、私が復旦大学に帰ることを知り、南京駅まで送って下さることになったのだ。
 地下鉄の駅には、南京大学で知り合った大切な友達が見送りに来てくれた。

ひとり、また一人から手紙とプレゼントをもらった。
友達からの手紙には、「南京大学はえみの家だよ。また帰ってくるのをいつでも待っているからね。」と書いてあった。

また、バドミントンで知り合い、弟のように慕っていた後輩からは、「始めたあった日のことが昨日のことのようだ。

えみがいなくなると心の中に穴があいてしまったみたいだ。」と書いてあった。

南京で知り合った日本人の友達や歴史学部の友達。一人ひとりにさよならを告げるには、少なすぎる時間だった。あっという間に、車は出発しなければならなくなった。

わたしも準備していた手紙を一人ひとりに渡し、みんなとハグをして、車に乗った。

 15時5分、高速列車は上海へと向かってゆっくりと動き出した。私を大きく成長させてくれた南京は、だんだんと遠くに、そして小さくなっていった。

 12月19日、一息つく暇もなく、会議前日ということで、浦东国際空港に、翌日から始まるシンポジウムの報告をする日本人の先生方をお迎えに行った。

午後2時半に空港に到着してしまった私は、午後6時前にようやく成田から到着された先生にお会いすることができた。

復旦の先生は、私に日本人の先生のお迎えを、そして韓国人留学生には韓国人の先生方のお迎えを頼んでいた。私たちは二手に別れ、それぞれの国から復旦に来られたお客様の接待に当たった。

 12月20日、いよいよシンポジウムが始まった。この女性史シンポジウムは、一年ごとに韓国、中国、日本で行われている。

今年は中国の復旦大学で開催されることになった。私にとっては、初めての会議での通訳という大きな挑戦であった。

 通訳は全部で4人。すべて復旦大学の修士、博士課程の学生である。日本人と韓国人の学生が一人ずつと、日本語と韓国語を専門とする中国人学生が二人である。私たち4人は当日に初めて顔を合わせた。

仕事分担として、中国人学生は、日本語もしくは中国語を中国語に訳す。そして、日本語はまず中国語に訳され、その後韓国語に訳される。韓国語も中国語を経て日本語へと訳される。

わたしと、韓国人の学生は、中国語をそれぞれの母語に訳す。この複雑な作業に、先生からは「あなたはとりあえず中国語に出会ったらそれを日本語に訳せばいいのよ。」とアドバイスをいただいた。

 報告者が一言、もしくは一センテンス話した直後にそれを二人の学生がそれぞれの言語に訳す。そのため会議は普通の3倍の時間がかかる。

 一日目の一本目で、私はいきなり窮地に陥った。一番目の報告者は韓国人の先生である。わたしは、韓国人の先生の発表する原稿を中国語に訳したものを当日発表開始10分前に手にした。

20日前に、すべての先生の論文はメールにて手元に送られてきていたが、韓国語で書かれた論文はさすがに目を通すことができなかった。

そもそも南京にいた私は、韓国語は担当ではないと思っていたからである。先生と通訳の学生同士で直接交流するチャンスが会議当日までなかったため、私は会議の流れをあまり理解できていなかった。

そのとき初めて、韓国語が中国語に訳された後、それを私が日本語に訳さねばならないことを悟った。

 実際にプレゼンが始まると、私は頭の中が真っ白になった。みんなが注目し、マイクが目の前に用意される中で、韓国語はポカーンと聴いていたが、中国語が話され、周りの全員が私の日本語の通訳を待っているとき、私は動転した。

何を言っているのか、まったく聞き取れない。。。論文に目を通したことがなく、その内容も大変深く入り込んだ専門的なものであり、とても即席通訳などできなかった。私には、その能力がなかった。

 私は、左側にある韓国語担当の中国人学生の用意した中国語で訳された原稿を必死で目で追い、できる限り話した。

緊張と戸惑いで、何を話していたか覚えていない。すると、見るに見かねたある大学の先生が、私の隣に座ってくださった。

日本語がわかる中国人の先生であったため、私が話した後に日本語で補足を加えてくださった。

正確に言えば、私の通訳できる内容はほんの少しに満たなくて、残りのほとんどをその先生が訳してくださったのだ。こうしてその修羅場はなんとかくぐり抜けることができた。

 冷や汗をかいた私は、その後午前中の三時間は緊張で背中はかたまり、日本語も正しく話せなかった。ようやく午前の部が終了したとき、ふにゃふにゃになってしまった。

私は即座に日本人の先生方のもとへ行って、お詫びを申し上げた。「本当につたない通訳で申し訳ありませんでした。」先生方は、「大丈夫よ。お疲れさま。ありがとうね。」と言ってくださった。それが何よりも心の支えになった。


 午後の部は、少しだけ慣れてきて、少しだけ自信をもって話すことができた。

しかし日本語のできる先生は私の隣に座り、引き続きわたしを支えてくださった。こうして一日目のシンポジウムは終了した。これまでに経験したことのない疲労で肩が下がった。

自分の中国語の力不足と、努力の足りなさ、精神的にも大きなダメージを受けた。私が戸惑っている間、韓国人学生はしっかりと一言一言を韓国語に訳していた。

学部から復旦大学の歴史学部であるという彼女は、リスニング力に長けていて、日本語の先生の報告の中国語の原稿もすべてあらかじめ手に入れてそれを韓国語に訳して準備していた。

そのためほぼ完ぺきに、自分の仕事をこなすことができていた。それに比べてわたしは、、、。私は自分が情けなくなった。

もちろん、準備をしていなかったわけではない。しかし、こんなにたくさんの論文をたった20日間で読めるはずがない、、、と弱腰だった自分のことが否めない。

自分に甘えて、完ぺきに準備を整えることができなかった。私の昔からの「なんとかなるさ」精神は、逐次通訳の場ではなんとかならないことを改めて深く実感した。

 会議二日目。最終日であり、復旦大学の先生の報告ということで、私も気合を入れなおした。

今回の論文はしっかりと目を通してあり、また南京で討論も重ねてきた内容であったため、最初から最後までほぼ一人でしっかりと通訳をすることができた。

しかし韓国語での報告の即時通訳は先生方の助けを貸していただくしかなかった。
こんな半人前とも言えない私を、様々な方が支えてくださった。

そして会議の終わりには、「通訳大変だったでしょう。お疲れさま。」と温かい声をいただいた。

最後の主催者側の挨拶からも、「通訳のみなさんは本当にお疲れ様でした。」という言葉をいただいた。

 こうして一日と、半日の日中韓女性史会議は幕を閉じた。
私たちはその報酬として、3千元、日本円で6万円をいただいた。私は、会議が終わるまでまさかこんなにたくさんの報酬があるとは思ってもいなかった。

この二日間は、全力を尽くしたが、やはり自分の力不足を痛感し、この大金が独り歩きしているような感じがした。
先生方は、韓国人の学生を褒めたたえた。私も、同じ年である彼女を尊敬のまなざしで見ていた。

復旦人は、与えられた任務は、絶対にやってこなす。たとえ通訳する内容が前日にメールで送られてきても、それにしっかりと目を通し、訳した文章を持ってくる。それは私以外の三人の通訳に共通したことだった。

この二日間の会議を通して、一番の収穫は、自分の弱点、実力のなさに改めて気づくことができたことである。

私はまだ、周りのレベルに達していないことは明らかだった。それなのに私は、本当に自分に甘い。

少し努力すると、その気になって、まだ任務を完成させていないのに、平気であきらめてしまう。つまり自分の中で限界を決めてしまっているのである。

本当に、情けない限りである。これから一層の努力が必要であると身にしみて感じた。

 もう一つの収穫は、この韓国人の彼女との出会いである。復旦に来てから、初めての韓国人の友達である。

同じ91年生まれの彼女は、将来東アジア共同体を研究したいという目的があり、日本語も勉強するつもりということだった。

そこで、私たちはこれから毎週一時間ずつ韓国語と日本語の相互学習をすることを決めた。同じ目標を持つよき友達、ライバルができたことは、私にとってとても心から嬉しいことだった。
 
さて、クリスマスをさみしく一人で過ごした私だが、いよいよ冬休みの旅に入ることになる。

1月8日、上海からタイのバンコクに飛び、それからカンボジア、ベトナム、インドネシア、台湾を周ることになる。東南アジアは初めてで、不安も多少はあるが、またとないこの機会を精いっぱい大切にしたいと思う。
 カンボジアでは、平和活動平和教育を行っているオーストラリアのNGO団体を訪問する。

これから始まる一か月以上に及ぶ東南アジアの旅に、まだ心の準備は整ってはいないが、学部時代に続き一人旅は初めてではないので、心を決めて、勇気をもって、熱帯の東南アジアへ飛び出していきたいと思う。

 
 最後になりましたが、日本の皆様、2015年は大変お世話になりました。三歩進んで二歩下がる。一歩ずつゆっくりでも、確実に前に進んでいけるようにこれからも努力していきます。

そして、年の瀬に学ぶことができた自分の弱さ、まずは正直に受け止めて、そして少しずつ周りの方たちに追いついていけたらと思います。

 2015年は決して平和な年ではありませんでした。2016年が一人でも多くの人にとって幸せな年になれますように。そして、平和な年でありますように。

 
2015年12月26日 復旦大学留学生寮にて 吉永英未より

 

知恩報恩  南京大学の想い出
2015/12/03


知恩報恩      吉永英未   2015.12.2(水)

 11月16日、二つ目の自宅になる南京の家(住まい)に戻ってきた。

復旦大学で、論文の構成発表とバドミントンの試合に参加し、笑顔と元気を補給して、第二の家に帰ってきた。
私が南京に帰ってきたことを友達に告げると、「やっと帰ってきたんだね、短い間だったけど会いたかったよ。今夜ご飯食べに行こう!」と優しい言葉をかけてくれたのは、バドミントンで知り合った樊士庆である。
そしてひとり、またひとりと、再会の食事をする約束を交わした。食事は、コミュニケーションをとるためにとても大切な場である。とくに中国では、食衣住というように、食事に重きを置いている。それは食事の文化であり、人と人の交流に欠かせないものだからなのである。
顔見知りの友達、一緒に授業を受ける友達と、一度でも食事を共にしたことのある友達は、そうでない人たちとは距離感が全く異なる。
私たちは食堂で、1食7元程度の食事を食べながら、お互いの事について話をする。そこにはデザートも無ければ、お酒もない。しかし、向かい合って食べる目の前のこの友達と過ごす時間こそが何よりも意義があるのだ。

 復旦でも南京大学でも、バドミントンを通して知り合った友達は少なくない。スポーツを通して知り合った友達だが、バドミントンの後は勉強の話もするし、家族のこと、恋愛の話もする。
バドミントンの強さ弱さはさておき、学問においては、二つの学校のどちらの学生も私にとってはお手本であり、彼らは先生である。

 南京大学に来て、繰り広げられる日々の物語(つまり生活)は、復旦では全く想像もできないものだった。私は、南京大学をすごくすごく好きになった。当然、南京という土地自体もとってもとっても好きになった。それは、ここに住む人の温かさそのものだった。

 11月20日、南京大学で行われたバドミントンの試合に参加することになった。

わたしは、南京大学第二チームに入れられた。そして、南京漢方大学や南京師範大学などと戦った。11月7日に復旦大学で行われた試合で優勝してしまった私は、自分に少なからず自信を持っていたに違いない。

そして、参加する一つ一つの試合で必ず、いい成績を残したいと思っていた。その思いを、他大学で参加する試合でむき出しにしてはいけないと思い気をつけていたのだが、ある出来事をきっかけに、わたしのバドミントンにかける熱すぎる情熱はむき出しになってしまった。そして、苦い思い出を残すことになる。

 団体戦のチームリーダーは試合がはじまる前に、誰がシングルに出て、誰がダブルスに出るか参加項目を紙に書き入れ、提出しなければならない。私たちは午前中の試合はすべて勝ち、みんなでごはんを食べたあと、対戦相手のレベルも上がる午後の試合に備えた。

 午後の試合の一回戦、これまで女子シングルスに出ていた私は、何も疑うことなく、今回もシングルスに出るものと思っていた。
しかし、コートに出て行ったのは私ではなく、別な女の子であった。対戦相手はなかなかの腕。こちらといえば、その相手に敵ないそうにない女の子。私は焦った。

「ちょっと待って。シングルスはあの子がでるの?」

しかし、提出した参加項目の紙は書き換えることはできない。試合は予想通り、女子シングルスは相手に余裕で勝たせる結果となっていしまった。
 わたしは納得いかなかった。
一つは、同じチームとして、チームメイトに相談することなく参加項目を決めてしまったことが理解できなかった。
そしてもう一つに、シングルスで自分が出れば落とすことはなかったとこれまで経験したことのない悔しさとやるせなさで胸が熱くなったからである。
 大人げないわたしは、3つも4つも年下のチームメイトを前に、はらけてしまった。

「なんでわたしに出させてくれなかったの?」

この時のわたしに、自分が復旦大学の学生で、チームメイトのお陰でこの試合に出させてもらっていること、リーダーはわたしの体力を考慮して、ほかの女子にシングルスを出させたことなど、考える余裕などなかった。

ただ、悔しさとやるせなさ、そしてこれまで試合に負けることのなかった私にとって、「自分の実力を発揮しないまま」負けた試合は、耐え難いものだった。そのやるせなさは、リーダーへの疑問と怒りへと変わってしまった。
 コートの片隅でひとり、失望している私に、リーダーは近寄ってきた。

「相手がこんなに強いとは思っていなかったんだ。僕はえみの体力も考慮して、ほかの子に出てもらったんだよ。そんなに怒らないで。僕はえみに謝りに来たんだ。」

中国で、謝罪をすることは少ない。面子を重んじる中国社会では、よっぽどのことのない限り、正式に謝ることはない。それは、学生も、社会人も同じである。そんな中国でわたしは、自分の情緒をコントロールすることができず、彼に謝らせてしまったのだ。

彼が面と向かって謝ってきたとき、わたしは改めて自分の過ちに気づいた。そもそも、試合に参加したのは友情のため。友情第一、試合第二というスローガンのもと参加した試合で、わたしはなんと同じチームメイトに怒りをぶつけてしまっていたのだ。
 次の試合が始まる前、わたしはリーダーに謝りに行った。

「さっきはごめんね。感情化して、自分の気持ちをコントロールすることができなかったんだ。」
私たちは、和解した。

 今回の試合は私に、体力的、それ以上に精神的に大きなダメージを与えた。
それは、自分に対する失望と、反省であった。
「勝つ」ことに対する固執、傲慢、そして仲間を信じることができなかったこと。自分の情緒をコントロールすることができず、仲間を傷つけてしまったこと。あとから冷静になって考えてみると、自分が犯した過ちに深く反省した。
そして、わたしは、「バドミントンから距離を置こう」と決心した。

 それからというもの、友達が「えみ、今夜一緒にバドミントンをしようよ!」と誘ってきても、様々な理由を探して断るようになった。

自分にとって、この休みが必要であると考えたからだ。そして、そんなわたしの気持ちに合わせるかのように、参加することが決まっていた学部対抗戦にも参加できないことが分かった。その理由は、私が他大学の学生だからであった。

わたしはこの現実をすんなりと受け入れることができた。というのも、当たり前の結果だと思ったからである。仲間からは、「試合には参加できなくても一緒にバドミントンは楽しもうね。」と励まされた。
 しかし、わたし本人以上にこの結果に納得できない仲間たちがいた。それは、同じ歴史学部の学生であった。

彼らは、私が歴史学部の学生として試合に参加することを心から願っていた。そして、試合前日に知らされたその結果に、納得できないどころか、なんと主催者側に抗議を始めたのだ。

わたしは、「わたしは南京大学の学生ではないし、ほかの学部の学生にとって不公平になるなら、参加したくないよ。」と行って学部の主将を説得したのだが、彼は強く私が試合に参加することを望んだ。

彼らは、過去にサッカーの試合で留学生もひとつの学部を代表して参加したことを例に出し、また南京で行われた学校対抗の試合に私が南京大学の学生として参加したことのあることを強調し、主催者側を説得した。

そして、その主催者側の一人であり、わたしの大切な友達の天睿は、深夜にまで渡って先輩を説得して、この私を試合に出させてくれるように頼み込んだ。

 その壮絶なやり取りを知る余地も無かったわたしは、試合前日に、わたしが試合に参加できることになったという知らせにただ驚きを隠せなかった。

それは、交換留学でも何でもない、なんの籍もない他大学の留学生が、南京大学の歴史学部を代表して試合に参加するという前代未聞のケースとなったのだ。

 その背景は、歴史学部のメンバーの努力と、わたしの親友とも呼べる天睿が一生懸命先輩にお願いして叶った、「人情」の賜物であった。
本部からの最終決定は、「南京大学に籍があるなしに関わらず、いま南京大学で学んでいるのなら、南京大学の学生に変わりはない。国際友人の参加を大いに歓迎したい。」というものであった。私はその温かさに感動し、目頭が熱くなった。
 いつものバドミントンの帰り道、樊士庆はいつものようにわたしを校門まで送ってくれた。彼は、私が南京に来たばかりのとき、夜の南京大学を案内してくれて以来、いつもわたしを見つけては、笑顔で手を振ってくれる。わたしのことを心から気遣ってくれる大切な友達の一人である。

私はバトミントンの帰り道、そんな彼に相談を始めた。
 上海に戻って行った論文の構成発表では、前に進むどころか、私はゼロに戻ってしまった。

先生方からは、研究方法と研究方向を大掛かりに変えなければならないと指摘をいただいた。率直に言えば、もう一度書き直しなさいということであった。

私はがっかりを、隠しきれなかった。前に進んでいたはずが、また振り出しに戻ってしまったのだ。そして現在、南京に居ながら、次の目標を見つけることができなくなってしまった。

言い訳を探すことは簡単だが、私の努力不足以外に何でもない。しかし、方向性を見失った今、努力する目標を見つけられずにいる自分がいた。

 そして、生活面の問題。中国の大学では、図書館や食堂、全てにおいて学生カードが必要である。その南京大学の学生カードのないわたしは、どこに行くにもあまり便利ではなかった。
食堂では、注文をしてから食券を買いに行き、その券を手渡すことでやっと食事ができた。

図書館は復旦大学の学生証を見せるほか、本を借りるときは必ず南京大学の学生にお世話になった。そんな私のお願いを、みんな快く受け入れ、手伝ってくれた。しかし、そのこともだんだんとしんどくなった。

それは、体力的にではなく、カードが必要なその度に、自分がこの大学の学生ではないという疎外感を少なからず感じていたからだ。わたしは、気分が良い日に食堂で頼んだごはんをタッパーに入れて持ち帰っては、それを温めて食べていた。そうすることで、食堂に行く回数を削減することができた。
そんな日々の中で、3日前に詰めたごはんを食べてお腹を壊してしまったこともあった。  
       
 彼は私の話をずっと聞いてくれていた。
そして、勉強面のアドバイスから、一つ一つ丁寧に私に話をしてくれた。
ひとつ年下の彼は修士課程一年生だが、修士論文を学部時代に書き上げ、主席で同大学院に入った。

彼は、「誰もがきっと、英未のような問題にぶつかったことがあると思うよ。一つ一つできることからやっていくこと。まず、論文で何を書きたいのか明確に決めること。そして例えば、第一章が書けないなら、第二章、第三章から書く。そうやって繋げていけば、いいんだよ。」
私たちは理系と文系で専攻は全く異なるが、指導教員との接し方など、様々なアドバイスをもらった。
 そして、私の学生カードについて彼は、「なんでもっと早く言ってくれなかったの?僕が明日思い当たる人に聞いてみて、えみのためにカードを借りるよ。」と言ってくれた。

彼は続けた。「自分ひとりでは解決できない問題も、友達に相談したらきっと解決することができる。たとえ解決することができなくても、話すだけで心がほっとするでしょ。大学で知り合った友達は、他の友達と全く違うんだ。困ったときはお互いに助け合うこと。何年後に集まったって、やっぱり昔のようにたわいのない話が出来るんだ。だからえみも、この大学の友達のこと、もっと頼っていいんだよ。」と。

わたしはその言葉を聞いたとき、涙が出そうになった。彼は、私のことをこんなにも理解してくれていたのだ。わたしはもう、ひとりぼっちではないのだと心から思えた。

 私たちは、夜の歩道を照らすライトの下で、話し続けた。というより、彼がずっとわたしを励ましてくれた。
「カードが手に入ったらすぐに、えみに連絡するからね。」
と言って手を振った彼は、二日後にはカードを使わなくなった友達から借りたカードを私に手渡してくれた。
南京大学にいる間はずっと使っていいという。わたしは本当に、南京大学の学生になった。

 12月1日、復旦大学のクラスの担任の先生から、連絡が来た。

12月19日から21日まで、歴史学部で国際学術会議があり、日本語の通訳をぜひ私に担当してほしいということであった。

国際会議は聴きに行ったことがあるが、自分がマイクを持ったことはなかった。ましては、発表者の通訳を担当することなど想像したこともなかった。自分の学部で開催される国際会議、わたしはもちろんその仕事を引き受けた。担当の先生からは感謝の言葉と、応援を受けた。
 しかし、この晴れ晴れしいチャンスのもう片方では、わたしが南京と別れを告げなければならないことも意味していた。

もともと一学期間、南京大学で学ぶことになっていたわたしは、12月末に授業が終わるとともに上海へ帰るつもりだった。しかし、この国際会議のため、10日早く復旦大学へ戻ることが求められた。
 それは、南京でお世話になった愛おしい友達に、あと十数日で別れを告げなければならないということでもあった。

12月2日 南京大学仙林キャンパス図書館にて 吉永英未

南京大学1ヶ月の想い出
2015/11/05


南京大学 日記

 ―2015.11.1日 一月(ひとつき)振りに戻って来た復旦大学から―emiより

自分の部屋のドアを開けるとき、嬉しさで手が震えた。自分の部屋があること、部屋の中にトイレやお風呂が付いていること、学生カードで図書館にすんなりと入れること、食堂でご飯が食べれること、そして何より、これまで友情を育んできた友達と、再会できること。

いままで当たり前のように過ごしてきた日々に、何気なく通り過ぎていたことに、限りない嬉しさを感じた。それは決して大げさなことではない。

それは、言葉で簡単に言い表すことができないほど様々な感情に満ちていた南京での日々が私に気づかせてくれた、大切なものだった。

 7月20日に南京大学を初めて訪れ、次の学期から南京大学で学ぶことが決まってから、わたしはこれからはじまる南京での生活を心から楽しみにしていた。

一年間住み慣れた上海での生活から離れ、新しい環境、新しい友達、新しい学び、新しい生活が始まることにとてもワクワクしていた。

しかし、実際の生活は、わたしの想像していたような美しいものではなかった。

 私は、友達の紹介で南京大学の目の前のアパートに毎月500元(日本円で一万円程度)の家を借りた。

南京大学仙林校区は、南京市内からは地下鉄で約40分と、離れたところにある。

この地区一帯は、ほとんどが大学で、「大学城」と呼ばれているほどだ。南京大学は三つのキャンパスがあり、2009年に建てられたこの仙林キャンパスが一番広く、ほとんどの学部がこのキャンパス内にある。


 そんな南京大学に到着してすぐ、わたしは平和学会などに参加し、とても有意義な一週間を過ごした。

それは、私を受け入れてくださった劉成先生が下さったチャンスだった。

その一週間が過ぎると、中国は国慶節で一週間の休みに入った。
そして、『孤独―loneliness-の7日間』がはじまった。

観光地は人で賑わい、学生のほとんどは故郷の家に帰り、学校はシーンと静まり返った。そして私は、この七日間を上海に戻らず南京で過ごすことを決意した。

それは、まだ来たばかりの南京で、この7日間を過ごすことが自分にとって必要だと思ったからである。

それが、私の「孤独」との戦いになると分かっていたならば、まだ、覚悟が足りなかったように思う。


 国慶節の半ば、私はそんな孤独に耐えられなくなってしまった。

2、3人しかいない友達もみんな実家に帰り、わたしはひとり、この広い大学城に残されてしまった。もちろん、やるべきことは山ほどある。

それは承知でも、一日中誰とも話さない、食堂でおかずを注文するときにこれとこれ」と話すこと以外、人と会話する機会が全く無くなってしまっていた

また、食堂で食券を買うたびに、この大学の学生ではないのだという疎外感も少なからず感じた。

復旦の食堂が寮から歩いて1分の距離にあるのに比べて、南大食堂は大通りを挟んでいるため、自転車で10分弱かかった。

私は、一日のほとんどを自分の部屋で勉強して過ごしていたため、食事のためにわざわざ一人で食堂まで行く気持ちも無くなってしまった。

また、わたしの住んでいるアパートはシェアルームで台所が共同のため、決して清潔とは言えず、とても料理なんてする気にはなれなかった。

そこで、5元で3日分の麺を買い、ステンレス製の鍋に入れ、麺を湯で、日本から持ってきた味噌汁をかけて食べることにした。

何日かすると味噌汁も底をつき、今度はスーパーで買った冷凍餃子を食べることにした。そんな生活が続いていた。

午前中は、イヤホンで英語の会話をひたすら聞きながら、自転車でサイクリングをした。仙林の通りは緑に囲まれ、とても気持ちが良かった。

何より、いい気分転換になった。南京漢方大学やスーパーや市場や湖のある公園など、毎日新しい発見があった。それからというもの、毎朝起きると7時には自転車に乗り、同じコースを辿った。

2時間後に自分の部屋に帰ってきた。

午前中は英語に時間を費やし、午後は研究計画書の作成に頭を悩ませた
 
しかし、気づいたのは、精神面の安定があって初めて、学問が成り立つということである。

復旦では、クラスメイトや日本人の友達、売店のおばちゃんなど、立ち話で5分も話してしまうことがほとんどだった。

しかし、このまだ慣れぬ土地では、そんなたわいない会話も生まれなかった。そして一人になると、考えてもどうしようもないことばかり考えていた。

上海の友達に勇気を持って電話をかけて、弱音を吐いても、結局は「がんばれ」と笑顔をもらえるだけで、会うことはできない。

気がつくと携帯を握りしめてベットの上で子供のように泣いている自分がいた。「こんな孤独はいやだ。上海に帰りたい」そう心が叫んでいた。

 涙を流す日が何度もあったが、私はそのたびに、自分は何しにきたのかを自身に問い続けた。

いま思うと、この孤独との戦いは、しっかりと自分に向き合い会話する必要な機会であったのかもしれない。

7日間の休暇が終わり、私は初めて授業に参加した。平和学の授業は火曜日の夜6時半からである。

   ついに『孤独からの脱出』が出来た。

100人以上もの学生が受けるこの授業で、劉成先生は私のことを紹介して下さり、質問をする際には私に発言をする機会を与えてくださった。


そのため2時間のその授業は、背筋が伸びっぱなしだった。

 そして、新たな友達との出会いも私を勇気づけてくれた。

私は、休日が明けてすぐ、ラケットとシューズを持って体育館へ向かった。
目的はもちろん、バドミントンをするためである。


一人の友達との出会いがまた一人、ひとりと友達を呼び、そして一緒にバドミントンをすることで友達ができた。

そのことが、何よりも嬉しかった。そしてのちに、試合に誘われたり、南京大学のバドミントンチームの練習にも誘われるようになった。


高校時代に必死になって打ち込んだバドミントンが、今花を咲かせてくれたようである。

ある日、数学学部の樊士庆くんに誘われて、バドミントンの後、食堂で一緒に食事をした。

そしてその後、彼の案内のもと学校を見学した。

すでに外は暗くなっていたが、三日月と電灯の光が私たちの行く道を照らしてくれた。

南京大学の敷地内にはなんと、山がある。そして、大気学部や天文学部の研究室はその山の上にあり、まさに自然と一体している。

親切な士慶くんに案内されながら、私たちはその中でも一番低い大気学部の山を登った。

久しぶりに、星を見ることができた。広いキャンパスを見下ろし、南京大学の良さをまた一つ発見した。

 バドミントンで知り合った士慶くんは修士一年生で、その優秀さは飛び抜けていて、学部時代にを修士論文をすでに書き上げてしまったそうだ。私たちは、お互いの話をしながら、夜の大学を探険をした。

南京に来て一ヶ月目の10月25日、私は、南京で出会った二人の友達天睿,赵マと、一足先にささやかな誕生日パーティーを開いた。

小さなケーキを囲い、私たち三人は誕生日を祝った。95年生まれの天睿と、96年生まれの赵マ、そして91年生まれの私。

11月6日、7日、8日にそれぞれ誕生日を迎える私たちは、年齢の壁を越えて、大切な友達となった。

そんな二人は、わたしが論文の構成発表のために、一度上海に戻らなければならないと知り、誕生日会を提案してくれたのだ。

 新しい環境で、衣食住を一から整え、人間関係を一から築くこと。それは、決して容易なことではない。

しかし、新しい土地でも、「平和学を学ぶために南京大学に来た」私のことをたくさんの友達が支えてくれる。

いまや、復旦と南大の両方で先生方や友達が支えてくれている。

そして、日本で応援をしてくださっている人たちがいる。

私に、夢を諦める理由なんて一つもないことに気づく。
 南京大学で学ぶことのできるこの短い期間で、どれだけ成長できるか分からない。

しかし、今置かれている環境に感謝し、逆風の中でも努力を続けること、そして、逆風も自分の受け止め方次第で順風にさえ変わることを私は学んだ。

それは、わたしが南京大学で過ごしたこの一ヶ月で得ることの出来た、小さな、でもかけがえのない収穫であるのかもしれない。

 上海で過ごす残りの二週間、そして戻った先南京で過ごす残りの貴重な学習期間を、大切にしたい。 

 2015年11月1日 一ヶ月ぶりに戻ってきた復旦大学から 吉永英未より

 


平和トレーニングの想い出(南京大学)
2015/10/09


国際青年平和学会        (南京大学)での英未の回憶      
http://www.nihao-kagoshima.jp/hatiki55.html
PDF(縦書きで読み易いので観て下さい)

9月25日から、南京大学に来て、1週間が経ったばかりです。
でも、その収穫と感じたことは、その日数に比例しないものでした。

24日に南京に着いたわたしは、劉成先生に招待され、25日の夜食事会に参加しました。

さまざまな国の平和活動をしているNGOの方や、平和学の教授の方に囲まれて一緒に食事をしました。

わたしは、箸を握るよりも、両隣の先生に夢中になって話しかけました。日本でも上海でも、平和学、平和活動をしている外国人の方々と、こんなにも近くで話をすることは、今までありませんでした「こんな貴重すぎるチャンスはない」、とわたしは思い、つたない英語で必死に質問し、交流をしました。

その日の夜、わたしは劉成先生の家に招かれました。
そこで劉成先生とドイツ人学者Egonとの共著である(出版されたばかりの)平和学の本をいただきました。まだ店に出ていない、こんな貴重な本を頂けたことが嬉しすぎて、スキップをして家まで帰りました。

9月26日、南京大学で開催された国際青年平和学会。劉成先生がまさか私に、発言の機会を与えてくださるとは、思ってもいませんでした。
マイクを持たされて、同時通訳の付いている中で、自分の言葉を発しました。
緊張して、脚まで震えたのは高校時代の学生論文発表会以来のことでした。
そしてここで出会ったイギリスのアレン教授、その奥様の高子さまとの出会いは私にとってかけがえのないものになりました。
短い交流の時間に語り合ったことは、これから人生を歩む上で大きな糧となるような、そんな大切な事ばかりでした。そしてふと笑った高子様の横顔を見ると、お母さんのような気がしてなりませんでした。

28日から30日までの二日間は、平和トレーニングに参加しました。
平和トレーニングってなんだ、とお思いになるかもしれませんね。
この平和トレーニングは、American Friends committee というNGO団体が主催する、平和構築、平和維持のモデルを実践的に考える活動のことです。

模擬国連を想像していただけるとわかりやすいと思います。中国全土から、記者や公務員、大学教授など、選抜された20人の方々がここ南京大学に集まり、4日間の平和トレーニングを行います。使用言語は英語で、職業も年齢もバラバラな方々が朝9時から午後5時まで、そして食事も全てともにします。

そしてわたしもなぜか、このトレーニングに参加することになりました。というのも、「講演があるから見にこれば?」と言われて参加したものが、このような大規模なトレーニングだったということを、後になってやっと知ることができたのです。
講演を聞いた後に、「あなたは今日から来たの?」「はい。」と答えると、組み分けされたグループに入れられ、このトレーニングを受ける一人になってしまったのでした。

上海を離れてわずか3日目で、まさかこのような機会に恵まれるとは思ってもいませんでした。
わたしの周りの方々は新聞記者の方や政治学の教授、公務員と立派な大人の方ばかりなのに、わたしだけが最年少の学生ということで、最初はこれでよいものかと戸惑いました。

そんなとき、劉成先生が駆けつけてくださり、私をみんなに紹介をしてくださいました。こうしてわたしは、残り2日間に迫ったこの平和トレーニングに見学者ではない一参加者メンバーとして参加することになったのです。

このトレーニングで学ぶことは、紛争解決や平和構築の方法、それはまさにわたしが学びたいと思っていたことばかりでした。わたしは、始めて聞く内容に、わくわくし、目をキラキラさせて聞いていました。心から幸せに思いました。
しかし、いざ実践的になトレーニングに入ると、言語は全て英語での討論。わたしは、言語の壁にぶつかりました。
自分の専門分野で、討論に参加して自分の意見を伝えたくても、英語でそれを表現する力が私にはありませんでした。
周りの方々は、アメリカで修士課程を修了した方、海外をレポートする記者の方、国際関係の先生など、英語を自由自在に操ります。
わたしは、自分が悔しくなり、また、焦りました。トレーニングが終わって家に帰るとすぐに英語の勉強を始めました。学校までの行き帰りはずっとイヤホンで英語を聞くようにしました。夢の中でも英語を話していました。

30日、トレーニングが終わり、修了証書の授与式があり、みんな一人ずつ感想を述べました。
わたしも始めて、みんなの前で英語を話しました。
つたない英語で、でも感謝の気持ちをしっかりと伝えました。

「上海を離れて、一人で南京に来て、はっきりいってとても寂しくなるときがありました。でも、この2日間という短い間で、平和というひとつの、同じ目標を持った方たちに出会い、素晴らしい先生のもと一緒に学ばせて頂くことができて、本当に嬉しかったです。そしてこれからも、劉成先生のもとで平和学を学びたいと思います。こんなわたしを仲間に入れてくださり、本当にありがとうございました。」とお礼の頭を下げた途端会場からの思いがけない大きな拍手にわたしはおどろくと共に目頭がじーんと熱くなりました。

10月1日から、中国は国慶節で一週間の長期休暇に入ります。私は、上海に戻らずここ南京の小さな自分の部屋で過ごすことにしました。集中力の高まるこの部屋で、一人でこもって、英語の勉強と、平和学の勉強をすることに心を決めました。

弱音を吐くと、逃げてしまいたいと思うことも少なからずありました。住み慣れた上海の寮と、親しい友達、復旦の食堂、図書館。心地よい場所を離れ、一人で南京に来て、学校の前の小さなアパートに住み、ご飯は毎回「学生証を忘れました」と言って、歩いて25分かかる南京大学の食堂に向かう日々。まだ友達も少なく、これまで復旦で当たり前のように過ごしていた日々がとても恋しくなりました。

でも、わたしは平和学を学ぶために、ここに来たのです。その平和学を、精一杯に学ぶことのできる環境と、素晴らしい先生がここにいる限り、私は諦めません。どんなに寂しくても。

1月から、カンボジアにボランティアに行くチャンスをいただきました。そのチャンスをくださった、カンボジア在住のオーストラリア人EMMAとの出会いは、本当に貴重なもでのでした。彼女が中国を離れる前に言った,「Emi、今度はカンボジアで会いましょう! Keep make peace !」という言葉を信じて、これからも前に前に進んでいきたいと思います。

10月1日 国慶節1日目。すっかり空っぽになってしまった宿舎から

わたしたち8人の夏(2)
2015/08/19


2015年 私たち8人の夏がはじまった。 


 7月28日、学校に来て2日目の朝、私たちはこの小さな村で挨拶回りをした。

学校通常9月から始まるため、現在子供たちは夏休み真っ盛りなのである。

そこで私たちは私たち支教の先生が到着したことを知らせるために、4人ずつ2つのグループに別れ、この小さな村を回った。

最初に学校に駆けつけてくれた3人の男の子を先頭にして、村の人に出会うたびに、「私たちは上海復旦大学からきました。今年の支教の先生です。

もしうちにお子さんがいらっしゃいましたら、ぜひ学校に来てくださいとお伝えください!」と言って回った。

 復旦大学からは毎年この学校に支教の学生(ここでは先生)が来ている。そのため、「今年も良く来たね」と歓迎してくれた。

 午後は上海から持ってきた3つの血圧計を持って全員で検診に出かけた。

この村では、医者が一人しかいない。また医療費もかかるため、ほとんどの高齢者の方々は定期的に病院に検診に行くことができない。

私たちは、医学部の4人の学生を先頭に、鼓楼と呼ばれる木で出来た人々の集まる場所に行き、おじいさんやおばあさんに声をかけた。


「私たちは復旦大学の医学部の学生です。最近お身体の調子はいかがですか?血圧を測りますね。」私たちは、高齢者の方一人ひとりの血圧を測って周り、医学部の学生はそれぞれ健康に関するアドバイスを行った。お年寄りの方は方言しか話さないため、子供たちに通訳をしてもらった。

この検診は健康診断だけでなく、村の人たちとの警戒を取る大切な交流となった。


 3日目の朝、校長先生に学校から離れた小さなスーパーのある町に連れて行ってもらった。私たちは生活に必要なものを買い揃えた。


明日からいよいよ、授業開始である。たくさんの学生たちが集まってくれるだろうか不安を抱えたまま、私たちは授業一日目を待った。

授業一日目

 授業は午前中3コマ、午後2コマの5コマである。昼間は暑いため、11時半から14時まで長い昼休みを取るのは、この小学校の習慣に合わせた。

 8時半になると、教室いっぱいに子供たちが集まっていた。子供たちが来てくれるか心配していた私たちは思わずほっとした。私たち8人は自己紹介をすると、自分が教える教科の特色などを説明した。わたしは、音楽と道徳を受け持つことになっていた。

 子供たちに、自己紹介したあと、午後からは本格的に授業が始まった。

わたしは、音楽の時間に森山直太朗の「さくら」を子供達と一緒に練習した。


子供たちにとって日本語に触れるのは初めてで、日本語で歌を歌えるものだろうか、と思われるだろうが、子供たちの耳は素晴らしく、歌いだすと全く、外国語で歌っているようには聞こえなかった。


わたしは以前に上海で子供たちに日本語を教えるボランティアをしたことがあったため、スムーズに授業を進めることができた。

子供たちは、歌詞を覚えることは難しそうであったが、授業が終わっても、「さくら、さくら」と日本を代表する花の名前はみんな言えるようになっていた。私の2週間の支教生活は、さくらの歌とともに幕を開けた。

支教生活
 長い昼休みに、ほかのメンバーがお昼寝しているのをよそに、わたしは毎日子供たちと一緒に山登りに行った。
村を取り囲む山は緑一色で、登る過程で山の湧き水にも触れることができる。


子供たちはその水で喉を潤した。山の上からは、小学校や村全体を見下ろすことができた。

これまでに見たことのない、緑の美しい景色をみるために、わたしは毎回山に登った。

山登りでは、わたしが学生で、子供たちが先生である。「この実は食べられるよ」と言って、野いちごとってくれたり、(たくさん食べていたら、いつの間にか舌が紫になっていた。)


「この葉っぱは〜の薬になるから、500グラム10元で売れるよ。」と教えてくれたりと、山に関しての知識は、子供たちの身体に身についていた。わたしは子供たちを先頭に、毎日山登りを楽しんだ。

 午後の授業が終わると、みんなで近くの川に行って泳いだ。最初は足をつけるだけだったのだが、子供たちが2メートルほどの崖から飛び降りて川に入っていくのを見て、わたしも挑戦したくなり、2日目にして飛び込んでみた。

勇気を振り絞ってみると、本当に気持ちが良いものである。わたしは子供に戻って、こどもに戻り、無邪気に水遊びを楽しんだ。


 夜のミーティングのあと、女子の宿舎に戻ると、おしゃべり会がはじまる。女の子は本当に、おしゃべり好きである。ここでの話の話題のほとんどが、恋愛についてであったため、彼氏のいないわたしはあまり付いていくことができなかった。


でも、一週間も生活を共にしていると、私たちは学年や専攻を越え、お互い信頼できる仲間になっていた。

  また、私たち女子の5人部屋には、毎晩様々な虫が挨拶に来た。


たまにねずみも現れた。わたしはそれらのものに対してあまり恐怖心はないのだが、ねずみや特大蜘蛛を目にした部員の叫び声の方に驚いて起きることが何度もあった。

寝る前は女子全員でお手洗いを済ませ、ベットの至るところに虫除けスプレーを振って、タオルケットで身体を覆うようにして寝た。


それでも、毎朝新たな場所が蚊に噛まれていた。

 そんな支教も後半一週間にさしかかった頃、 最初は何もかも新鮮であったこの学校での生活を、辛く感じるようになった。

わたしはとっても上海に帰りたくなった。この山の中では、インターネットもなければ携帯電話の電波もない。山の外にいる誰とも連絡が取れない。

かつて当たり前のように身近にあった様々なものが急に恋しくなった。

山の中の学校なので、停電や停水は日常茶飯事で、私たちはそれが同時に停まらないことを祈っていた。


一日三度の食事の他に、間食することはなかった。
というのも、食べる物が何もないためである。毎回の食事は、芋や青野菜などを中心に三種類の野菜と、おかわり自由の白ご飯である。


わたしは、男子学生がおとなしく一杯しか食べていないのをよそに、毎回2杯のごはんを食べていた。
 ホームシックになり職員室で泣きべそをかきながらいつものように日記を書いていると、部員の郭继尧はわたしに、「この映画知ってる?」といって話しかけてきた。

それは、日本の映画で、都会から来た主人公の青年が田舎で植木の仕事をする物語であった。

都会との生活のギャップに悪戦苦闘しながらも、最後まで諦めず仕事を続ける青年の姿に感動し、村人たちはだんだん都会から来た彼を仲間として認めるようになっていた。


そして主人公は村の伝統行事に参加することになる。

 わたしは主人公と今の自分を重ねた。郭继尧と一緒に見たこの映画は、ホームシックになっていたわたしに、もうひと踏ん張りする勇気を与えてくれた。次の日から、わたしは気持ちを入れ替えて支教に望んだ。

 
 それからの一週間はあっという間に過ぎていったように思う。道徳の授業では、虫や小動物を平気で殺してしまう子供たちに、命の教育を行った。

「私たちにお父さんとお母さんがいるように、虫にもねずみにも家族が居るんだよ。」たくさんの動物の絵を書いてわたしは、すべての命の尊さを訴えた。


また、アメリカの大統領の命の重さも、私たちの命の重さも同じで、命はお金や権利の大きさで図ることができない、すべてが尊いのだということを一生懸命にこどもたちに訴えた。

それから、子供たちと一緒に山に登るたびに、生き物を捕まえた子供たちは私に嬉しそうに見せてくる。


「えみ先生、カエルとったよ!」わたしは一瞬ぞっとするが、「すごいね。畑にに返してあげてね。」と言うと、「うん。お父さんとお母さんの元に返してあげる」といって畑に逃がした。教育の成果を、目に見て感じ取ることができた。

軍隊と平和学と 決して矛盾ではない

 子供たちは、元気いっぱいでいつも騒がしいため、ひとりの先生が授業しているとき、だれかがサポーターとして入っていた。


ある郭继尧の中国の軍隊の歴史の授業で、わたしがサポーターを勤めていたときのこと。郭继尧の話す歴史をわたしも熱心に聴いていたのだが、授業も残り30分になったころ、彼はいきなり私の目を見て話しだした。

「みんなも知っているように、えみ先生は日本人だよね。昔、中国と日本は戦争をした。日本を憎いと思っている人もいると思う。


でも、僕はえみ先生のことを心から尊敬しているし、これからも良き友達、仲間でありたいと思っている。


政府間の関係がどうであれ、僕たち民間交流の絆は固くて尊い。切ることができないんだ。えみ先生が君たちに関心を持ってこの学校に来てくれたことをみんな感謝しようね。


そして、残り時間はえみ先生に宛てて、手紙を書いて欲しい。」

 わたしは、思わず口をあんぐり開けてしまった。まさか彼が軍隊の歴史の授業で私を取り上げ、日本と中国の民間交流の平和を語るとは思ってもいなかった。


ましてや、最後に私宛に手紙を書いてもらうなんて、サポーターとしてたまたま教室に入った時には想像もしていなかった。

 授業の最後、子供たち一人ひとりがわたしに手紙をくれた。心のこもった手紙には、

「えみ先生を一度も外国人の先生として見たことはありませんでした。わざわざ遠くから来てくれてありがとう。」


「過去の歴史がどうであれ、私たちはみんな平和を願う国民です。私たちの最初の日本人の先生になってくれてありがとう。」など、数々の手紙を受け取った。


子供たち一人ひとりにお礼を言うとともに、この授業を繰り広げた軍医大学の郭继尧の温かい言葉に胸が熱くなった。


音楽の授業のボイコット
 ある日の音楽の授業のこと。筷子兄弟の「父亲」という歌の歌詞を黒板に書いていると、「その歌知ってる。」と言って、わたしが教える前に、子供たちは歌いだした。

「なんで知っているの?」と聞くと、歌詞がとても感動するからすぐに覚えたという。

私も嬉しくなって、それならば座って歌うのではなくて、後ろの方に全員並んで歌ってみようと言った。私自身が、小中学校の音楽の授業でそう学んできたように。

 ところが、後ろに並んでくださいと指示を出したところで、子供たちはいっこうに動こうとしない。


普段木登りや逆立ちなど教室を走り回っているこどもたちが、「後ろに立って並ぶ」という動作をしようとしない。


わたしが何度かお願いすると、子供たちの大半は後ろに並んで「早く歌おうよ!」と言ってくれた。


しかし、ふだん大人しく成績の優秀な学生数名が、いっこうに席を立とうとしない。わたしは一人ひとり歩み寄って、なぜ並んで歌おうとしないのかと尋ねた。


すると、返ってきた答えは、「疲れたから」「並びたくない」であった。
わたしは、先生として盛り上がっていた気持ちが一気に冷めていくのが分かった。

一言で言うと、「ショック」であった。授業は止めることができないため、後ろに並んだ学生だけで引き続き歌を歌ったが、私の頭の中は「なぜ?」という疑問でいっぱいだった。

結局、私に一番なついていた女の子を含む10名弱の学生は、最後まで自分の席から動こうとしなかった。
わたしは音楽の時間を早めに切り上げ、教室の子供たちに話をした。

 「今日の出来事は、先生にとって、とても驚いたし、正直、大きなショックを受けました。これまで、この何日間、わたしは、自分が本当の先生なのだと思い込んでいました。


でも、、、私はあなたたちの面倒を2週間しか見ることができない。無責任な先生と思われても仕方がない。


私に対して今日のような態度をとっても、構わない。でも、9月から新しい学期が始まったら、先生に対して、同じような態度をとらないで欲しい。


なぜなら、先生はとっても傷つくだろうから。」私は、思ったことを率直に子供たちに話した。


教室は静かになり、私も静かに教室を出て行った。
誰とも話す気にはなれず、先生をしていた自分がバカバカしくなって、泣きたくなった。

職員室に戻ると、部員に今日あった出来事を話した。ひとり、またひとりと慰めとアドバイスをくれた。

「こういう時には美味しいものを食べて元気を出して。」といって1元のアイスを買って来てくれた部員もいた。

 ベットに横になっていると、子供たちがいつものように山登りに行こうと誘ってきた。私は、気持ちを切り替えるために、外に出た。


すると、座って一向に動かなかった学生のひとり、私に最もなついていた女の子も寄ってきた。

「先生ごめんなさい。わざとじゃなかったの」そう言い、私たちと一緒に山に登りたいと言った。


私は、「大丈夫だよ。気にししなくて。」というと、何事もなかったように学校を出発した。

山登りの間、彼女はずっと私の手を握っていた。内気な彼女は本当は山登りなど好きではと以前話していた。
なのに、今日は私たちと一緒に汗びっしょりいなりながら、高く高く登った。

それが彼女の精一杯の誠意だということを、私は心から理解した。

 この経験は、これまで順調に授業を進めていた私に立ち止まるきっかけを与えてくれた。

わたしは深く反省した。

いきなりふりだしに引き戻されたような気持ちで、先生としての役割を改めて考えさせられた。

この出来事に悲しみを隠せなかったのは事実である。だが、この経験が、私と彼女を、成長させたことは間違いないだろう。

別れと旅立ち

 授業最終日、私はリーダーにもう一度授業をさせてもらえないかと頼んだ。

最後に道徳の授業をしたかった。私は、ボイコットの出来事も含め、これまでの授業で伝えきれなかったことを子供たちに真っ直ぐに伝えたかった。

10歳未満の子供たちには、すこし難しかったかもしれない。でも、いつか大きくなってその言葉の意味が分かるようになったとき、思い出して欲しいと思った。


 道徳のある人になること。人のために尽くすこと。すると知らぬ間に、自分が幸せになっていることに気づくでしょう。

命を大切にすること。トンボもねずみも、命あってこの世に生まれてきたということ、そして彼らにも家族がいるのだということ。ありがとう、ごめんなさいをきちんということ。


黒板いっぱいに書いた私から伝えられる子供たちへの最後のメッセージを、子供たちはノートに書き留めていた。

 最終日の夜、たくさんの学生が、「先生、私の家にご飯に食べに来てください」と誘ってくれた。私たちは、最後のごはんを8人それぞれが違う家で食べることにした。

 子供達の住んでいる「家」は、木で作られている。
この「家」の様子は、言葉で表現しがたい。というのも、私たちは、この村の「家」にとにかく驚いてしまったからである。
 
木で作られたこの「家」は、一階が牛や豚などの動物で、薄い板を挟んで二階に人々が暮らしている。
ベットもなければ、電気すらない。

料理をするときは懐中電灯を持って野菜を炒める。コンロもないので、集めてきた薪で火を起こす。

電気がないので火がくれないうちにごはんを済ませるのである。原始時代にタイムスリップしたような感じがした。

上海からきた私たち部員は、なんの悪気もなく、ただ一言思わず口から出てしまったのは、「これが家。。。?」であった。


それほど、この農村の家は私たちの想像を遥かに超えたものであった。
 わたしが招待された女の子の家では、彼女の両親もちょうど出稼ぎから帰ってきていて、精一杯のおもてなしを受けた。


この村で過ごす最後の夜を、温かい家族に包まれて過ごした。
 8月11日、早朝の出発だったにも関わらず、たくさんの子供たちが見送りに来てくれた。私たちは、涙をにじませながら、二週間過ごしたこの村を後にした。


 2015年夏。湖南省怀化通道县上岩完小学で過ごした支教生活。8人の仲間の支えと、子供たちの笑顔に支えられて、わたしはここまで歩いてこれた。


子供達の笑顔を、仲間たちの優しさを、わたしは一生忘れることがないだろう。
 
みんなありがとう。

2015 わたしたちの夏(1)
2015/08/19


  2015年8月私たちの夏 はじまり 

― 8月16日の午後―
私は20日間留守にしていた上海の部屋に帰ってきた。
鏡には、日焼けして真っ黒になった自分の姿が写っていた。手足は蚊に噛まれた跡が今でも残っている。

でも、決してがっかりはしない。鏡に映る、以前よりも一周り成長した自分を、わたしは誇りに思った。
 
 「支教」とは―大学生が貧困地区の小中学校に短期間滞在し、学校に寝泊まりしながら子供たちに教育を提供するボランティア活動のことである。

かかる費用は派遣先の学校場所によって様々だが、私の場合、交通費と学校での食事や宿泊費を含めて、参加費は2000元弱だった。

都市に住む私達にとって、過酷な環境で過ごす上、費用も学生にとって決して安いとは言えない。しかし、この支教には、毎年たくさんの応募があり、書類審査と面接、訓練を経て選ばれた学生が10人ほどずつ、中国各地の貧困地区の学校に赴く。

 
 私が参加しようと思ったのは、「変形計」というテレビ番組がきかっけである。2012年、当時大連に留学していた私は、初めてこのテレビ番組を見た。


変形計とは、都市に住む子供と、貧困地区に住む子供を7日間交換するというドキュメント番組である。

お互い見知らぬ土地で生活し、その土地に住む人々と出会い、成長していく子供の姿を描いたドキュメント番組は、湖南テレビ局で毎週土曜日に放送されている。

農村の純粋な子供達が大都市のマンモス校に通い、様々な人たちに支えられながら頑張る姿は、知らぬ間に大都市の人たちを感動させた。

大都市のこどもは田舎の暮らしに悪戦苦闘しつつも、だんだんと馴染み、7日後には涙を流しながら村を去る。ここでは長く書けないが、わたしは毎回涙を流しながら見ていた。

 その変形計から学び取ることのできる中国の農村の現状は、私の想像を遥かに超えたものであった。

日本にも農村はあるが、全ての子供たちは義務教育を受けることができ、毎日3度の食事を食べることができる。

しかし、中国貧困地区の子供たちは、朝まだ夜が明けないうちに家を出て、薪を拾いながら3時間の道のりを歩き、やっと学校へ着く。


不十分な環境の学校で大好きな勉強をして、昼は芋や野菜の給食を食べる。一日のうち、その1食しか食べることのできない子供たちがほとんどである。


また、子供たちの両親は農村から離れた街に出稼ぎに出て子供たちの学費や生活費を稼いでいる。そのため、両親に会うことができるのは一年に2回だけという子供がほとんどである。


 そんな現状を知り、私は、「中国へ留学したら、ぜったい支教に参加する。」と決意した。以下は、私の応募用紙の一部である。

 
 「私は、中国人ではない。だから、国語を教えることも、大学受験に合格するための勉強も教えることはできない。

また、たった2週間の支教で、子供たちに十分な教育を提供することもできない。

でも、たったひとつ、私が子供たちに伝えたいことは、『ひとりの外国人が、あなたたちのことに関心を持ち、少しでも力になりたいと思っていること』。


農村に住む子供たちのほとんどは、両親が出稼ぎに行き、おじいさんやおばあさんと生活している。母を失った私は、子供たちの切なさが痛いほどに分かる。


私は子供たちに、私の伝えることのできる「愛」を精一杯に伝えたい。

そして愛や音楽、文化は国境をも超えることができること、努力をすれば夢は必ず叶うのだということを伝えたい。」


 私は自らの支教に対する考えと情熱を、応募用紙いっぱいに書いた。「あなたの応募用紙を見て感動しました。ぜひ面接に来てください。」


復旦大学の2つの支教ボランティア団体から面接の知らせが届いた。

 面接に合格し、2週間に一回の勉強会と体力テスト、様々な訓練を経て、
いよいよ7月27日出発の日を迎えた。


上海南駅―桂林駅 列車に揺られて

 7月27日、登山リュックと二日分の食料と水を入れた手荷物バックを持って、私は上海南駅に到着した。


駅までは、先輩のみずきさんと博士課程の公為明先輩が送ってくださった。これから始まる支教の旅に、どきどきワクワクしながら、ほかのメンバーの到着を待った。


 最初に着いていたのは第二軍医大学の郭继尧である。わたしは彼と一緒に切符を取りに行った。


午後4時半の発車時間を前に、仲間たちが次々と駅に到着した。
ここで、2週間の支教を共にした女子5名、男子3名合計8人の仲間たちを紹介したいと思う。


リーダー   劉昭  復旦大学医学部5年制(9月から4年生)
副リーダー 吉永英未 復旦大学歴史学部修士3年制(9月から修士2年生)
 経理   郭继尧  第二軍医大学8年制(9月から3年生)
カメラ   丁佳琳  復旦大学学生物化学学部 (9月から2年生)
 部員   阿晔岭  復旦大学8年制臨床医学部(9月から2年生)
 部員   朱容惠  復旦大学医学部5年制(9月から3年生)
部員   朱奇苗  上海NY大学 国際貿易学部(9月チェコに留学)
部員   Donnie(US) 復旦大学国際関係学部修士(9月から修士2年生)
 

 ご覧いただけたように、私たちグループの最大の特徴は8人の部員のうち、4人の部員が医学部ということである。

このことを活かして、私たちはのちに、農村で医療活動も行うことになる。


 私たちを乗せた列車は、予定通り午後4時16分にゆっくりと動き出した。

上海から桂林までは、約21時間である。私たちは、列車の中でお互いについて語り合った。


リーダーであり、医学部の中で一番年上の劉昭は、後輩たちに授業や実験の際の様々なアドバイス行った。

医者の卵の三人はとても熱心に聞いていた。わたしは、上海NY大学の奇苗と、彼女の行ったことのある国、わたしの行ったことのある国について語り合った。

イスラエルやエジプトにもいったことのある彼女の経験は、私にとってとても新鮮だった。

彼女は、自分の大学である上海ニューヨーク大学の特色に似合ったように、これから大きく羽ばたこうとしていた。

 また、これから行う日程や教案についても、全員で打ち合わせをした。


のちに一番仲良くなる第二軍医大学の郭继尧は、心配そうに私にこう言った。

「僕が教えるのは中国の軍隊の歴史について、えみが教えるのは平和学。僕たちもしかして矛盾しているのかな?」一瞬気まずい空気が流れたが、その空気も「私達はみんな平和を願ってる。

二人の夢も、自らの願う平和のためだもんね。」というリーダーの言葉でかき消された。

 ありとあらゆる揺られる乗り物に乗るとすぐに寝てしまうのが私の癖である。

消灯前に列車の3段ベットの真ん中に横になった私が、次に目を開けた頃、空はすでに明るくなっていた。



桂林駅で 外地人として

 私たちはお昼前に桂林駅に着いた。朝目覚めると緑いっぱいの、上海とは全く異なる景色に、メンバー全員が「わ〜!」と声を上げた。


 喜びもつかの間、私たちは駅を出るとたくさんの「黒車」の運転手たちに囲まれてしまった。


中国各地の駅の前には「黒車」と呼ばれる正式ではないタクシーの運転手が、待ち伏せしている。
その土地に慣れない旅行客に「どこへ行くんだ?乗せていくよ!」と言ってくる。


大きなスーツケースと登山リュックを背負った私たちは彼らにとって絶好の顧客である。

私たちは彼ら黒車のおじさんたちの合間を逃げるように、抜け出した。

そして自分たちで公共機関を利用して学校へ向かおうとした。

しかし、おじさんたちはしつこいほどについてくる。私たちは、ボランティア先の校長先生に教えてもらった住所をもとに歩き出したが、おじさんたちは私たちを取り囲んで

「そっちに駅はないよ。」

「おれの車に乗ったら目的地まですぐ連れて行ってあげるよ。」
としっこく言ってくる。


わたしは最後までこの黒車に乗ることに反対していたが、おじさんたちに前を封じられ、炎天下のなか、見知らぬ土地で荷物を持ってバスを探すのも困難と判断したリーダーの決断のもと私たちは仕方なくこの黒車にのり、汽車駅に行くことにした。

幸い、全員同じ大きなワゴンに乗り込むことができたのだが、私たちはまんまと、このおじさんに騙されてしまうことになる。

 地図上では近い距離なのに、車はいっこうに目的地につかない。

それどころか目的地から外れているようにも思う。

しかし、メンバー全員が天津や河北など桂林出身ではないため、「これが近道だよ」というおじさんの言葉を疑うことはできない。

やっと着いた汽車駅で私たちはほっとして高額の100元を支払った。

 これで終われば、まだよかったのだが、私たちが汽車駅から次のバスに乗り込もうとしたとき、この黒車のおじさんはまた私たちのもとに走り寄ってきた。


バスに乗り込もうとする私たちの前にはだかり、「お前たち、このバスには乗らせないぞ。絶対に逃げさせない!」私たちは思わず、おじさんの言葉を疑った。

「一体どういうことですか?」二人の男子メンバーが尋ねると、片手にタバコとライターを持ったおじさんはこう言った。

「いまタバコを買いに行ったら、この100元札が偽札だと言われて突き返された。一体どういうことだ!?」
私たちはすぐに反論した。

「そんなはずはありません。私たちは上海から着いたばかりです。このお金が偽札であるはずがありません。」
しかし、激怒したこのおじさんはバスに乗ろうとする私たちをの前にはだかり、一歩も譲らない。

私たちは分かっていた。このおじさんの持っている100元札こそが偽物で、おじさんはまた、私たちから100元を騙し取ろうとしていることを。

バスの出発を前にもめているため、バスはいっこうに動くことができない。バスの運転手さんは、「早く新しい100元札と交換してバスに乗れ。」と急かしてくる。

メンバーの阿晔岭は仕方なく、新しい100元札を渡し、私たちはようやくバスに乗り込んだ。
 「なんてひどいひとだ。」

悔しい思いをした私たちは、次々と不満をこぼした。
中国には様々な騙し人がいるが、このような手法に出会ったのは私たちみな初めてである。

私が、「警察を呼べばよかったのに。」と言うと、リーダーの劉昭が分析を経てこう言った。「あの場所全体は彼らの領域。

騙してきたおじさんも、バスの運転手も、警察もみんな顔見知り。そして私たちは外から来た右も左も分からない人たち。

私たちはこの土地の方言もわからないし、彼らがグルになって騙してきたら、私たちはどうすることもできない。

彼らがこうやって騙してきた人たちも少なくないよ。」と教えてくれた。

ボランティアのためにやってきた見知らぬ土地で、着いてすぐ騙されてしまった私たちは、「これからは絶対に黒車に乗らないようにしよう。」と誓い合った。
 

 バスとバスを乗り継ぎ、私たちは支教先の小学校を目指した。学校といっても、駅から何分という距離にあるわけでは決してない。


5時間凸凹道を上り、また乗り換えては3時間緑一色の道を進んだ。

ボランティア先の学校は、農村地区の中の中にある。山を越えて緑のトンネルをくぐって、私たちは山の中へ中へと入っていった。

その緑だけの景色に、私たちは、「いままで私たちが想像していた農村というのは、本当の農村ではなかったね。これこそが、本当の農村だよ」と口を合わせて言い合った。

本当に、此処こそが想像を超えた「田舎のなかの田舎」だった。

 学校までは、校長先生の友人の運転するワゴンで向かった。

下ろされたのは小学校へと続く急な坂道の下、私たちはスーツケースと、支教のために用意した子供たちへの文房具や授業で使う材料を両手いっぱいに持って、最後の坂を登った。

やっと学校へ到着したとき、時計はすでに午後7時を回っていた。

 校長先生と奥さんの歓迎を受けながら私たちは夕食をとった。

現地で食べる最初のごはんは、地元で採れた野菜と温かい白ご飯だった。


肉や魚は一切なかったが、小さなテーブルに8人で丸くなって食べるご飯は、上海で食べたどんな高いレストランで食べるご飯よりも美味しく感じた。

 ケータイの電波もなく、インターネット環境もないこの山の中の学校で、これから、始まる2週間に様々な期待を乗せて、私たちは宿舎の硬いベットに横になった。時計はまだ、10時にもなっていなかった。

別れの七月、出発の七月
2015/07/26


              2015年7月  吉永英未

別れの7月 出発(たびだち)の7月
 
 「時が過ぎるのはあっという間」という言葉はあまりにもありきたりだから使いたくはない。
でもその言葉以外に今は浮かんで来ることばが見つからない。

本当に、あっという間の一年間だった。
中国の7月は、日本にとっての3月。別れの時期(とき)である。

 7月3日は、大好きな先輩の卒業式だった。
朝8時、王章玉先輩から電話があった。「僕たち、卒業写真撮ってるから、えみもおいでよ。」

「今から? わかった!」まるでいきなりの電話に驚いたようなフリをしてみたが、連絡が来ることは分かっていた。なぜなら今日が、先輩と過ごす最後の日だから。

 卒業服に身を包んだ先輩たちは、一段と大きく見えた。
私は、玉先輩のカメラを首にかけて、学内の先輩たちの思い出の場所を一緒に回った。

学部から修士まで7年間過ごした彼らの学園への思い入れを、私には想像することしかできない。

図書館、学内のバス停、24時間開放している徹夜の257教室、毎日ゆで卵を買う売店、復旦タワーの向かいの美しい緑の広場。

広すぎる学内を私たちは汗をかきながら回った。

 お昼ご飯を一緒にしたあと、先輩たちは卒業式に向かった。今年から規制が厳しくなり、卒業式の会場には本人と保護者しか入れなくなっていた。
私は自分の部屋に戻り、着々と夜の準備を始めた。

 卒業式のあと、先輩方は大学を離れてしまう。とくに玉先輩は深圳という上海から遠く離れた街に行ってしまうので、今日が本当に、最後の日だということをみんなは言わずとも分かっていた。

私は、お世話になった7人の先輩のために、卒業式の日は最高のおもてなしをするつもりだった。

 部屋に戻ると、初めてピザの出前を取った。

外でご飯を食べるのも良いが、私が上海で最初の誕生日を自分の部屋でたくさんの友達に囲まれて迎えたように、卒業式の日も同じように、わたしの部屋で先輩たちを温かく迎えたかった。


6時になると先輩方が私の部屋に集まって来た。

私達はピザを食べ終わると、みんなんで丸くなってゲームを始めた。こういう時に仕切るのは、はやり玉先輩である。小さな部屋はたちまち笑いに包まれた。

8時になると、私たちはカラオケへと向かった。

今日は奮発して、すべてのおもてなしをしようと決めていた。

父とはあらかじめ打ち合わせ済みだった。「本当にお世話になった先輩なので、精一杯おもてなししてください。そのときはぜひ、お父さんのカードを使ってください。」

私は約束通り、父のカードを使って、カラオケルーム500元(1万円)の支払いを済ませた。

 何度も乾杯しながら、私達は歌った。別れを惜しみながら。カラオケの最後、玉先輩が、博士課程一年の李颖先輩にこう言った。


「おれたちは卒業するから、あとはえみを頼んだぞ。えみが誰かにいじめられていたら、絶対助けるんだぞ。えみにいじめられたら、俺たちに言ってくれ。」

冗談交じりでそう言った玉先輩の言葉から、優しさと切なさが伝わり、目頭が熱くなった。


私は先輩方にスポーツ服と手紙のプレゼントを渡した。遠くに行ってしまう玉先輩には、自分で編んだミサンガを渡した。

 別れ際、私は玉先輩と大きなハグをした。

「做好自己。」玉先輩は私にそう言った。玉先輩がいつもわたしにかける言葉である。Make yourself.日本語では、「自分の道を生きよ。」と訳すことができるかもしれない。私の誕生日の時に玉先輩が贈ってくれたのもこの言葉だった。


玉先輩が北朝鮮に旅行に行ったとき、そこから送られてきたポストカードにも同じ言葉が書かれていた。

「坚持做自己」。その簡単な一言に、先輩からの最大の励ましとエールが包まれていた。

厳しい指摘を受けることも、私の考えを鋭い論理で反論するときも、間違っていることを気づかせてくれたのも、玉先輩だった。


玉先輩は、私の言うことをすべて同意することはなかった。「えみの考えは素晴らしいと思うけど、ぼくは〜だと想う。」いつもそう言っては私に立ち止まるチャンスを与えてくれた。


でも、そんな先輩が贈る言葉はいつも、「自分らしく生きなさい。」という言葉だった。それは、卒業して遠く離れて行ってしまうときも同じだった。

 「僕らがえみを送るよ。」そう言って、私が寮に戻るうしろ姿を先輩方が見送ってくれた。

先輩たちに背を向けて横断歩道を渡ったあと、私はまた先輩たちのもとに戻ってきてしまった。

中国語には「舍不得」という言葉がある。「手放すのが惜しい。別れるのが惜しい。」という意味だと思う。私は、先輩たちが舍不得でたまらなかった。
先輩たちのいない日常なんて、想像できなかった。

でもこれからは、先輩たちのいない中で、成長していかなければならない。大好きな先輩たちの卒業は、私にとって大きな試練だった。

私は二度目のハグをすると、横断歩道の向かいに渡り、今度は走って振り返らなかった。


電話やメールでいつでも連絡ができるとはいえ、毎日会うことができないのは、やはり辛い。でも、それを乗り越えて強くなること。


先輩方が残してくれたのは、かけがえのない思い出だった。これからどんなことがあってもくじけずに歩いていこうと決意して、私は涙を拭いた。

        上海の風

 7月の第三週、私は風邪を引いてしまった。おそらく、クーラーからでてきたカビから感染した恐れがある、夏風邪にかかってしまった。

最初は、喉の痛みから始まったのだが、その後熱や頭痛が襲い、大学内の病院に行った。「風邪」と診断されたが、調子の悪さはその後一週間続くこととなった。

もともと行く予定だった杭州の研修も、欠席せざるを得なかった。

 しかし、ひとつだけ、絶対に成さなければならないことがあった。それは、南京に行くことである。

私は、7月21日に南京大学の平和学の劉成先生に南京大学で面談をする約束をしていた。頭痛が治らないなか、私は7月20日12時の新幹線で南京に向かった。


 駅に着くと友達の張くんが迎えに来てくれていた。荷物をユースホステルに置くと、張くんが南京の観光地を案内してくれた。

途中で咳の発作があったが、じっとしているよりも汗をかいたほうが早く治ると聞いていたので、そのまま歩き続けた。


そして何より、南京に来たら治るんだ、治さなければいけないんだという気持ちが足を動かした。


 夜ご飯は南京大学老校区の食堂でで張くんにご馳走してもらった。南京大学老校区の建物はまるで、昭和時代にタイムスリップしたようだった。

市内の中心にある大学は、周りをビルに囲まれて、まさかここに大学があるとは想像もつかないところにある。

1902年に建てられた南京大学は、時の流れを感じさせない古い建物が立ち並んでいる。

時とともに瞬く間に変化していくのは、大学の周りの町並みの方だった。
 21日、前日は咳で寝付けず、頭痛とともに目覚めた。

この日は、南京大学劉成先生にお会いする大切な日である。私は身支度を済ませ、地下鉄に乗った。

上海と異なり、南京は蒸し暑い。地下鉄に1時間揺られ、南京大学新校区の地下鉄駅にやっと着いた。

劉成先生と9時半にこの駅でお会いする約束をしていた。
私はというと、体調がすぐれない状態で、吐き気まで催していた。

「今日は会えないかもしれない。」ということが頭をよぎったが、ここまできて会わないという選択肢はない。

 9時半、地下鉄の駅の前で初めて劉成先生とお会いした。

先生は、「よく来てくれたね。南京大学へようこそ」と言ってくださった。「いまから学内を案内しよう!」劉成先生の案内のもと、私たちは南京大学新校区を見学して回った。


中国の大学はとにかく大きい。その大きさといえば、学内にバス停があることを想像して頂ければ分かるだろう。自転車などの手段がなければ、授業に間に合うことができない。


 きつい身体をじっと堪えて、わたしは笑顔でいるように心がけた。歴史学部は建てられたばかりで、すべての研究室も教室もからっぽだった。


「9月には研究室も教室もすべて揃っているよ。

授業が始まるから、すべて揃わないといけないんだ。」先生の研究室に案内され、何も空っぽの研究室の前で写真を撮った。歴史学部の見学が終わると、大学のホテルの下のレストランでお茶を飲むことにした。ここからが、私の重要なときである。


 ボイスレコーダーのスイッチを入れると同時に、私の中のスイッチも入った。わたしはまず自己紹介をした。その始まりは、中国では必ず聞かれる質問「あなたはなぜ中国で勉強しているのですか?」という質問の答えからだった。

「2012年大連外国語大学に留学していたとき、尖閣諸島問題による日中関係の緊張を目の当たりにし、このままではいけないと考えて、中国の大学院に行くことを決意しました。」


 私が自己紹介を終えると、今度は劉成先生が自己紹介をしてくださった。

劉成先生は、2003年にイギリスに留学した際、平和学という学問に初めて触れ、この学問を中国で発展させたいと思い、中国では初めて、南京大学で平和学という授業を開講した。

現在は国連平和学会に出席したり、中国国内で平和講座行っているほか、平和会議のために日本にも何度か訪問されている。

 わたしは、あらかじめ用意していた質問をひとつずつ聞いていった。劉成先生は、分かりやすく丁寧に答えてくださった。


お昼になると、「僕にお昼をご馳走させてね」といって、食事を挟みながら交流を続けた。

優しくて親切な先生は、私の心の壁をも溶かしていった。

私が、自分の体調がすぐれないこと、いままで見られない症状があり、自分が重い病気になったのかもしれないと心配していることを話すと、「病は気からだよ」という言葉からはじまり、私を励ましてくださった。

「ガンかもしれない。と疑ってたら本当にガンになるよ。あなたの症状を聞くと、そんな重い病気にかかっているとは思わないよ。」その言葉を聞き、安心した。

 7月14日に引き始めた風邪は、一週間後に腕の筋肉が痛くなる症状から、これは大変な病気かもしれない、と判断したわたしは、大学の友達の言うとおり、上海に帰ったら一番に病院に行こうと決意していた。


しかし、不思議なことに、劉先生と話していると、頭痛や吐き気、風邪の症状がどんどん和らんでいくのが分かった。

 「病は気から」。湖南省での2週間の支教を迎え前のプレッシャーと、3万字の期末論文、大好きな先輩との別れ、バドミントンはする気にもなれず、毎日部屋に閉じこもって終わりのない論文と向き合う日々が続いていた。


奨学生として復旦大学に留学していることは、前者以上の責任として重く肩にのしかかっていた。気づかぬうちに自分を追い込み、風邪を引くと、メンタルの弱っていた私にはたちまち大きな負担となってしまった。


そんな自分の背景を、劉成先生と話して初めて客観的に見ることができた。そして、午後2時までに及んだ劉成先生の面談のあとは、なぜか肩がとても軽くなり、笑顔も見せられるようになっていた。

その変化に、自分でも驚き、嬉しくなった。

 面談の最後、劉成先生は「9月26日南京大学で国際青年平和学講座があるので、あなたもぜひ参加しなさい。」と言ってくださった。

私は嬉しくてたまらなかった。その他にも、ここでは書き切れないが、中国で平和学を学ぶ私にとって、その大きな一歩となる今後のチャンスをたくさん頂くことができた。

駅まで送ってくださった劉成先生に9月に会いましょうと別れを告げて、私は大学を後にした。


 一泊1000円程度のユースホステルは、世界各国にある。


その地域ごとの特色があり、バックパッカーたちが集まるホステルは、必ず仲間と出会うことができる。

私は、中国国内を旅するときはもちろん、アメリカでもユースホステルを利用していた。6人部屋に戻ると、昨夜出会った友達が「今日はどこに行っていたの?」とすぐに聞いてくる。

まるで家のような温かみを感じる。私が日本人ということを、全く気づいていなかった彼女たちに、「あなた(中国の)どこ出身?」と聞かれると、私はいつも「どこ出身か当ててみて」と言ってみる。


「発音を聞くと、たぶん南の方だと思う。海南島?」など、大抵の場合中国の南や台湾などと言われる。

どきどきしながら、最後に私が日本人だということを伝えると、びっくりして、今度は日本に移民した中国人なのか、家族に中国人がいるのかと聞いてくる。私が、生まれも育ちも家族も日本だと伝えると、彼女たちは口をあんぐり開けていた。


 友達になると、相手がどこの国の人か、どこの出身か、そんなことはどうでもよくなる。

私たちは仲良くなると、美味しいレストランの話をするし、好きな男の人のタイプも聞き合う。困っていたら助け合うし、嬉しい時は一緒に涙を流して喜ぶ。友情に国境がないこと、愛に国境がないことは、身を持って学んだことである。


 7月21日、劉成先生に励ましをいただいた私は、改めて元気を取り戻した。午前中南京大虐殺記念館を訪れ、午後は南京大学の友達と中山陵を訪れた。

地下鉄やバスでの移動中は立ってでも寝られるようになった。そしてなぜか目的地に着く一歩前で目が覚めることができるのである。

今回は、復旦のクラスメイトから南京大学の友達を紹介してもらい、私の南京の旅をサポートしてもらった。

一緒に観光地を回ったり、南京料理をご馳走してもらったり、「友達の友達」にとても親切にしてもらった。

大学付近で遊びに夢中になっていると、時計が午後5時15分を回っていることに気づいた。

午後6時上海行きの新幹線に乗らなければならなかった私は友達の付き添いのもと、急いでタクシーに乗り込んだ。

しかし、ラッシュアワーでタクシーは渋滞で動けなくなり、今度はタクシーを降りて地下鉄に乗り換えた。5時55分に新幹線に滑り込んだわたしは、ほっとして席に座ると列車が走り出す同時に眠りに落ちてしまった。


 たった1時間40分で上海と南京を結ぶ高鉄。上海の夜景を見ると改めてひとつの都市を越えてきたことを実感する。私は今、世界で有数な経済大都市上海にいるのだ。上海の風が、「がんばれよ。」と言って私の背中を押しているように感じた。


     吉永英未という存在

 中国では、Wechatが日本で言うLINEかつブログのような存在で、ほとんどの中国人が使用している。


そのWechatで、わたしは今学期の終わりに自己紹介と自ら書いたエッセイを載せて投稿した。


すると、たくさんの方にシェアしていただき、2015年7月25日の現在で閲覧数3328、いいね!127、シェア数22となっている。コメントもたくさん頂き、「あなたのブログを見て感動しました。ぜひ応援させてください。」と中国各地から友達申請が届く日が続いた。


自分の予想以上にたくさんの方に吉永英未という存在を知っていただくことができた。

 夢を叶えるために、たくさんの人に自分について知っていただき、自分の夢についてより多くの人に知ってもらうことは、とても大切なことだ。

いまでは、私が「私の夢はね、、、」と言うと、「世界平和でしょ。」と初めて会った人も私のブログを見たひとはそう答えてくれる。

 Yahooで「復旦大学」と検索すると、自分の日記が出てきたり、百度(バイドゥ)で「吉永英未」と検索すると私の書いたエッセイが表示されたり、目に見えない様々な方々に支えられて、応援されて生きていることに気づく。


 自分の夢は、自分にしか追いかけられない。(ジタバタと)地面を足踏みすることも必要。

そこから一歩踏み出すことでチャンスを生み出し、それを掴み取ることができる。それがいちばん肝心なことなのだと思う。


チャンスを掴めるか否かで、その後の人生も大きく変わってくるにちがいない。 でも、ジタバタ足踏みをしている間はとてもつらい。

自分が成長しているのかどうかが分からなくて、このままではいけない、と自分を何度も責める。


・・・・・・私はこの半年、この足踏みにとても苦しんだ。
しかし、いつか必ず、その泥沼から抜け出すことができる。蓮の花は、その水が汚ければ汚いほど、濁っていればいるほど綺麗な花を咲かせる。


はまってしまった泥水が濁っているほど、そして深いほど、次の一歩の可能性は限りなく大きい。

 苦労の上に努力を重ねて、その辛さを人に見せることなく、綺麗に前を向いて咲く蓮の花は、美しい。


私は、夢を叶えるために、この世に生まれてきた。だから、夢を叶えるために全力を尽くしたいと思う。

湖南への出発を前に、私は一生夢を追いかけ続けることを決意し、言葉にしておきたい。人生はどれほど長く生きたかではなく、どんなに真剣に一生懸命に生きたかである。

それならば、私は、泥水の中で美しく咲く蓮の花のように生きたい。


              7月26日 吉永英未
    《今後の予定》
7月27日 寝台列車で19時間湖南省怀化支教地区(貧困地区)へ

7月28日〜8月12日 支教

8月12日〜8月14日 湖南省見学

8月15日〜長沙から列車で上海へ

8月18日 テレビ収録 在中国日本大使館 日本人留学生と日中関係
     日本人留学生として日本領事館で日中学生による討論会のテレビ  
     取材を受けることになりました。            
8月19日 鹿児島へ帰国

9月2日 上海へ戻る 研究生2年生一学期開始


 7月27日からの半月は、中国語では「支教」と呼ばれる、中国の貧困地区で子供たちに教育を提供するボランティアに参加します。学校の宿舎に子供達と住み、一緒に過ごします。


私の支敷場所は国家重点支教地に指定されている、中国で最も貧しい地区のひとつです。

 支教に参加し、中国の貧困地区の子供たちのために微力ながら自分の力を尽くすことは、中国に留学中に行いたい事のひとつでした。

厳しい体力テストと面接を通過して、復旦大学代表として毎年支教を行っている小学校に派遣されます。

私達は全員で8人のグループです。私は副リーダーになりました。過酷な環境の中で過ごす2週間にある程度の覚悟は出来ていますが、どんなところなのか、行ってみなければわかりません。

でもきっと、どんな困難も8人で乗り越えていきたいと思います。

 また、現地ではインターネットに繋ぐことが難しいかもしれませんが、チャンスがあり次第ネットに繋いでみたいと思います。

 それでは、鹿児島にいらっしゃる方は鹿児島でお会いしましょう!日本の皆様、暑さに負けずに、一日一日幸せな日々をお過ごしください。

                         吉永英未より

西安の旅3 越えられない壁は無い
2015/06/21


超えられない壁は無い 

 華山からバスで2時間のところにある華清池で、夜は長恨歌という歴史劇を見ました。

露天で見るステージの背景はなんと山。山にはライトが散りばめられてあり、夜を表現する時には山に月と星が浮かび出します。

玉先輩のお父さんの知り合いの関係で、前から三番目の真ん中で見ることができました。水あり、炎あり、迫力満点のステージでした。

 最終日の三日目は兵马俑を見に行きました。

前日の山登りに疲れきってしまい、いつもは早起きのわたしも先輩の出発の電話でやっと目が覚めました。その日の朝食のとき、玉先輩が私に、大切なことを教えてくれました。

 『昨日のえみの頑張りはすごかった。僕らの前で、天の階段を登りきったとき、僕らみんな本当に感動したよ。

あれは100回プレゼンテーションをして自分の成果を人に見てもらうよりも、ずっとすごい勇気をみせてくれた。そして、バドミントンや、夏休みのボランティアも、課外活動に取り組む姿、その体力は僕らみんなが認めている。

でも、 ここからわたしは深く考えさせられるのです。玉先輩とは関係がとても良いため、先輩の思っていることを率直に教えてくれました。

『でも、勉強については、本当に努力が必要だよ。』

『中国の古代皇帝の名前や、世の中で常識と呼ばれるもの、道端で肉まんを売っているおばちゃんだって答えることができる。えみは?』

「答えられない。」

『この前のえみのプレゼンの資料を見せてもらったけど、あの内容だと誰でも作ることができるよ。

本当は、A4一枚の資料を書くために、10冊の本を読まないといけないんだ。

そうして、自分が得たもの、感じたもの、発見したものをやっとたった一枚の紙にまとめることができる。

えみの発表した内容は、僕らがちょっと調べただけでもしることができる。

えみの発表を聞くまでもないよ。厳しい人なら、時間の無駄だというかもしれない。えみは、もっと真剣に本を読んで、しっかり研究する必要がある。

自分がどんな専攻であっても、歴史は必ず学ばなければならない。』

『平和を語るのは簡単だけど、なぜこれまで平和が築けていないのか。過去の人はなぜ成功できなかったのか、知っている?』


 わたしは、自分が恥ずかしくなったことは言うまでもありません。

わたしは玉先輩からの忠告とアドバイスを、この日の朝から一日考えていました。夢にも出てきました。玉先輩は、私の核心をついていました。

私の欠点を見通していました。こんなに長い付き合いであれば、当たり前と言えばそうなのかもしれませんが、率直に私の学習面に対する不足を指摘されたのは、初めてのことでした。わたしはただ、頷くだけでした。

 あとから、劉青先輩が励ますように私にこう言いました。

『えみは、中国人学生と比べる必要は無いよ。勝てっこないんだから。でも、えみには有利な点がある。
ふたつの丸が横に並んでいるとする。

その丸の交じり合うところ、そこに焦点を当てることができる。それは重要なところだよ。』

つまり、ふたつの円が交じり合っているその部分、日中の交じり合うその部分に焦点を当てて研究することに大きな意味があるということであるということだとわたしは受け取りました。


 最終日の夜、4人の先輩方はこう言いました。『えみがどんな選択をしても僕たちはえみのことを応援してるよ。』

 復旦に来て、興奮し、挫折を味わい、努力もして見せましたが、到底他の学生には付いていけなくて、かと思うと、自分はこの程度で良いのだと諦めて、そしてまた立ち止まって、ここまで歩んできました。

そんな私を、励ましてくれたのはやはり同じ大学で学ぶ先輩方やクラスメイト、そして指導教員の馮先生、日本にいらっしゃる方々でした。


 修士一年生の終了を間近に控えたこの「卒業旅行」は、私にとってとても大きな意義のあるものでした。


それは、尊敬する先輩方と過ごす最後の5日間でもあり、自分の限界は自分で決めてはいけないのだということを身を持って学んだ5日間でした。超えられない壁は無い。

それは山登りも学問も同じだということ。私は、これまでの自分を振り返り、深く反省し、もっと努力しようと決意しました。

それは本当に簡単ではないし、高く険しい壁であることは確かです。
でも、私はひとりではなくて、登る過程で、必ず誰かが下から支えてくれている。山の上では必ず誰かが応援してくれている。

山の頂上ではきっと、異なる景色を見ることができる。だから私は勇気を出して登ることができるのです。

 私の努力が十分ではないということ。ならば、成長の空間がまだあるということ。
私はこれから一層、努力していきます。

そして、ここ復旦大学で一生の親友に出会えたことに、心から感謝し、今回の日記の結びとさせていただきます。

2015年6月20日 端午节 吉永英未



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