留学中の想い、いろいろ書きます。

鹿児島大学留学生
鹿児島国際大学



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西安の旅2 西岳崋山
2015/06/21


華山登り

 二日目の朝、私達は玉先輩のお父さんの運転で、華山へと向かいました。

目的はもちろん、登山です。華山は中国五大山のうちのひとつで、一番危険な山と言われています。ホテルで休憩を済ませ、山の麓で陕西で有名な麺をお腹いっぱい食べ、リュックを背負い、午後7時、小雨の中私たちは登山を開始しました。


山の麓から、チケットを買う登山口まで1時間近く歩きます。私たちは、同音漢字ゲームをしながら登り始めました。この中国語の漢字ゲーム、私は3つ同音漢字を思いつくのが精一杯でしたが、彼らは4人でその同音漢字が無くなるまでそのゲームを続けていました。


 中国で一番危険な山と言われている華山は、毎年転落事故などが起きています。他の4人はしっかりと心の準備が整っていたのに比べてわたしは実感があまりなく、山東省にある泰山に登ったことがあったため、ほぼ同じレベルだと思っていました。


 海抜2000メートルの華山は私の想像を遥かに超えたものだということを、実感したのは、90度の石の壁を目の前にしたときでした。天梯(天の階段)と呼ばれるこの石の階段は、90度で、小さな足の踏み場が一歩置きにあり、横に鎖でできた手すりがあるのみです。


ほぼすべて腕力とこの小さな足置きに頼り登って行きます。わたしはその壁を見たとき、開いた口がふさがりませんでした。これは人間が登っていけるものではないと思ったのが最初の感想です。

貴州出身の兴松が先頭に登って行きました。先輩方が私を真ん中にして、前後で援助する体制でした。わたしは4歩登った時点で怖くなり、また私の腕力では登ることのできないと判断し、泣きそうになりながら後退をし始めました。


玉先輩は私の足元で、「えみ、こんなとき勇気が一番大切なんだよ。この試練に耐えることができたら、他のどんな厳しい道も進んで行ける。本当に諦めるの?」と聞きました。

私は半分泣きながら「諦めるから降ろして。」と言いました。先輩方は残念がりながら、私を残して登って行きました。

私は、隣にある安全な道を登り、先輩方と石の壁の上で合流するつもりでした。


 諦めて地上に降りたわたしは、私以外の全ての先輩が無事に石の壁を登りきったことを確認すると、トイレに向かいました。4歩登っただけでしたがその緊張で胸はまだ、どきどきしていました。私はトイレでじっと考え、トイレを出たときにある決意をしました。


 「ここで諦めたくない。登りきるんだ。みんなと一緒に。」石の上で待つ先輩方に私は叫びました。

「わたしも今から登ってくる!」先輩方は思わず動揺してしまいました。「ちょっと待って。早まらないで。」先輩方はまさか私がトイレに行ってから考えを変えて登ってくるとは思いもしなかったようです。

「ひとりで登るのは危険だから、早まらないでちょっと待ってて!」と言って玉先輩が降りてきてくれました。

彼が私の下から登り、万が一落ちた時に支える役をしてくださいました。

私は一歩ずつ、一歩ずつ、天の階段を登り始めました。90度のため、石の上は全く見えません。下は怖くてもっと見れません。

私は深い息を吸って、ゆっくり、ゆっくりと登り始めました。上からは3人の先輩方が応援し、下では玉先輩が励ましてくれています。

そしてついに、天の階段を上りきりました。

先輩方と手を取り合い、私達は喜び合いました。あの時の感動は、これからも忘れることがないと思います。もしもあのとき、上と下からの先輩方の支えがなければ、私はきっと90度の崖の階段など登りきることが無かったでしょう。


心から、励ましてくれた仲間を愛おしいと思うと同時に、言葉で現しようのない達成感を味わった瞬間でした。

 その後、途中休憩を挟みながら私達は比較的速いスピードで登り続けました。登る途中は霧が深く、山の上では霧が足の下に見えました。暗くて下が見えなかったため、高所による怖さは感じませんでした。

やっと山の頂上についたのは、深夜3時でした。

私たちは、山の頂上で夜空いっぱいの星を見ました。教科書で見る北斗七星や、流れ星もはっきりと見ることができました。石の上に座りながら、綺麗な星たちを長い間じっと眺めていました。


 日の出を前に、私たちは頂上の一番日の出の見える位置に移動しました。このとき、気温はとても低く、風もあり、みんなコートを着て肩を寄せ合って日の出を待ちました。


疲れで眠くなり、静かな夜にウトウトしてきました。そのとき、わたしは、眠ったら風邪をいてしまうと思い、物語を語り始めました。

  『あるところに、女の子がいました。女の子には3歳年上のお兄ちゃんがいました。小さい頃から女の子はお兄ちゃんの後を付いて遊んでいました。女の子は、お兄ちゃんを兄として尊敬することがなく、いつもわがままを言っては喧嘩していました。

しかし、女の子のお兄ちゃんは思いやりに満ちた人でした。ある日女の子がまだ小学生だったとき、兄妹二人で歌手のコンサートに行きました。

そのとき、人ごみの中、兄妹二人は小さすぎてステージがまったく見えませんでした。お兄ちゃんは、自分は他のお客さんの背中だけを見て、2時間妹を肩車して、女の子にステージを見せてくれました。

女の子は大きくなって、お兄ちゃんの優しさと思いやりにやっと気づいたのでした。でもそのときお兄ちゃんは遠く離れたところで働き始めていました。』


 私が物語を語り終えると、聞いていたみんなから温かい言葉をもらいました。すると玉先輩、劉先輩とみんな自分の家族について語り始めました。

そうしているうちにあっという間に、夜が明けてきました。残念ながらこの日、前日の雨で霧が厚く、日の出を見ることができませんでした。

しかしこの日の夜明けまで自分についてお互い赤裸々に語り合えたことは、一生の友情の宝物になりました。

 周りが明るくなり、朝食をとり終えると8時から下山を始めました。

今度は命綱をつけて山の頂上からもうひとつの山に降りていくという試練が待ち構えていました。

わたしは、前の人の頭だけが見えて足元が見えないという崖を降りていく姿に腰が抜けてしまいそうになりました。

わたしはこんな命知らずな山移りなどしたくないと心の中で思っていましたが、好奇心旺盛な先輩方に挑戦しないという選択肢はありません。真ん中に挟まれて、わたしも同じように命綱をつけて降りて行きました。

今回は、夜も明けて山がはっきりと見えるので、一層恐怖心が増しました。そして2000メートルの山の上からはもはや地上を見ることができず、落ちたらどうなるかと想像するだけで生きている気がしませんでした。

前を降りていく先輩が次にどこに足を置いたらいいか教えてもらい、生まれて初めてつけた命綱の二本の鎖を一つずつ慎重にはめ変えて、降りて行きました。神様に無事を祈りました。


 なんとか隣の山に着くと、そのてっぺんから雄大な山を見下ろしました。勇気を振り絞った人にしか見えない光景です。2000年前もこの山を誰が登り、この道を築いたのだと思うと、足は震えながらも、心から感銘を受けました。


 8時から下山を始め、山の麓についたのは午後2時でした。
 華山登りは、23年間の人生のうちで一番「険しい」に挑戦した山でした。足の筋肉痛の痛みは今まで経験したことがないものでした。

しかし、全身の疲労以上に大きなものを得ました。それは、勇気と、信じることです。これらふたつの言葉は、言うことは極めて簡単ですが、実行することは決して容易なことではありません。

一度登ることを諦めた90度の階段に、もう一度挑戦し登り終えたとき、4人の先輩は感動し、みんな「えみ、すごいよ。よくやったね!」と言ってくれました。

上と下にいる仲間を信じて登って降りた崖は、決して一人では乗り越えることのできないものでした。

でも、信じることで、自分の能力以上の勇気を発揮することができ、全ての試練を男子の先輩方と同じように完成することができました。この経験は、私にとって、とても大きな自信へを変わりました。

5人で手を取り合って登った華山のことを、これからも一生忘れることがないでしょう。10年後にまた登ろうと決めた私達は、きっと、この華山に戻ってくる日が来ると思います。

勇気と感謝  西安の旅
2015/06/21


勇気と感謝 西安の旅

 6月14日から19日まで、わたしは西安の旅に出ていました。14日の午後4時半に大学の北門に集合し、他の先輩合わせて4人で上海駅に向かいました。

そして、午後6時半発西安行きの寝台列車に乗り込みました。

上海から西安までは14時間です。3段ベットのうち、私は真ん中のベットでした。
初めは4人でトランプを楽しんでいたのですが、シャワーを浴びてきてから来た私は習慣的にすぐに睡魔が来て、9時にならないうちに眠りに落ちてしまいました。



そして翌日の朝10時に、列車は西安に着きました。

本当に、「ひと晩寝たら西安に着くよ」という先輩の言葉の通りでした。西安に着くと、もうひとりの先輩、王章玉先輩が私たちを迎えてくれました。

これで、私たち5人すべて揃いました。

 今回の旅は、「卒業旅行」です。
というのも、私以外の4人の先輩は大学院3年生で、7月3日に卒業式を迎えます。ということで、先輩方は、「西安→成都→貴州」に行く旅行を計画しました。

西安は王章玉先輩(以下玉先輩)の故郷で、貴州は李兴松先輩の故郷です。私は授業がまだあったため、西安のみに行きました。


 卒業旅行のメンバーは、7月から正式に百度という中国の検索サイトで働く周帆,劉青、同じく上海の車関係の会社で働く李兴松、そして香港のとなり深圳で働くことが決まっている王章玉先輩と私の5人です。


王章玉、李兴松、刘青先輩とは、去年の9月に私が初めて復旦でバドミントンをした日に出会いました。

5年ぶりにラケットを握り、とっても嬉しくて興奮してバドミントンをしているとき、後ろのコートでバドをしている三人に出会い、一緒に楽しみました。

その日の夜に連絡先を登録し、それからほぼ毎週誰かがコートを予約すると一緒にバドを楽しんでいました。

 そんなわけで、彼らとの関係は非常に緊密で、なんでも話せる、お互いに深く信頼する関係を築いてきました。

今回の旅行は、そんな彼らと一緒に弾けて遊ぶことができる、卒業前の最後の機会でした。


 西安駅は、スリがとても多いと聞き、私はリュックを前にからい、注意していました。しかし、スリに遭う暇もなく、西安人の玉先輩にあるとすぐに駅を離れ、最初の観光地へと向かいました。


 西安は、世界四大古代都市のひとつです。陕西省に位置し、3100年の歴史を有します。兵马俑,华清池,大小雁塔,法门寺などがその深い歴史を代表します。


 私たちはまず「回民街」でたくさんの小吃を体験しました。小吃とは屋台や出店などで食べる安くて軽い食事で、中国全土にあり、その土地それぞれの美味しい食べ物が並びます。

西安はとくに有名で、辛いものから甘いデザートまで、たくさんの美味しい物を食べ歩きすることができます。私たちはこの通りで10種類以上の美味しい食べ物をみんなでつまみながら楽しみました。


 論語の中には、「有朋自远方来,不亦乐乎」ということわざがあります。親友が遠いところから訪ねてきて、その嬉しさは言葉で現しようが無い。

中国人は、遠いところから訪ねてきた来た友達を心を込めておもてなしします。私は玉先輩の熱心なおもてなしに、このことわざの意味を心から実感し、中国のおもてなし文化を学びました。


 西安に着いたその日から帰りの空港に着くまで、私はほとんど財布を開いていません。というのも、4人分の食事代、ホテル代、交通費などの費用は、5日間すべて玉先輩が負担してくださったからです。

私がお金を払おうとしても、「ここは僕のふるさとだから、僕に払わせて。」と言って、一度きりも出させてくれませんでした。

申し訳ないと思いつつも、一生懸命ガイドを努め、私たちに西安を思いっきり楽しませてくれた彼の精一杯のおもてなしに感動するばかりでした。


 夜は、先輩方4人は玉先輩の家のすぐそばのホテルに泊まり、私は玉先輩の家にホームステイすることになりました。玉先輩のお父さんの目は、慈悲という中国語の言葉しか思い浮かびませんでした。彼のお父さんの目は、本当に優しい目をされていました。

 玉先輩は、私が人間としてとても尊敬している先輩です。彼の思いやり、学習、研究に対する態度、道徳心などは、私が本当に心から学びたいものばかりです。

彼のうしろ姿から本当に多くのことを学ぶことができます。私はこの一年足らずで、彼からたくさんのことを学んできました。

それは学習に対する情熱だけでなく、友達への接し方、どのように自分の生活に向き合っていくかなど、数え切れません。

そんな彼と接することができる最後の機会だと思い、今回の彼のふるさとへの旅に参加することを決意しました。

 王章玉先輩は、とても思いやりに満ちた人です。私が、母の病気のために鹿児島に帰ることになったとき、何も言わずにご飯に連れ出してくれました。

帰国の日、朝5時に起きて空港行きのバス停まで送ってくれたのも彼でした。
 また、一緒にバドミントンをしていたときのこと。自分よりも上手ではない人たちが「一緒に打ってくれないか?」と訪ねて来たとき、私は彼の前でお断りしました。

心の中で、「自分より上手くない人と打っても成長できない」と思っていたからです。彼らがコートを離れて行くと、玉先輩は私にこう言いました。

「自分よりも強い人と打ちたいえみの気持ちは十分に分かるよ。僕は昔バドが本当に下手だったんだ。でも上手なひとが僕と一緒に打ってくれて、そしてここまで成長できた。」
わたしは、その言葉にはっと気づかされました。

そして恥ずかしさが込み上げてきました。わたしは、復旦に来てからバドミントン大会では3位、2位、2位という成績で、女子シングルスではほとんど負けたことがありませんでした。

普段も男子と競い合うことが多く、自分が天狗になってしまっていたことに気づきました。

玉先輩の言葉にはっと気づかされたわたしは、羞恥心を感じ、一緒に打ってくださいと誘ってくれた方に本当に申し訳ない気持ちになりました。

その日の夜深く反省し、これからはどんな人とも一緒に打とうと決心しました。

 玉先輩は、勉強面でもとても尊敬している先輩です。西安で彼のお母さんにお会いしたとき、彼のいないところで玉先輩の中学、高校時代の秘話を聞きました。

中学時代彼は保健委員を務めながら、成績は毎回学年2位だったそうです。いつも二位なので、「老二」というあだ名が付いたほどです。それが悔しかった彼は、中二のときからまた一層努力し、二年生の後半から全学年で一位を取ったそうです。

高校は実家を離れ、西安で一番の高校で寮生活を送りました。
周りの生徒と違い、英語の塾に通ったことの無かった彼は、英語能力が足りないと思いました。そのとき幸いにも、担任の先生が英語の先生で、その先生にお願いし、教室の鍵を借り、毎朝6時に教室に着いて英語の朗読を始めたそうです。

英語の成績も少しずつ向上し、苦手科目から得意科目へと変わりました。

高校では班長も努め、自分に自信も付きました。そして18歳の夏、復旦大学に入学しました。

 玉先輩の祖母(父方)は有名な科学者で、彼のとても尊敬している存在でした。

従兄弟は6歳年下で現在清華大学の一年生です。この従兄弟を彼はとても可愛がっており、従兄弟自身も幼い頃から優秀な玉先輩の影響を受けてきました。


平和学の中国における現状についてのご質問に答えて
2015/06/14


ご質問の、平和学の学術的組織化について、復旦大学の私の授業を担当している歴史学部の張翔教授に先日お尋ねしたところ、「平和学」という学問は中国ではあまり耳にしないとおっしゃっておりました。

クラスメイトの皆さんや、先輩の方々も、同様の答えがかえってきました。

しかし、平和学が浸透している場所ももちろんございます。華東師範大学の平和学の李巨潇先生は現在退職されましたが、
平和学の研究を熱心になさっております。

わたしが7月に訪問する南京大学の劉成先生は、現在台湾大学の訪問学者で、同じく中国における平和学の発展に力を尽くされております。

また、劉先生は、5月下旬に東京でAALA会議に参加されたそうです。そして、日本平和学会と提携して、今年10月31日に北京で日中両国平和学学者による日中関係対話会議に参加されるそうです。

わたくし個人としては、中国における平和学研究及びそのもの自体について認識が浅く、現在勉強中であります。

確実なことを申し上げるほどの学識もございません。申し訳ございません。

これから一生懸命努力していく次第であります。

多方面に関して、ご指摘ご指導のほど頂けたらと存じます。

吉永英未



> 吉永さん
> cc:木村先生ほかみなさま
>
> 近況ありがとうございます。
> ところで、中国の大学における平和学ないし平和研究講座の開講状況
> や学会作るのは常識化している中国にあって、「中国平和学会」の構
> 築現況はどのようなものか、逆に教えてもらえると助かります。平和
> 学との名を冠する講座が点在しているとの認識はあるのですが、学術
> 的組織化がどの程度進んでいるのか(日本でも韓国でもそれほどディ
> シプリンとして確立しているわけではないのでしょうけれど……)、
> 吉永さんの現状認識を教えてください。
> レポート頑張ってください。
> 取り急ぎ
>
>             sn
>

夏休みをまじかにして―期末論文のことなど
2015/06/14


今学期も、残り2週間ちょっととなってしまいました。
二週間後には、二ヶ月間の長い夏休みに入ります。

そして、その夏休み後には恒例の、期末論文を提出しなければなりません。

わたしは今学期、以下の論文があります。

1.馮玮先生 日本外交史 5千字。後日詳細告知。

2.国際関係学部博士課程の授業 1万字

3.夏先生 古代ギリシア史 5000字 これは再来週提出で、ほとんど書き終わりました。

4.李先生 歴史学理論と方法 5000字 自分の興味を持った分野で書く。2と関連する部分があってもよいと思います。

5.張先生 明治日本の歴史 古文読解 後日詳細告知。

ということで、一番問題なのが、国際関係学部博士課程の一万字の期末論文です。

10000字と聞いたとき、何かの間違いだと思いましたが、わたしが間違って博士課程の授業をとっているので、

周りの方たちは平然としていて、私だけが口を開けていました。

中国語で1万字の文章は、これまで書いたことがありません。

それぞれの論文は、9月の第二週目までに印刷したものを提出しなければなりません。


この国際関係の論文のテーマは、先日授業で発表した「世界平和の実現」と題して書きたいと思っています。

21世紀の国際社会、戦争、平和構築、武装解除、構造的暴力、貧困、(第三世界の貧困だけでなく、最近は日本の見えない貧困にも注目しております。)、世界で活躍するNGO、PKOなどをキーワードに資料を集めております。

中国では、平和学はほとんど普及しておらず、日本の資料はJICAのHP及び国境なき医師団、国際赤十字などのHPからPDF資料などを参考にしています。


わたしは今年の夏の前半は大学に残り、2週間は中国貧困地区の小学校にボランティアに行く予定です。

ということで、夏の予定と経済的理由から、日本に帰国することができません。

そこで、大変恐縮なのですが、日本にいらっしゃる方で、もし関連の資料がありましたら、お手数ですがメールの添付ファイルにて送っていただけましたら大変光栄に思います。

わたしは、7月に南京大学の平和学の教授にお会いするほか、こちらでもできる限り中国語の資料を集めたいと思います。そして上海で現実と向き合いながら、全部で3万字の論文を書きたいと思います。卒業と、なにより自分の成長のために、力を尽くしたいです。

資料の件につきましては、急ぎませんので、もしお時間ありましたら、ご協力いただけたらと存じます。

お忙しい中大変恐縮です。何卒よろしくお願いいたします。

上海もスイカが並ぶ季節になりました。日本の皆様のどうぞ暑さに滅入らないように元気で幸せな日々をお過ごし下さい。

吉永英未より

復旦大学110年(歳)バースディ
2015/06/04


夢のバトン

 復旦大学の110回目の誕生日であった5月27日は、大学にとって、卒業生や、私たち在学生にとって特別な日となりました。
 1905年5月27日、中国の著名な教育家馬相柏氏によって、復旦大学は創設されました。北京大学、清華大学に続く国家重点大学の一つとして、博学而笃志,切问而近思という校訓のもと、復旦大学の歴史は始まりました。 キャンパスは合わせて4つあり、2014年現在,复旦大学の学部生は1万2千933人,研究生1万6千26人,留学生3千216人です。

 2015年5月27日記念日の朝、6時20分から国旗掲揚に参加しました。

会場の広場では、朝早くにも関わらず、みんな大学シャツを着て、学長の登場と国旗掲揚待ちどうしそうにしていました。
私も国際関係学部の先輩に電話で起こされてから、眠い目をこすりながら、新しく買った大学のTシャツを着て会場駆けつけました。
 7時から、そわそわした会場に力強い足音が響きました。
復旦大学武警班の青年たちが足取りを揃えて、大学の旗を掲げて行進してきます。
背景には合唱団による校歌が大学のオーケストラによる演奏のもとで歌われ、雰囲気は最大に盛り上がりました。

 同じ5月27日の午後、上海日本人学校の学生44名、引率の先生4名が復旦大学の見学に訪れました。先輩に頼まれた私は、日本人留学生代表として、97年生まれの高校三年生を前に、プレゼンテーションと大学案内を行いました。
 高校三年生の彼らに向けたプレゼンは、Story of My Lifeという、学部時代に何度も発表したことのあるものです。学生と先生方からは大きな拍手をいただきました。
  
 夜は、正大体育館という大学で一番大きな体育館で行われた「校庆晚会」(記念イベント)に行きました。歴史学部にチケットが配られ、幸運にもそのチケットを2枚手にすることができた私は、国際関係学部の公为明先輩と一緒に見に行くことになりました。

いつもバドミントンを楽しむ体育館が、その日の夜は盛大なステージが設けられ、会場内はライトアップされ、普段の面影を少しも残さないように全く変身してしまった姿に、もうすでに圧倒されてしまいました。
 舞台は片時も目を離せないほど、素晴らしいものでした。
同じ会場には、学長もいらっしゃっていました。

ライトと大学の旗が配られ、私自身も始終ときめきながらステージを楽しみました。
ステージに登場したのはすべて復旦大学の学生及び卒業生です。
復旦大学附属小学校の子供たちによる寸劇と歌から始まりました。

50年前に卒業された方々によるステージでは、復旦大学時代にであった二人が結婚して50年経ち、当時の学生恋愛の様子を語る場面もあり、会場は温かい笑いに包まれました。

 私が一番感動したのは、世界から送られてきたビデオレターです。
世界各国で活躍する「復旦人」の方々が、この日会場に駆けつけることができず、ビデオレターに想いをのせて「復旦大学、誕生日おめでとう!」というメッセージを送ってくださいました。

世界各国の背景のもと、大学の旗を持った卒業生たちが大きなスクリーンに映し出されました。フランスはパリのエッフェル塔、ワシントンDC、ロンドンブリッジ、アフリカ、カナダ、オーストラリア、韓国、そして日本は東京大学を背景に、世界に散らばる復旦人からのメッセージがです。こんなに遠くに離れていても、どんなに時が経っても、大学を愛し、大学に感謝し、この日のために大学の110回目の誕生日を祝う姿にわたしはとても感銘を受けました。そして改めて、わたしも世界で活躍できる「復旦人」になりたいと心に誓いました。

 ステージの最後には、子供からおじいさんおばあさんまで、華やかなドレスに身を包んだ復旦人の方々と、会場にいる私たちも立ち上がり、校歌を歌いました。当日はたくさんのテレビ局も来ており、その溢れんばかりの活気は会場に来れなかった人たちにも生放送で届けられました。
 私と公为明先輩は、余韻に浸りながら、帰路に着きました。帰りにライトアップされた復旦タワーを眺め、私もこの大学のために何か残すことができたら、どんなに光栄なことだろうと思いました。復旦生であることを改めて誇りに思い、復旦精神を受け継いでいきたいと心から思いました。
 

金曜3限国際関係授業発表

 5月29日は、私にとって忘れられない日となりました。

わたしはこの日、学科を越えて受けている国際関係の授業で、はじめてプレゼンテーションを発表しました。

 ひとりで、1時間半の発表。はじめは、「一人で1時間半も話せるはずがない」と全く自信がなかったのですが、1ヶ月以上に渡って準備してきたので、プレゼンのページは自己最多の117ページとなり、内容的にも十分な量を用意することができました。

 私はこの発表に、1年間の中で一番力をそそぎました。というのも、もともと学部の専攻が国際関係、平和学であり、これらはわたしにとって一番興味のある分野であるからです。内容は、私の卒業論文の序章の紹介から始まりました。ここでも少し紹介させていただきたいと思います。


 全てのことを、当たり前だと定義してしまうとそれは「当たり前」になってしまう。全てのことを「変えられない」と諦めてしまうとそれは「変えられない」。

第二次世界大戦、そして冷戦が終結した現在もなお、世界では戦争や紛争が続いている。今日もまた、罪のない市民が死んでいく。住む場所も、食べるものもない人達は難民となり、自国すら追われる。そんな現状を知りながら、私たちはそれらの国から遠い日本という国に暮らしている。

果たしてこの現実は、「当たり前」なことなのだろうか?「変えられない」からといって諦めて良いのだろうか。もし私が戦争の脅威にある国にいたら、貧困や抑圧に苦しんでいたら、私は助けを求めるだろう。誰かが助けてくれるそれだけを希望に命を繋ぐだろう。それはもしかしたら、国連かもしれない。警察かもしれない。それはNGO団体かもしれない。いずれにしても、救いの手を差し伸べるのは、人間に変わりはないだろう。そして私は自分がその人間の一人でありたいと思っている。
もし我々がこの現状を変えられないとしたら、それは我々がこの現状を「当たり前」と決めつけているからである。我々には「変えられない」と諦めているからである。


 この文の中国語訳から始まったプレゼンは、21世紀の世界、911、イラク戦争、尖閣問題、琉球処分、平和学、憲法第9条、暴力に対するセルビア声明、質疑応答という形で行いました。これらの内容の関連性は本文で触れます。
プレゼンの途中では、先生の解説が入ったり、中国語読みが分からなかったときは、直接目の前に座っていらっしゃる先生に尋ねて、プレゼンを進めました。

 発表の後は、みなさんから大きな拍手をいただきました。
感想では、「新しい観点から見たあなたの発表がとても新鮮でした」「僕たちが知らないことも多くて、とても勉強になりました」「平和学という学問は、中国であまり発展していないから、あなたの発表はとてもいい刺激になりました」などの言葉をいただきました。
最後は、戦争はどうして終わらないのか、平和をどうやって築いていくのか。一番の安全保障は何か、国際関係学部博士課程の皆さんに問いかけ、先生の手引きのもと討論を行いました。


国際関係学部クラス会

 発表の後、先輩と一緒に歩いていると、「今日は僕たちのクラス会があるから、えみもよかったらおいでよ。」と言われました。
私は思わずびっくりしてしまいました。「私は国際関係学部じゃないけど、それに博士課程じゃないけど、いいのですか?」と聞くと、「こんなにたくさん一緒に授業を受けてきて、もうえみは僕たちのクラスメイトの一人だよ。」と言ってくれました。その言葉がとても嬉しかったです。

 そんなわけで、私は復旦大学国際関係学部博士課程一年生の方々と一緒に、クラス会に参加することになりました。一度寮に戻ってから着替えを済ませて、5時に集合すると、先輩方と自転車でレストランに向かいました。

先輩の中には、学部を卒業すると働いて、その後また修士、博士過程を履修している方や、働きながら論文を書いている方などで、年齢は私より大きく離れています。

 6時頃から乾杯し、食事を始めたのですが、ここでは中国のお酒文化を存分に勉強することになりました。机には2本の白酒と、8本のビールが並べられました。
私は、この日初めて、アルコール度58度という白酒を飲みました。皆さんが、私を歓迎して一杯、というときに私が飲まないわけにはいけません。

とても小さなグラスのコップに、3センチだけ注がれた白酒に、最初はこんなちょっとしかないのか、へっちゃらだ。と思ってぐいっと飲み込んだのですが、あまりの度数の高さにわたしはむせ返ってしまいました。

 食事の途中で、男性の先輩方が一人一人私と乾杯をしに来てくださいました。グラスの位置は私が下げても下げても彼らが下がり、私に 「ひとくちでいいよ。」と言いました。わたしは顔を歪めながら、一口飲んでみせました。
すると彼らはグラスに入った白酒を一気に飲み干しました。彼ら曰く、それが私に対する尊重と歓迎の意であり、お酒を一緒に飲むことで、友人関係がぎゅっと近くなるそうです。

 周りでは先輩同士がお酒をそそっています。普段あまり外食をすることがなく、ましてやお酒なんて日本でも飲まない人間であったので、復旦に来て初めての正式なお酒の席にわたしは少し戸惑ってしまいました。

 そして、一番驚いたのは、授業中はいつも真面目な彼らが、こんなにも弾けて、愉快な一面があることを目の当たりにしたことです。わたしは以前想像もつきませんでした。
学部、修士ともに他大学で学び、博士課程を復旦大学で取っているという先輩がほとんどでしたが、中には学部から復旦で、もう10年になるという先輩もいました。

 国際関係博士の授業を受け始めたのは、3月。わたしは履修登録の際あまり注意せず、誤って博士課程の授業をとってしまいました。わたしは、1回目の授業に参加した際、初めてなのに周りの方たちがやけに団結しており、一体感があると不思議に思っていました。
そしてあとで初めて、私以外の全ての人すべてが博士課程の同じクラスメイトだということが分かったのです。わたしは修士一年のうえに他学科で、留学生で、ということで、違うものづくしでした。  
 初めのうちは、教室では一番前の席にみんなと離れて座っていたのですが、ひとり、またひとりと友達になり、食堂で会うと一緒にご飯を食べたり、一緒にバドミントンをしたりするなどして、だんだんと周りに溶け込んでいきました。
そして、今回の私の1時間半のプレゼンを通して、彼らと私の間の壁が、ほとんど無くなったように思えました。
みなさんが、「発表よかったよ。」との温かい言葉をくださいました。そしてその日の夜、クラス会に誘ってくださったのです。
 
 わたしはこのお酒の席で、お酒を共にした13人の先輩方の名前を全て覚えました。皆さんが「とってもいい記憶力だね」と褒めてくださいました。
わたしは以前、人の名前を覚えるのが苦手で、顔と名前が一致しないということが度々ありました。

しかし、中国に来てから、名前を覚えることがその人たちに近づく第一歩だと改めて実感し、人と会う度に必ず名前と名前の漢字、出身地を聞くことにしていました。中国は広いため、出身地はほとんどみんなバラバラで、その区別が印象深く名前とともに頭に残ります。わたしはそんな方法で、以前は一緒に山登りに参加した30人の名前を一日で覚えました。

 名前を呼ぶことで、いつの間にか相手も、私のことを「Emi」と読んでくれます。これは私事ですが、私が名前を紹介するとき、「えみEMIです」と言うと、みんな「日本語の名前はなに?」と聞いてきます。中国の皆さんは「English Name」を持っているため、私の名前がそれだと思うそうです。

度々聞かれますが「Emiは英語の名前でもありますが、日本語の名前でもあるんです、」と答えると、皆さん驚いて、その後すぐに覚えてくださいます。

 食事のあとは、みんなでカラオケに行きました。仲の良いメンバーが集まって食事をする場合は、その数が多かれ少なかれ、必ず誰かひとりがご馳走します。それが中国の文化であるのです。決して割り勘をしません。

わたしは大連に留学していたときそのことを学び、いまではお世話になった人にはわたしもご馳走をします。しかし、このような10人を超える人たちを招待したことは未だにありません。

 カラオケでは、「日本の歌を歌って!」とみんなから言われて、彼らのリクエストした曲はKiroroの「長い間」でした。中国語版もあるこの歌は、皆さんが知っていたようで、大きな拍手をいただきました。

 そんなわけで、先輩方と話しながら寮に帰ってきたのは深夜でした。帰る途中、わたしは国際関係学部の先輩方に自分の夢と、現在の目標と計画を語りました。先輩方からは様々な意見と、研究に対するアドバイスをいただきました。
国際関係を専攻する上で、英語は絶対に欠かせないということ。わたしが、「英語と自分の専攻を研究すること、どちらを優先したほうが良いですか?」と尋ねると、「同時にできたら一番いいね。英語はどうしても避けて通れないよ」とアドバイスをくださいました。

そう教えてくださった先輩は、9月からアメリカのオハイオ大学に留学するそうです。
ほんの少しの間準備しただけで、TOEFLは102点、わたしは決して真似することはできませんが、勉強方法についてしっかりと教えていただきました。

また、修士課程の研究の経過や研究方法など、先輩方から学ぶことは尽きることがなく、こんなにたくさんの先輩方に手引きをいただけることを心から嬉しく思いました。
 「これから僕たちのクラスで集まるとき、またえみも呼ぶからね。」と言ってくださったのは、今回クラス会に招いてくださった、班長の王凯さんです。わたしは嬉しくてたまりませんでした。
 国際関係学部の研究生は他学部の学生には近づきがたい存在という噂をよく耳にしていました。ある先輩から聞いた話によると、「彼らが他学部の授業を受講するときは全く発言しない。国の秘密を握ってるから、簡単に発言できないんだ。でも論文を書くときは、5000字ぎっしり自分の観点を書いてみせる。」と言っていました。

そんな近づきがたい彼らのクラス会に参加してしまったわたしは、国の秘密こそ聞いてはいませんが、彼らの弾けたプライベートの姿を目にすることができました

そして素晴らしい先輩と知り合うことができ、今後も自分の研究についてたくさんのアドバイスをしていただき、ときには共同で日中民間世論調査に基づく研究を行おうという話も、一人の先輩とすることができました。
 私にとって、夢のような一日でした。

 ということで、毎回のことながらあっという間に6000字を超える日記を書いてしまいました。これまで読んでくださった方、お忙しい中本当にありがとうございました。

 後期もあっという間にすぎ、あと一ヶ月で二ヶ月間の夏休みを迎えます。今回の夏は日本に帰国せず、湖南省の貧困地区の小学校に2週間のボランティアに行きます。
大学のボランティア活動の一環として行くため、現在は毎週末一回ミーティングを行っています。かけがえのない経験をきっと積むことができるでしょう。

 それでは、日本の皆様も健康に気をつけて、幸せで充実した日々をお過ごし下さい。
 5月31日早朝 上海の夜明けに  吉永英未


2015年4月・5月の記録
2015/05/17


2015 年4月、5月 記録

「あっという間」という言葉はありきたりかもしれませんが、この2ヶ月の間、本当にあっという間に過ぎてしまい、毎日日々に追われ、日記のことを思い出す余裕すらありませんでした。そこで今回は、その充実し過ぎた2ヶ月を振り返ってみたいと思います。

まず4月11日は、二度目の国費留学生旅行で、一泊二日で浙江に行ってきました。

留学生で集まる際は、英語が共通語となります。バスで隣になったポーランドからきたAlishaと仲良くなり、2日間楽しみました。ブルガリアからきた「シロシロ」は(名字がWhiteなので)、日本のアニメが好きな、とても愉快な友達です。学部も中国で学んだ彼は、その真っ白の肌からは想像できないほど流暢な中国語を話します。

浙江までは復旦大学から6時間。長距離移動にも大分慣れてしまいました。 ガイドさんが、「山が見えてきたら、そこは浙江だよ」と教えてくれました。本当に、四方八方どちらを見ても山しか見えなくなったとき、ようやく目的の観光地に着きました。この頃には、大学を出発する頃は名前も知らなかった隣の留学生と、昔から知り合っていたかのように仲が深まっていました。

 山に囲まれていることにはもちろん、「山を登る」ということです。寝ぼけたままバスを降りた私たちは、まだ心の準備が出来ていないまま出発し、その後4時間かけて山を登りました。
道は想像以上に険しく、登山の後半はみんな口数も少なくなってきました。こんなとき、国柄がとても目立ちました。
今回の旅行では、全部で57ヶ国の国から来た学生が参加したのですが、下山するとき、急な斜面を飛ぶように降りていくのはネパールから来た学生です。

私が、「なんでそんなに早く下りれるの?」と聞くと、「僕はネパールの山で育ったからだよ。エベレストにも登ったことがあるんだよ。」と自慢げに話してくれました。

ネパールと中国の国境にあるエバレストは、特定のトレーニングを受けて得たライセンスがなければ登ることが出来ません。世界一の山、私もいつか登ってみたいと思いました。

山登りで疲れ切った私たちは、ホテルに帰るとすぐに寝てしまいました。2日目もひき続き山登り。しかし、登山の途中に数々のアスレチックがあり、とても楽しく登ることができました。帰りのバスの中で私は、日本の歌を披露しました。続いて引率の先生が、復旦大学の校歌を歌ってくれました。
この大学に来てもう少しで一年が経ちますが、初めて校歌を聴きました。

 今年で110周年を迎える復旦大学は、現在その記念イベントに向けて準備が着々と進んでいます。当日には国家のリーダーや復旦卒の政治家の方々も集まり、盛大な記念イベントが開催されるそうです。
大学で学び、食べて、運動し、寝る。生活の全てをこの大学内で過ごしている私たち学生にとって、大学はもはや家以上に近い存在のようです。遠い昆山から毎週木曜日の午後大学にやっとたどり着いた時、大学の門をくぐると本当に、「家」に帰ってきたように安心してしまいます。
 
5月16日、上海に来て初めて鹿児島県出身の方と一緒にご飯を食べました。霧島市出身、復旦大学学部生のちふ子さんです。友達伝いで鹿児島県出身の復旦生がいるということで紹介していただき、一緒にランチをするに至りました。久しぶりの鹿児島弁を聞いてとても嬉しかったです。

  大学に戻る途中、警察の車がやけに多いことに気づきました。特に気にも止めず、「何かあったのだろうね。」と言いながら二人で歩いていました。しかし、大学に近づくにつれて立っている警察の数がどんどん増えていきます。大学が見えるところになった時、1メートルおきに警察の方が立っていました。そこでやっと、自分の大学で何かあったのだと確信しました。

復旦大学で一番高い「復旦タワー」の入り口には赤い絨毯がひかれ、その周囲は車と警察が列を作っています。普段は解放されている芝生も、立ち入り禁止となり、黒い服を着た人たちがあちこちに立っています。ここに来てやっと、「誰か来たのだ」と思いました。カメラを構えて待っているおじさんに聞いてみると、「インドの大統領が来ているんだよ!」と教えてくれました。

5月16日、インドのモディ大統領が復旦大学で講演を行いました。
復旦大学には、インド研究所があり、インドと共同で研究を行っています。この復旦大学インド研究所に新しくガンジー研究センターができたということで、インドのモディ大統領が大学で公演を行いました。

復旦大学には、オーストリアやアイルランドの大統領に引き続き、2009年にはアメリカのオバマ大統領が訪問し、講演を行っています。
 今回のインドのモディ大統領の訪問も、事前に私たち学生に知らせることなく、土曜日のお昼に行われました。
 毎日違う姿を見せてくれる大学。ここで吸収できることを、翼を広げてスポンジのように吸収し、ひと周りもふた周りも成長することができたらいいなと心から願っております。
  
 以下は4月1日からの私の『きろく』です。

4月
1日  同济大学に桜を見に行く
11日 、12日 国費留学生旅行 to浙江 帰ってきたらすぐ夜 支教の説明会
18日  支教面接 (のちに合格)
19日  バドミントン試合 団体2位
21日  復旦大学趣味運動会 たくさんの面白いイベントに参加しました。
30日  支教トレーニングの一貫として、二泊三日の山登りの旅(〜5月2日)杭州


5月
3日   山東省の先輩が寮でご飯をご馳走してくれました。
8日  日本語を教えている昆山の学校に夜から一泊。翌日「教員ツアー」に参加。乌镇。
10日  支教の体力テスト 400m×8周 16‘22 (男女40人中1位)
11日  木村先生来復旦。
12日  木村先生復旦大学にて講演。
14日  昆山の日本語学校にて、私の教えているクラスに50音のテストを実施。
15日  キリスト教史 報告。
16日  鹿児島県霧島市出身の復旦4年生と同じく霧島市出身の社会人の方とランチ。
  インド大統領復旦大学訪問。

支教トレーニング(二泊三日の山登り)、鹿児島大学木村先生の復旦大学公演につきましては、また後日文章にさせていただきたいと存じます。

日本の皆様どうかお身体に気をつけて、幸せな日々をお過ごし下さい。


復旦大学歴史学部 修士一年
吉永英未



後期の授業が始まってから、ようやく2週間が経過しました。
2015/03/26


後期のはじまり      吉永英未 2015.3

 後期の授業が始まってから、ようやく2週間が経過しました。2学期目ということもあり、大学生活にもだいぶ慣れてきたように思います。
 今学期から私は、2つの新しいことに挑戦しています。つ目は、毎週火曜日の夜7時から、ボランティアで日本語を教えております。
これまで、大学生活に慣れない私を様々な面でサポートしてくれたクラスメイトの友達に少しでもの恩返しのために何かできないかと考えたとき、私にできることは日本語を話すことしかない,と考え、クラスメイトに申込みを募ったところ、15人余りの希望者があり、教室を貸し切って毎週火曜日の夜、日本語を教えることになりました。

歴史学部のクラスメイト、特に専門が日本史の友達のために開いたクラスでしたが、友達が友達を呼んで、今は博士後期課程の先輩から、復旦の別なキャンパスから来る他学部の本科生など、20人余りの学生が集まっています。
私のような素人ですが、みんな熱心に授業を受けてくれて、本当に感銘を受けております。
 二つ目は、毎週木曜日に一日「台商学校」で日本語を教えております。台商学校は、上海在住の台湾人のための学校で、幼稚園から高校まで一つの学校にあり、生徒は全て台湾籍、先生も台湾から来てもらっています。
全校生徒は幼稚園生から高校三年生まで含めて1024人で、教科書は全て台湾から取り寄せています。高校三年生のほとんどが、台湾の大学を受験します。
 なぜわたくしがこの学校で日本語を教えるようになったかと言いますと、以児島国際大学に留学していた中国人の親友が、現在筑波大学の修士課程におり、その親友の教授のご紹介を頂いたからです。教授の紹介ということで、電話一本と何回かのメールの交換で、正式に日本語教員として働かせて頂くことになりました。

 台商学校は、地下鉄11号線の最終駅のところにあり、復旦大学から約2.5時間かかります。もちろん、学校がこんな遠いところにあるなんて想像もしていませんでした。
朝4時起床、大学から自転車で大学に最寄りの地下鉄駅に行き、それから地下鉄に乗ります。朝4時となると、まだ月が出ており、自転車で駅に向かう途中はまだ夜なのではないかと錯覚を起こします。
霧の中を、ひたすら自転車をこぎます。7時になんとかスクールバスに乗ることができると、バスに揺られながら1時間、ようやく学校に台商着きます。
 初めて学校に行き、授業をしたのは、2月28日に上海に戻った翌日の3月1日でした。
学校に着くと、校長先生、教務科部長とお会いして、とても温かい歓迎を受けました。
「ようこそ台商学校へ」 。遠いところからはるばる来た疲れもすっかり飛んで行ってしまいました。
そして、その日から入校許可書をもらい、職員室の自分の机まで案内されました。
私は、まさか自分の机まであるとは思いもしませんでした。学校内では、先生方に温かい言葉を頂くとともに、校長先生も他の先生方も口を揃えて、「復旦大学の学生か。優秀だなあ。」「うちの高三の学生もぜひあなたの大学に入ってほしい。」など言葉を頂きます。

わたしのような、優秀ではない学生でも、先生方を始め、学生までも尊敬のまなざしです。
私は、「私はあなたがたの思うような優秀な学生ではありません。」と心の中で思いつつも、自分が復旦大学の学生であることの責任を重く感じます。

 また、いろいろなところから、「吉永先生」「えみせんせい」と呼ばれますが、最初はすぐに反応できませんでした。
なぜならこれまでの人生で、「先生」と呼ばれたことなど一度も無かったからです。
言うまでもなく、私はこの学校の先生の中で一番年下の先生です。最初の授業のため教室に入った際は、前の授業の先生に新入生と間違えられてしまいました。
 そのような、初体験の連続で、私の最初の授業は始まりました。私の担当するクラスは、高校三年生の3つのクラスと、日本語サークルに入っている中学一年生から高校2年生の1つのクラスです。

最初の授業では、どうなることやら心配しながら教室に入りました。40人の学生は、真剣で、好奇心に溢れたまなざしで私を見つめています。センター試験を終えたばかりの学生たちは、現在は大学の申請をしている時期です。

様々な不安を抱える彼らを前に、私は自分のありのままを紹介しました。自分が大学受験に失敗したこと、でも重要なのは、大学の名前ではなくて、その大学で自分が何をするかということ。

センターで上手く点数をとれなかった人も、がっかりしないでほしいということ、あなたたちの素晴らしい人生は、これからだということ。新入生に間違えられながら入った教室でしたが、自己紹介からいつしか演説のようになり、どこかでしたプレゼンテーションを思い出しました。

話し終わったとき、シーンとしていたクラスから、大きな拍手をもらいました。
 「わたしは自己紹介したから、今度はみんなに自己紹介してほしい」と学生にお願いして、今度は学生一人ひとりに、名前と夢を発表してもらいました。卒業を控えた高校三年生の彼らは、「大学に行きたい」「日本に留学したい」「世界旅行がしたい」など、一人ずつ発表しました。授業のあとは、机の周りに学生たちが集まって、様々な質問を投げかけてきました。日本について、私個人について、大学について、学生たちの笑顔と、学問を求める問いかけは、私自身を教育し、成長させてくれているものだと思いました。
 お昼は、食堂で無料の昼食が食べられます。今学期から自炊を始めたわたしは、料理ができないため、じゃがいもを炒めたものや、紫芋を蒸かしたものなど、戦時中のような食生活を送っていましたが、週に一回はおなかいっぱいの昼食を頂ける事をとても嬉しく思いました。

また、昼食の時間になると歴史担当の先生や、国語担当の先生など、様々な先生がご飯に誘ってくださり、一緒にご飯を食べてくださいます。
週に一回しか学校に来ないため、皆さん珍しそうに、日本のことや、復旦大学について、私自身の将来について質問を投げかけてきます。

その全てがわたしに、自国の文化について再認識させるとともに、自分の未来を改めて自覚させてくれます。

 午後からはクラブ活動の授業で、日本語や日本文化に興味を持った学生たちに、日本文化や簡単な日本語のあいさつを紹介しました。
2000年生まれの学生たちの好奇心に応えるために、私に話せることを必死で話しました。
 台商学校での初めての授業は、あっというまに終わり、午後3時45分に、帰りのスクールバスに乗りました。
何もかもが新鮮で、楽しいと同時に学生たちの好奇心や学問を求める要求に、しっかりと応えてあげたいと思った、とても大きすぎる収穫のあった一日でした。

 大学に戻ると、先生からまた「学生」に戻ります。毎週木曜日は必須科目の授業が午後6時半から9時過ぎまであり、疲れ切った身体を振るい起して授業に臨みます。

朝4時から、お昼寝なしにフル回転していた脳と身体も、さすがに疲れを見せ、クラスメイトからは「エミそんなに疲れた顔して大丈夫?」と心配されてしまいましたが、休み時間にクラスメイトとおしゃべりをすると少しずつ元気になれます。木曜日は、長い長い一日です。

 今学期は、5つの授業を履修することになりました。その中の一つは、国際関係学部の授業を、「飛び学科科目」として履修することになりました。
この授業を受けている学生はほとんど国際関係専攻の博士課程の学生で、外国人はもちろん私一人です。
難易度はいつにも増して高いですが、国際関係学部の先輩がとてもよくしてくださり、私のために資料を下さったり、サポートしてくださいます。
「あなたにとって中国語は難しいと思って、英語版の参考文献を添付してあげたよ。」と先輩は笑顔でおっしゃいましたが、私は英語の方はなおさら分かりません。
 3月16日は、東京大学の伊藤元重先生の講演を聴きました。題名は、「アベノミクス経済の展望」です。

今回は、中国語と日本語の同時通訳によるものでした。私は、講演の始まる5分前に会場に着いたのですが、席はすでにいっぱいで、一番前の列の真ん中の席しか空いていませんでした。

すると偶然にも、隣に座っていたのが講演をされる伊藤先生で、名刺を頂き、講演の後には直接質問をすることもできました。

 また、いつのまにか「先輩」になってしまったのも今学期からです。
この時期にも、日本人の新入生が新たに大学に入ってきました。

私は、洗濯機の使い方や、安いスーパーの場所、郵便局での手続きの仕方など、まだ慣れない後輩たちに一つひとつ教えてあげました。

東京芸術大学や創価大学など、出身大学も様々ですが、留学生アパートという同じ屋根の下では、家族よりも近い存在です。

忙しい日々の中で、上海にきて初めて風邪をひいてしまった時は、後輩が私の部屋まで日本の薬を持ってきてくれました。このような頼りない先輩ですが、私も出来る限り後輩のサポートをして、日本人同士の絆もしっかりと育んでいきたいと思います。

 今学期も、新しい挑戦に加えて、さっそく様々な新しい出会いもあり、毎日、朝が来ることをとても楽しみに思います。

新聞配達の仕事も前学期に引き続き行っており、今では歴史学部ほとんどの先生の名前を覚えることができました。

今学期も、一生懸命頑張りますので、日本の皆さま、どうぞ応援よろしくお願い致します。                         3月22日 吉永英未

わたしの母
2015/02/18


私の母

 母が入院したその日から、いつかはこの日が来ることを覚悟するようにと、医師から告げられていた。母との思い出が蘇ると同時に、空白の思い出もあることに気づく。それは、私が母から遠く離れていたときのものであった。

後悔していないかと聞かれると、完全に満足はしていないと答えるだろう。親孝行に、完全に満足することなど、永遠に無いように思う。

母は、物を書くのが好きだった。その「くせ」は私が受け継いだ。母は、入院した次の日から日記を書き始めた。毎日ではなく、気が向いたとき、書きたいことがあるときにペンを握っていた。一人の時に、ゆっくりと。その日記をいま読み返すと、母の感情がじわじわと伝わってくる。

母が厳しい抗がん剤の治療に耐え、そして死と向き合うことが、どれだけ辛かっただろうと思うと、いまでも胸が張り裂けそうな思いになる。

母は、どんなときも家族に弱さを見せなかった。夏のある日、母に笑顔で見送られ、病院を出た後にすぐ、私は忘れ物をしたことに気がついた。私が病室の入口に着くと、母が看護婦さんに泣きついて、子供のように泣いていた。「生きたい」と言っていた。私はその日、病室には戻らなかった。

 私は、12月6日に上海から鹿児島に戻ってきた。

母はもとより、家族に内緒で帰ってきた。父と兄は、私が12月の期末テストを控えた時期に帰ってくるべきか否かでもめていた。私は、自分の意志で上海を飛び出した。ただ、母に会いたいという気持ちだけが、私をそうさせた。そのとき、このあと母を看取ることになるとは思ってはいなかった。


帰国したその日のうちに、兄に連れられ病室に行くと、母は私の期待するような反応ではなかった。前日にホスピスに移動したばかりの母の顔は、悲しげだった。

 その日、母は私に3日前に書いた手紙を手渡してきた。それは、たった一枚の私に宛てた遺書だった。
『えみの結婚式に出たかった。

えみの子供の顔が見たかった。

でも残念。間に合わなかった。

でも、お母さんは天国でずっと見守っているからね。
お母さんはやっと、苦しみから解放される。

これからはお父さんに良くしてあげてね。
えみには世界中の友達がいる。きっと幸せになれるよ。
私はいい母ではなかったけれど、あなたは良く育ってくれた。』

 「お母さんは、いいお母さんだったよ。」私は今、心からそう母に言いたい。
私の前ではいつも弱いところを見せようとしなかった母は、上海に旅立つ前も、涙は見せなかった。

しかし、私の友人がお見舞いに行くたびに、友人の姿に「えみを思い出す」と言って泣いていたそうだ。

私は、遠い上海で知る由もなかった。そのことを考えるたびに、母に寂しい思いをさせてしまったと、心に残る。しかし、あの日あの時あの時期に、夢に近づくチャンスを掴んだ私に、中国に行かないという選択肢はなかった。

母は、思いやりに満ちた人だった。祖母の家に行く途中、重い野菜を背負った見知らぬおばあちゃんを見かけては車を止めて、自宅まで送っていた。近所の叔母さんとお見舞いに行ったときのこと。

私が、「10日間しか日本に居れないから、今日は病院に泊まりたい。」と頼んだところ、「叔母さんは目が悪くて運転が思うように出来ないから、送って帰りなさい。」と母は言った。

それでも私が泊まると駄々をこねていると、「お願いだから、送って行って。」母は厳しい顔で私を叱った。自分が病気になっても、人のことを一番に考える母だった。

  母は、私が帰ってきてから少しずつ意識が遠くなり始めた。一週間もすると、言葉が話せなくなった。母はそのことを分かっていたかのように、家族全員に手紙を書いていたのだ。

2013年5月2日に入院した母は、その日のうちに医師から「余命半年」と告げられた。半年後に母の姉から骨髄を移植し、姉から「希望」をもらった母は、前向きに病気と向き合うようになった。しかし、血液のがんは再発した。

そして母を、これでもかと言わんばかりに、苦しめた。私はそんな母を見ているのが辛くて、現実に向き合うことを避けていた。

やっと向き合うことができたのは、母が亡くなる一か月前だったように思う。今まで母と同じように、強気に振る舞っていた私は、電池が切れたように弱くなり、怖くなった。

赤ちゃんに戻ってしまったかのような母の姿を愛おしく思う一方で、母のいないところでは、涙が流れた。
 ホスピスで迎えたクリスマスの日。高校生合唱団が病院に歌をプレゼントしに来てくれた。

「上を向いて歩こう」聴いたとき、その歌詞とは裏腹に、涙が止めどなく溢れた。

上を向いてみたが、涙はやっぱり流れた。隣の人も泣いていた。きっと、同じ気持ちなのだと思った。

2月4日、私が戻ってきた我が家に母は居なかった。ただ、母がいたという名残だけが残っている。

靴下を探すとき、料理をしているとき、私は母に話しかけたくなる。いつものように「お母さんと」。でも、母はもういない。

それでも母は、私の心の中に生き続けている。そう思うと、前よりもっと近くなったような気がする。

母は京都で短大を卒業すると、憧れの幼稚園の先生になった。私たちが成長すると、デイケアセンターで働くようになった。

ピアノや歌を練習してから職場に向かう姿は、若い時と変わらなかったに違いない。

 母は手先が器用だった。私が幼いころ使っていたカバンは全て母の手作りである。また、トールペイントを趣味とし、資格を持っていた母は一時期、トールペインティングの先生にもなった。

母の実家を解放して教室を開くと、たくさんの人が集まった。午前中は絵を描き、お昼になるとみんなお弁当を持ち寄って、たちまち料理教室に変身した。

そんな母に着いて教室に行くことを、私は毎回楽しみにしていた。母の絵の才能は、兄が受け継いだようである。
 母も昔は、わんぱくだったそうだ。ある日私は、家の鍵が無かったため、車によじ登り、そこから二階のベランダに飛び移り、泥棒顔負けの手口で家に入った。

そのことを母に自慢げに話すと、母は、「あなたの子供も将来車の上に乗るわよ。だって私も若いころ同じことしたもの。」と話していた。

 母が亡くなってから、父は毎日仏壇の前に座っている。何を話しているのか分からないが、お葬式の翌日、父は私に「天国でもう一回お母さんに会って、プロポーズせんといかんな。天国でもう一回結婚せんと。今度はもっと良くしてあげんと。」と言っていた。
 父と母の新婚旅行先は、アメリカだった。父と母が二人で踏んだアメリカ西海岸の土地を、私は大学四年の夏、一人で訪れた。ロサンゼルス、ラスベガス、サンフランシスコで過ごした日々は、父と母、私にとっても大切な思い出となった。

 母は、「生きるとは、人の為に生きること」と言っていた。その言葉の書いた紙を、私はしっかりとパスポートに挟んでいる。これから踏み出す一歩一歩が、「人の為に生きる、世界平和」の夢へと繋がることを信じたい。そしてこの命を、かけがえのない命を、精一杯燃やして、周りの人たちを少しでも暖かくすることができたら、母もきっと喜ぶだろう。そして私も、人生に悔なしと言うことができると思う。母の分まで、一生「懸命」に生きたい。
吉永英未

水餃子で楽しもう!
2010/09/22


水餃子で楽しもう ! 
        蘇穎(北京市出身)              鹿児島市日中友好協会交易部企画部員


今回の私の役割は先生として、水餃子の作り方を教えながら、参加者と一緒に水餃子を作って食べて交流するということです。

水餃子は、故郷の味です。小さい時から、家族は少なくとも週一回ぐらい餃子を作って、一緒に食べていました。大学に入学してから、水餃子を作って食べることはもう珍しいことで、食べるたびにホームシックになります。

ところが、22日の餃子教室はホームシックなんて全然なく、楽しんで過ごせました。

午後2時30分から、本番の餃子教室が始まりました。私は5分間ぐらいで中国の水餃子の由来や持つ意味、作り方などを説明しました。

そして十数人の参加者に三つのグループに分かれていただいて、他の先生と一緒にそれぞれの作業台で水餃子を作りながら教え始めました。参加者が持参のエプロンを掛けて、一所懸命頑張っている姿を見て私はとても感動しました。


水餃子の皮を私たちの先生が作って、参加者には餃子の包み方からしていただきました。

一、皮を手のひらにおきます……

二、具を適量にとって皮の真ん中にのせて、そしてしっかり押します……

三、具をのせたら半月状に皮を折り曲げて頂点で止め ます。

四、具は出ないように、皮の両端を親指と人差し指で挟み、指全体に力を入れてきゅっと閉じます。それで、一つの水餃子が出来上がりますよ」

と教えながら、参加者と一緒に、一つ一つの餃子を作っていきました。皆さんの「作品」はだんだん上手になり、15分ぐらいしたらもうプロになったような感じです。

が作った餃子は形も丸くて綺麗で、最後に茹でてもほとんど破れたものもなかったのです。



参加者の中で、一人年輩の方がいました。声を出された瞬間、皆がびっくりするほど上手な中国語でした。


日本人ですけれども中国人民解放軍の軍人でした。中国に十数年ぐらい住んでいて、作り方の難しい水餃子でも皮から上手く作れます。

そのお爺さんから、昔中国での話や、ずっと従事してきた日中民間交流のことをいっぱい聞かせていただきました。

そして、私たちと、二十歳ぐらいの一番若い参加者にとっては、お爺さんの不思議な経歴は、非常に意味のある面白い話でした。「先生たち」と参加者は、自分の中国との文化交流や

水餃子に関する経験を交流しながら、時間は全然気づいていないうちにどんどん過ぎていました。

最後に、皆で一緒に生餃子を茹でて、ぷりぷり美味しそうな水餃子がやっと出来上がりました。

「乾杯〜〜!」と、一時間ぐらいの努力で、皆の楽しみにしてきた水餃子パーティーがやっと始りました。


今度の餃子は水や小麦、野菜などの原材料から生地と具に作って、そして生地から皮に伸ばして具をのせて包んで、最後に茹でるということで、最も本場の水餃子を完全に作ったと言えます。

皆さんは「美味しいです!!」と何回も言って、やはり自分で作ったものが一番美味しいでしょう。


皆さんの最初から水餃子の作りを楽しんでいる笑顔をみて、最後に水餃子を食べて「美味しい」という声を聞いて、もう最高な満足だと思います。

結局予定時間はとっくに過ぎてしまったけれども、他の分科会のスタッフも参加して、皆で一緒に十分に楽しみました。

最後に片付けが終わって、もう疲れてぐったりしましたが、鹿児島の市民の方と色々な話ができたこのひと時は他の4人のにわか中国人ギョウザ先生もきっと留学中の忘れられない想い出として一生消えないことでしよう。

これから先、まだまだ自分の力を日中友好と国際交流イベントに出して、いろいろな出会いと一緒に素晴らしい思い出を作れるように頑張りたいと思います。

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