留学中の想い、いろいろ書きます。

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ひとの言葉から学んだこと−2−重慶の旅
2016/06/17


ひとの言葉から学んだこと−2−     吉永英未
                 (重慶の旅)


飛行機で約二時間半、アモイから、重慶に着いた。今回の旅最後の目的地である。

飛行場に着くと、長江師範学院の学生が迎えに来てくれていた。

それからバスに揺られること約2時間、にやっと涪陵にたどり着いた。長江を挟む緑の山。水があり、山がある。昔の人たちがこの景色を描き、詩で歌ってきたその美しさが目の前にあった。


昔はきっと、緑がもっと澄んで、水がもっと清かったのだろう。

 涪陵からタクシーに乗り、長江師範学院へ向かう。そしてついに、川野さん、貴福くんと再開を果たした。学部時代にお世話になった科学論研究会の先輩である川野さん、そして後輩の貴福君。


これからの4日間の重慶の滞在で私は二人にたくさんの迷惑をかけてしまった。しかし同時に、大切なことを学んだ。それは、先輩、後輩からの「言葉」であり、その「言葉」に考える自分自身との葛藤でもあった。


重慶の火鍋は真っ赤だった。お玉を使って具をすくうと、辛い調味料がその半分を占めていた。辛いものが苦手な私は、これは大変なところに来てしまったと思った。


翌日、大学の前で朝食を取った後、川野先生の授業に出させていただいた。そして案内された研究室に私は感動し、思わず写真をとり続けた。


そこに並べられた日本語に関する本、日本の小説やアニメ、日本文化を紹介する本や雑誌に、川野先生と貴福先生の仕事に対する情熱と学生への愛が溢れていた。

端午节という祝日には、川野さん、貴福くん、日本語学科の学生と一緒に重慶市内へ出た。

周りで話されている重慶弁は上海で暮らす私にとってとても新鮮で愉快に聞こえた。


自然が大好きな私を、黒い白鳥のいる公園に連れて行ってくださった。

ここの黒い白鳥は、学生陳小玲さんのあげるレタスはすかさず食べるのに、私が湖に落としたレタスには見向きもしない。そんな黒い白鳥を見て、私たちは笑い合った。動物たちの瞳はとても澄んでいた。


夜に見た重慶の100万ドルの夜景はとても風情があった。

霧が重慶の街を包み込み、町一番の夜景スポットはたくさんの人たちで賑わう。

夜になってから出てくるバーベキューの屋台とそれを包み込む煙、火鍋を取り囲みおしゃべりに花を咲かす人たち。人々の暮らしの拠り所とその温かさが霧とともに私にも伝わってきた。


中国。ひとつの国だが、一つ一つの地方それぞれに特徴がある。文化も方言も衣食住の週間も異なる。異なるがゆえに面白く、人々を魅了する。またひとつ、新しい中国を見つけた。


上海に帰る前夜、鍋を囲み、お世話になった川野先輩と貴福君、陳小玲さんと言葉を交換した。そして尊敬する先輩と後輩のお二人から、言葉を頂いた。


私は、ないものねだりすることが得意だ。でもそれは動機となり、ないものをあるものに、目標を現実にするきっかけとなる。


しかし、いま置かれている環境で、その任期が終わらないなかで、次の飛躍を望み過ぎることは、あまりよくない。なぜなら、私は「今」すらつかむことができていないから。


人間一人ひとりにはそれぞれの社会的役割がある。それは生きる原動力ともなり、生き甲斐とも言えるだろう。パンを焼いている人は、そのフワフワのパンを作ることで社会に大きく貢献している。平和を作ることは、平和活動に直接的に関わることだけではない。


自分の社会的役割を果たすことで、社会に大きく貢献し、それは平和を作っていることに変わりはないのだ。私はこれまで、平和に直接関わることで、紛争地に直接行くことで、貧困地域に身を置くことで、平和を築いていきたいと思っていた。それができていない現在のもどかしさに、自分自身を否定していた。


しかし、そんな私は、研究生という社会的役割すら果たせていなかった。そんな大切なことに、やっと気がついた。


そして、置かれた場所で花を咲かすこと。実際に置かれた環境と自分に与えられた仕事を愛し、情熱を注ぐこと、それが幸せをつかむ近道なのかもしれない。

最後に、人と比べないこと。私は中国に来てから、これもあの人にはかなわない、あれも及ばない、と人と自分を比べるようになってしまった。


そしてそのたびに自分の自信を失い、小さくなっていた。私は、復旦哲学部の先輩からの言葉を思い出した。


「人間は総合動物なの。欠点があって、いいところもあって、全てをひっくるめたのがあなたなの。あなたはあなたの過去を乗り越えて、今のあなたがある。


そしていまの道を進み続けているのは、あなたしかいない。あなたもわたしも、唯一なの。」唯一の自分。。。だから誰かと比べることに意味はなさないということ。そう考えると、とても楽になった。


復旦に戻ってくると、大学は期末テスト、そして卒業のムードに包まれていた。大学の先生方は忙しそうに、今学期のまとめに追われている。光華楼の前の芝生では卒業生が記念写真を撮っていた。またあっという間に、一年が過ぎた。


9月からはいよいよ最終学年、修士3年生となる。みなさんから頂いた共通のアドバイス、それは「とりあえず論文を書きなさい」というこである。


誰かが、論文は自分の子どものようだと表現していた。わが子のように可愛がり、練り上げていく。無事に卒業できるようにこれからは地にしっかりと足をつけ、論文と向き合っていきたい。


   今回の旅で出会った方たちの言葉に、そして何よりも一つのことに情熱を注ぐその背中から、言葉を越えた何かが伝わってきた。


それは明らかに、今の私には無いものであった。不器用ならば、ゆっくりでいい。でも、いつか私も、その何かを自分の手でつかみとりたいと思う。


2016年6月14日 復旦大学留学生寮1615室にて 

ひとの言葉から学んだこと
2016/06/17


ひとの言葉から学んだこと−1−
  (福建の旅―泉州・アモイ)

一人ひとりの、一言ひとことには、実はとっても大きなものが隠されている。なんでこの人はこんなことを言うんだろうとか、なんでその考えにたどり着いたのだろうとか、考えてみるとその言葉の背景までもっと知りたくなる。

今回の旅で出会った大切な人たちから、とても貴重な「言葉」をいただいた。この言葉は、あの日あの時あの人からしかもらうことのできない、かけがえのないものであった。


どんなにお金をかけても、時間をかけても、あの言葉を、あの時のあの人以外からはもう二度ともらうことはできない。だからこそ、その言葉に、大きな意味があるのだ。その「言葉」から、わたしは今回の旅を私なりの言葉にしたいと思う。

「明日死んだって後悔しない。」いったい何人の人がこの言葉を口にすることができるだろうか。私は、残念ながらまだそう言うことができない。でも、そう思えるように生きたいといつも思っている。そんな人生を歩めるということは、どんなに幸せなことなのだろう。


上海を出る前のわたしは、「この場所から出ていきたい。外で学び、考え、また戻ってきて頑張りたい。」と外の世界に期待を寄せていた。上海ー泉州行きの飛行機はそんな私の期待をよそに、5時間遅れで出発した。


しびれを切らしたお客さんが航空会社の人たちに不満を抗議するのをよそに、わたしは飛行機の離発着を延々と眺めていた。普段大学内の敷地から全く外に出ない私は、外のもの何もかも新鮮に思えた。


泉州は暑かった。上海では薄い長袖を着ている人たちが多い中で、福建省ではもう夏が来ていた。真央さんとは、3年ぶりの再会。私はいつの間にか、三年前一緒に大連に留学した当時の真央さんと同じ年になっていた。


私たちは、変わらない笑顔で、華僑大学の噴水の前で再会を果たした。翌日の午前中、真央さんの担当する授業を見学させていただいた。


日本語学科三年生の流暢な日本語によるプレゼンテーションに驚いた。教室の一番後ろに座っていた私は、上海よりもかなり暑いのと、それが心地よさにも変わり、眠たくなってしまった。

立ち上がってキャンパス内を少しだけ歩いてみた。キラキラと太陽の光を浴びて輝く緑と、すっかり夏の格好をした学生たちの姿を眺めていた。


中国の大学はたくさんあるけれど、どの大学も特色があり、ただキャンパスを歩いているだけでも発見があり、面白い。


真央さんの生活に密着した二日間。二人でおしゃべりしし、人生観を語った。毎日笑顔で生きていくことが、何よりもの親孝行なのかもしれない。


泉州での二日間はあっという間だった。とても居心地のよい先輩の部屋を離れ、厦門での4日間のひとり旅行が始まった。何事も、最初はとても難しい。それは知らない土地で予約した宿を探すことも例外ではない。


私は重たいリュックを背負い、予約したホステルを探すために3時間以上歩き続けた。地図が差していたのは実際のホステルと全く違う場所だった。オーナーに連絡してやっとたどり着いた宿は薄暗いアパートの6階。


安全ではないと判断し、私はエレベーターを降りることなくそのまま1階まで下がり、新たに泊まる場所を探すことに決めた。


自然の豊かなアモイを期待していたが、バスを降りて歩いたところは繁華街。上海と変わりないと思い勝手にがっかりしてしまった。ホステルを新たに探さなければならなかったが、時計はすでに午後九時を回っていた。


その日泊まるところが決まっていないのに、私は冷静だった。そして、なぜか本能的に厦門大学へ向かっていた。大学の周りの宿を探そうと思ったのだ。


私は、どこの国でもどんな地方でも大学が大好きである。私は導かれるように、大学行きのバスに乗った。
厦門大学に到着すると、周辺のホステル探しを始めた。


ケータイの地図を見ながら、ホステルに向かう。そんなとき、ひとりの男性が話しかけてきた。私が日本から来た留学生だとわかると、自宅からとても近いということで、国際ユースホステルまで案内してくださるという。


なぜか英語で会話をしながら、ホステルの入り口まで案内してくださった。あとから、その方は厦門大学の職員の方であることを知った。現地の方に親切にしていただき、私は心が温まるとともに、勇気も出てきた。


案内していただいたホステルは予約していなかったため部屋がなかった。しかし、新たに別の宿を予約すると、オーナーが私を迎えに来てくれることになった。

この時、午後10時を過ぎていた。迎えに来てくれたオーナーは、私よりひとつ上の女の子だった。


女の子、と表現したのは、彼女がちびまる子ちゃんのようなとても可愛らしい女性だったからである。このオーナーが、夢を追いかけてアモイに来た女の子、乐萱である。


彼女はコーヒーの魅力に感動し、将来ふるさと山東省でカフェを開くために、現在アモイでコーヒーを専門的に学んでいるという。そんな彼女のところで3日間泊まることになり、私は彼女の人生について言葉を交換することとなる。


アモイに着いて二日目、昨夜の疲れも一晩で吹っ飛び、私は軽快にホステルを飛び出した。

まず最初に、厦門大学の隣の南普陀寺を訪れた。

「ちょっと山を登って、降りたところから直接厦門大学を見学するといいよ。」と教えてくれた乐萱。

しかしそのちょっとの山登りが一時間以上かかり、何より3メートル進むごとに毛虫が上から落ちてくる、もしくは左右のどちらかの木に毛虫がぶら下がっているという山で、その毛虫を避けるのに必死であった。


これから蝶になるとはいえ、毛虫はやはりこわい。私はこの毛虫君たちのおかげで、縫うように山を登っていった。登山の途中で、廈門が一望できる大きな石の上で休憩した。美しい景色に、自分はアモイに来たのだと、改めて実感した。


頂上に着くと間もなく下山し、乐萱に言われたとおり、厦門大学の南門から大学に入った。中国一美しいキャンパスを持つという厦門大学。一度は見てみたかった。日差しが照りつける中、私は足を止めずに歩いた。厦門大学は、学内の山を登っていくと湖がある。


この湖の景色は美しかった。なんといっても緑が、輝いていた。学内とは思えない自然の美しさに、私は息を飲んだ。こんな綺麗な大学の中に住んでいたら、毎日この湖の周りを散歩したいと思った。


広すぎる大学を歩き回り、午後3時頃には宿に帰ってきた。汗を流して、お昼寝をしたあと、、乐萱とベランダで語り始めた。人との出会いが、旅の醍醐味であることは、これまでもこれからもずっと変わらない。わたしは彼女と人生について語り始めた。


半年前に山東省からアモイに来た彼女は、ここでコーヒーの専門学校に通いつつ、友人の開設したホステルを運営し寝泊りを解決している。そんな彼女は近い過去に地元農村の小さな村の交差点で交通事故に遭い、九死に一生を得た。


ヘルメットを付ける習慣のないこの中国の道路で、ノーヘルメットが当たり前だと思うのは彼女も例外ではなかった。旧正月のとき彼女は親戚のおばさんの家を訪れていた。


おばさんは、欲しいと思ったものはなんでも、その値段に関わらず買ってしまう癖がある。バイクに乗ることもないおばさんは、旧正月を迎える前、お店で綺麗なヘルメットを見つけ、どうしても欲しくなり、家に持って帰ったという。


ちょうどその後日、おばさんのところを訪れた乐萱は、あまりにもかっこいいヘルメットなので、「おばさん、今日一日だけ使わせてもらってもいい?」と言ってその日の夜そのヘルメットを借りて帰路に着いた。


そのおしゃれなヘルメットが、彼女の命を救うこととなるなんて、そのときの乐萱は全く想像もしていなかった。


地元でも事故多発の場所として有名になっているその交差点は、信号もミラーもない。彼女はいつものように気を払い、減速して交差点に入った。すると横から来たトラックのライトが眩しく彼女の目を照りつけた。


彼女は10メートル以上飛ばされ、全身に痛みが走るのを感じた。意識はあったが、立ちたいけれども立てない。次に意識がはっきりしたときは病室の中だった。


その交差点では過去に何度も事故が起きており、死亡事故も何件も発生している。しかし、その改善は未だに施されていない。村の人たちは、「村長の息子があの交差点で事故にでも遭わない限り、この交差点は改善されないよ。」と諦めてしまっているらしい。


そして乐萱はあの日、事故に遭った。その日に限って一番厚めの服を着ていたという彼女は、全身を強く打ったにも関わらず、大きな怪我はなかった。しかしその身体を守った服はズタズタに引きちぎれていた。


なんといっても、決定的に彼女の命を救ったのは、あの「おしゃれなヘルメット」であった。普段ならヘルメットを付けることのない彼女が、おばさんの贅沢な習慣から手に入れたヘルメットに命を救われたのである。


返すことを約束したヘルメットだが、とても返すことのできない状態になっていた。彼女は一ヶ月ほど病院で様子を見て、退院した。
九死に一生を得た彼女は、人生について、悟ったという。


彼女の話を私はただただ聞いていた。そして私たちは人生について語り始めた。90年生まれの彼女だが、周りの人達は皆結婚して子供を産んで生活をしているという。しかし、彼女に会うたびに、自分の人生が楽しくない、と不満をこぼすという。


私たちは、ベランダの椅子に座り、蚊に噛まれながら、それでも話し続けた。彼女の人生観、夢への固執とその裏にある不安。聞きながら、彼女の中に何度も自分を見つけた。彼女と共通する自分が何度も見え隠れした。


結論は出すことはできないけれど、彼女と出会えて、こんなに言葉を交換することができて、本当に良かった。

一人で観光地を歩いていると、たくさんのことを考える。考え考え、目の前の景色がせっかくあるのに、気持ちは上海を思っていたりした。


観光地は各地から来た人であふれ、家族連れや恋人たちが手をつなぐ姿を見るたびにさみしさすら感じた。人の海をくぐり抜け、やっと宿に帰ってきた夜、乐萱とパソコンで映画を見ていた。



外から帰ってきた旅人が私に笑いながらこう言った。「あなた上海からせっかくきて映画を見ているの?」私は笑顔で、「そうだよ!」と答えた。気さくで明るい乐萱と一緒にいると、常に笑いがあり、とても楽しい。


そしてその日の夜、厦門大学に劇を見に行った。乐萱と、宿で知り合った厦門大学の卒業生三人で見に行った。涼しくなったアモイの夜を三人で笑いながら歩いたとても幸せな時間だった。


厦門での4日間が過ぎ、6月7日、重慶へ向かうべく、朝7時にお世話になったホステルを出た。乐萱は私をバス停まで送ってくれた。




  

後輩と先輩の背中に学ぶこと
2016/06/02


後輩と先輩の背中に学ぶこと
復旦日記 5月 2016年

 先日、学部時代の後輩、上橋望海さんとスカイプをさせていただきました。後輩の彼女の活躍は、勉強と未来の不安に行き詰まっていた、意気地のない、努力の足りない私に大きな勇気をくれました。

また彼女を見ていると、まるで過去の自分を見ているようでした。私も学部時代は、情熱と大きな夢を持ち、失敗を恐れずに目標に向かって突き進んでいました。現在の私は、様々な原因から内向的になり、笑顔すら忘れてひたすら机に向き合い、効率のない方法で学問と向き合い、効果を得られない自分にまた落胆するという悪循環を繰り返していました。


望海の現在と私の過去を重ね、彼女から、そして過去の自分から「えみ、前を向いて頑張るんだよ!」と励まされたようでした。後輩という存在は、先輩が予想している以上に飛躍し、そしてその活躍がのちに先輩の大きな励ましになってくれるのだと実感しました。

 今週の水曜日わたしは福建省を訪れます。まず最初は、国際大学時代に一緒に大連に留学し、お世話になった中尾真央先輩に会います。


そして次に、鹿児島大学でお世話になり、重慶にいらっしゃる川野先輩に会いに行きます。二人とも日本語の先生として活躍し始めて、三年が経ちます。

 この旅に出ることになったきっかけも、ここ復旦での生活にあります。毎日笑顔のない日々を過ごしていた私は、「修士一年生の頃の明るいえみはどこにいったの?」と同級生に心配されるほどでした。


修士論文と将来への不安、進歩の見えない自分に落胆し、何日も外に出ない日々が続いていました。去年卒業してしまった友達の存在がどれだけ大きかったのかと実感しました。


 そんな自分とさよならすべく、といいいますか、中国で目標を見失いかけている私に、なにかヒントをくださるのではないかと思い、思い切って、9月に現地を離れてしまう先輩二人に会いにいくことにしたのです。


二人の先輩は、鹿児島国際大学、鹿児島大学の先輩で、私が過去にどれほどお世話になったのか知れません。ときに私を私を叱って下さる先輩は、本当に、私のことを思い、まっすぐ前を見てほしいから、厳しい言葉をくださるのだと思います。


 上海から飛行機で福建省泉水市の真央さんのもとへ。そのあとアモイを観光して、飛行機で重慶へ。帰りは成都から列車で一日かけて上海に帰る予定です。


この10日間の先輩を訪ねる旅がどんなものになるのか、またどんな苦難が待ち受けているのか分かりませんが、上海に戻ってきたら、少しでも笑顔になれたらいいなと思います。


そしてもちろん、先輩方の活躍する背中から、言葉以上のものを学び、様々に想い、成長することができたらと思います。


 復旦に来て、何度目かの切ない思いを噛み締めたこの一学期でしたが、唯一変わらないものは、薄れかけていた私の夢であり、母の願いでもあります。


世界中の人たちが、(いまは欲張らずにまず周りの苦しんでいる人たちが、)一人でも幸せに、笑顔になれるように。私は努力を止めないでしょう。


前に進めない、苦しい時も、やはり、努力する足を止めてはいけない。どんなに遅くてもいいから、走り続ける。結果ではなく、足を止めないことに大きな意義があるから。

それは先週参加した学内の10キロマラソンの際に自分に言い聞かせた言葉でもありました。


 後輩からの励ましと、先輩に会いにいくことの期待。甘えんぼうの私はいつも誰かに頼ってしまっている気がしてなりませんが、旅に出るのはほかの誰でもない自分自身です。


自分の姿は自分で見るこはできない。

いくら努力したって、前に進んでいるのかわからない。誰も褒めてくれる人はいない。

でもだからこそ、自分の本当の心の声に、耳を傾けてあげたい。そしてこう励ましたい。「えみ、わたしは足を止めないあなたをちゃんと見ているよ」と。

今回の日記では、生死と人生について書きたいと思う。
2016/04/29


 自分へ。そしていま「頑張っている」人たちに  −復旦日記―
2016年4月27日水曜日    吉永英未

4月は日本では新学期の季節だ。ここ中国では6月に卒業を迎えた学生が卒論とその発表に真剣になり、一番緊張する時期であると言っても良い。


私はというと、そのように忙しくする先輩方を見ながら、一年後は自分が卒論に、そして卒業を目の前にして様々な感情が浮かび上がっているのだろうと思いにはせる。と同時に、他人事ではない、と私も焦りを覚える。


はっきりいって、卒業はしたくない。こんな素晴らしい環境に、ずっといたい。でも、私が本当に学びたいもの、貧困問題や紛争解決、兵士の社会復帰などをここで学べるのかと聞かれると、答えはNOでる。


そのため、気持ちは焦り、私に課された歴史学の研究方法で研究した論文を提出すること、そしてあと三ヶ月と迫るIELTSの試験は、ますます私を不安にさせる。前に進みたいのに、進んでいる気がしない

時間をかけるべきではないところに時間をかけて、本当に時間をかけなければならない課題から逃げている。そんな気がしてならない。


 読みたくない本や英語の長文を見ると眠くなるのに、好きな本を読んだりドキュメンタリーを見ていると、時間すら忘れてしまう。

それは家の外でも同じで、好きな人と過ごす時間はすぐに過ぎてしまい、内容の理解しにくい授業では15分間が過ぎるのもやっとのことである。

こんな自分ではいけないと思いつつ、なんとか力を入れようとするが、三歩進んで二歩下がるという具合で、効率は決してよろしくない。

学問の話はここまでにして、今回の日記では、生死と人生について書きたいと思う。生死について、語るには25歳の私にとっては早いだろうと思われるかもしれない。しかし、決して早くはない。むしろ、遅いとも言える。


人間は、必ず死ぬものなのに、死ぬのはいつも周りの人たちである。そうやって周りの人達を見送っているうちに、自分もいつかは死ぬのだ、と自覚する。でもまた健康に日々を送っていると、そんなことも忘れてしまう。


生きるということ。なんのために生きるのかということ。自分の夢を叶えるため。じゃあ夢って何なんだ。幸せのため。じゃあ本当の幸せってなんなんだ。


それはきっと、お金持ちになることじゃなくて、権利や地位があることじゃなくて、嫌いな人がいなくて、好きな人に囲まれて、愛に包まれて、誰も憎まず、憎まれず、愛し、愛されて生きていくことなのかと思う。


毎日綺麗な夕日が沈む姿を見て、夜には星を眺めて、味噌汁ご飯だって美味しく感じてしまう。だってわたしはいま、幸せだと感じているから。


 プレッシャーの中で生きていくことは、決して楽なものではない。権利や利益が背後にあれば、それを失うもしくは得られるかという不安に飼われて生活しなければならない。果たしてそんな息苦しい生活が、幸せだと言えるのかはわからない。


「どうしようもないじゃん」と言われても、しかたがない。しかしいつか、ほんの少しの間でいいから、立ち止まって、自分の姿を見つめることもいいと思う。


自分の姿を見てきっと、落胆するかもしれない。でもきっと、「何か変えないといけない」と思うかもしれない。

私はいま、復旦大学卒業という大きな目標と、それに引き続く博士課程入学という目標との狭間にいる。どちらもまだ実現していないが、それを実現させるために、踏ん張っているつもりである。

どちらかというと、踏ん張っているフリをしているのかもしれない。

ただ、一度立ち止まって考えてみたとき、「いまあなたは幸せですか?」と聞かれたとき、答えに困ってしまう。それは私だけではないのかもしれない。

きっと、たくさんの人がその答えに困ってしまうだろう。果たしてその原因は何なのだろうか。そしてそれを解決し、皆が幸せに暮らしていけるにはどうしたら良いのだろうか。


部屋の中で、勉強をしている時以外、私はいつもそんなことを考えている。母の死から一年以上が経つが、母がこの世を去ってから、私は立ち止まって考えることが多くなった。これは非常に良いことである。


そもそも私は何のためにこんなに努力しているのか。もしくはなぜ努力が足りていないのか。そうやって自分に問いかけ、どうかわたしの命が尽きる前に、少しでも困っている助けが必要な人たちの力になりたい。そう思う。

 
ここにきて、たくさんのとき、怖くて眠れない。目を閉じると金縛りにあったり、次の日目が覚めないのではないかと思い、眠るのが怖くて、目を閉じることができない夜がある。


長い長い夜。本を読んだり、書ものをしたりして過ごす。でも大半は、「生きるということ」そして「この世を去る」ということを考えている。

そんな長い夜が明けたとき、あることにふと気づいた。
「良かった。今日も生きている。」
そして、いつの間にか新しい朝がやってきたことに気づく。


天気が曇りでも、雨でもいい。ただ、朝が来ればいい。そして、思う。
生きるということは、何かを残したり、何かを成し遂げたり、毎日幸せに生きるように気をつけることじゃなくて、一日いちにちを一生懸命に生きるただそれだけでいいのだ。


ただそのことだけに集中して、「生きている」と、毎日が思いのほか輝くのだ。

葉っぱの上の水の雫が輝いていたり、猫がバイクの椅子に座って気持ちよさそうに寝てるのを見たりして、くすっと笑えるような、そんな毎日でいいのだ。何も残さなくていい。


ただ一日いちにち、出会う人に少しだけ微笑んで見せたり、質素なご飯でも美味しそうに食べたり、うまくいかないことがあったとき、長い目で見て平気でいられるような、これはちょっと難しいけど、それくらいの安静な心をもって、日々を生きていくということ。それだけでいい。


そんなに忙しい毎日に頑張らなくていい。何かを残そうと、もしくは何かを得ようと、必死にならなくていい。ただ一日を、一生懸命に生きればいい。


太陽の光を体の芯から感じること、風が身体に当たるあの感覚を心で感じ、においを感じとること。どうでもいいようなことで微笑み、幸せを感じること。それだけでいいのだ。


この世界は、あなたがいなくても回っている。あなたがどんなに苦しみ、悲しんでいても、びくともせずに回っている。

でも、あなたが笑顔になると、あなたのことを愛し、心に留めてくれているひとが、幸せになれる。それだけで、あなたは十分に、地球に、世界に貢献しているのだ。


だから、もっと笑顔になってほしい。もっと気負わずに生きてほしい。肩の荷物をおろして、そっと草花に話しかけてほしい。そしたらきっと草花も微笑み返してくれるから。

 自分へ。そしていま「頑張っている」人たちに言いたい。


どうか頑張りすぎないで。でも一生懸命に生きて。生きるということは、もっと簡単でいいんだよ。草花が一心に太陽の光を浴びるように、じつはとっても単純で、簡単で、でもあなたが気づかないうちに、しっかりと人を魅了している、そんなものなんだ。と。

流れる時間と思い出になる日々
2016/03/31


流れる時間と思い出になる日々

2月7日深夜12時に台湾の桃園飛行場を出発し、深夜2時半に上海、浦東国際空港に到着した。6時まで地下鉄の開通を待って帰ろうと思ったが、うとうととしている間に荷物が無くなることを恐れ、やはりタクシー(黒車)に乗った。


復旦大学に帰ってきたのは、深夜3時すぎだった。前日の夜から一睡もしていないのに、深夜に帰ってくるやいなや、一ヶ月間留守にしていた部屋のモップがけを始めた。一ヶ月の東南アジアでの旅行、そして上海に帰国する前日に体験した台湾での地震、春節前夜の飛行機、なぜか落ち着いて眠ることができなかった。


そうしているうちに、夜が明けた。私は、朝一番に食堂へ向かった。寮の部屋のインターネットが期限切れで使えなったため、食堂のインターネットを利用するためだった。


2月8日は中国の大晦日。大学の寮は人っ子ひとりいなかった。中国人学生はみな故郷に帰省し、留学生もみな帰国していた。私は、台湾よりずっと寒くなった上海に一番厚めのコートを着て、携帯片手に食堂へと急いだ。


食堂で携帯とにらめっこしていると、一人の若い男子が話しかけてきた。「お正月なのに帰らないの?」 「うん。」私が答えると、彼は私の横の暖房のスイッチを付けて、また話を続けた。


「どこ出身?」 「日本。」 「日本?!」彼は驚いた。「日本は春節を過ごさないの?」 「日本は元旦を過ごすよ。」 「そうなの。。。」私たちはお互いの名前も知らない中、少しの間、会話をした。Wechat(LINEのようなもの)を交換すると、彼は仕事に戻った。これが、私たちの最初の出会いである。


馬佳明との出会い

その日の夜、彼はチャットで、『今日の夜は中国の大晦日。食堂で食事をする人は、学内の人も学外の人も1分元だよ』と教えてくれた。私はその嬉しい知らせを聞いて、夜また食堂へと戻って来た。


それからというもの、彼は毎回食事の時間になると『ご飯食べた?』と聞いてきた。私が『いま図書館にいるからまだ食べてないよ。』と言うと、なんと図書館の前まで彼の作ったごはんを持ってきてくれた。


私はというと、春節のためすべてのお店が閉まり、インターネットのカードを買うことができず、毎日のように寮から一番近い北区の清真食堂に通った。


このハラムの食堂で働いているたのが彼、馬佳明である。私たちはほぼ毎日食堂で顔を合わせるようになり、彼のお昼休みには一緒に散歩をしたりするようになった。出身も年齢も宗教も、何もかも違い過ぎる私達は、大学内を歩きながら、お互いについて話をはじめた。


馬佳明は、1997年甘肃沁水生まれ、回族のムスリムである。農村生まれで家が貧しかった彼は、15歳から出稼ぎを始めた。『無席』の列車の切符を買った彼は、甘肃から北京まで、「立って」来た。


北京での最初の仕事は一ヶ月1500元という給料の食器洗いだった。その後、警備員の仕事をした。給料は3000元に上がり、年齢が小さいが仕事ができると褒められ、正社員にならないかと勧められた。


しかし、ムスリムの彼はハラムのレストランでしか食事をすることができず、食事のことを考慮すると同じところにいることはできなかった。 その後、姉の紹介のもと、冷蔵庫を運ぶ仕事についた。家庭用の大型冷蔵庫を一人で背負って運ぶという毎日に、彼の腕には、一生残る傷跡ができた。


しかし、母親の「技術を身につけられる仕事をしなさい」とのアドバイスのもと、彼は杭州で手打ち麺を学ぶことにした。オーナーは上手く麺が打てない彼を麺伸ばし棒で殴った。


こうして苦労して手に入れたのが、「手打ち麺資格書」であった。 この資格書を手に入れた彼は、現在の仕事である、大学の清真食堂で麺を打つ仕事に就いた。冬休みの間だけ、彼は復旦大学北区清真食堂に配属されたのである。

そして、私と出会った。


食堂で静かに迎えた20歳の誕生日
2月22日に、私の友人とともに、彼の二十歳の誕生日を祝った。家が貧しい彼は、一度も誕生日を過ごしたことがなく、一度もケーキを食べたことがないという。


そんな彼のために、5ピースの、ハラムのケーキを囲み、私たちは彼の仕事が終わった夜8時に食堂で、静かに誕生日を祝った。


大陸に横たわる貧困
きっと、多くの日本人の方には理解をすることが難しいと思う。中国の貧困問題は、今もなお、この大きな中国大陸に横たわっている。テレビや本から得られる現状そのものは本当に限られている。


私は、去年の夏休み貧困地区の小学校でのボランティアを通して、その現状を少しだけ、垣間見ることができた。しかし、本当の「貧困」というのは、身近なところにあって、こうして出稼ぎに来ているほとんどの農村出身の人たち、またその家族は、貧困の連鎖に苦しんでいるのである。


ここでは長く書く事ができないが、私が現在のサークル、「校工服務隊」に入っている理由の一つもここにある。遠い故郷を離れ、北京や上海、広州などの大都市に出稼ぎに来る農村部の人々。


私のような小さな人間に、大きなことを実践することは難しいが、まずは、「関心」を向けること、そして同じ目線で、目の前の現実を見つめることが、大切なのではないのだろうか。


その実践を行っているサークルに入り、彼ら出稼ぎで働いている人たちのために自分の小さな力を捧げることに、私はためらいを感じることはなかった。


中国のムスリムの方たち

中国には、56の少数民族がいる。しかし、人口の90%の人びとが漢族である。そのなかで、回族はアッラーを神とするイスラム教信徒、ムスリムである。


豚肉がタブーなことは周知のことだが、他の肉でも、イスラム教の、特別に裁かれた肉しか口にすることができない。そして、一日5回のお祈りと、お酒や風俗などにも近づくことができない。食事も、ハラムのレストランでしか食べることができない。


私はムスリムの文化について、インドネシアでの生活を通して少し理解することができた。そのため、中国のムスリムの方と接するとき、さほどの距離を感じることはなかった。むしろ、親近感さえ感じた。


中国少年学社(校工服務隊)

私は、復旦大学に入学した当時から、中国少年学社というサークルに所属している。修士一年生の頃は、月に一度ほど読書会に参加する程度だった。


しかし、馬佳明と知り合ってから、この図書室を彼に紹介し、わたしもより深く、このサークルに関わるようになった。私たちサークルは、社会問題に関心を持つ学生の集まりである。


学部時代に鹿児島で科学論研究会にお世話になっていた私は、復旦大学にも同じようなサークルがあると知り、なんのためらいもなく入った。

私達サークルのもうひとつの役目は、復旦大学で働く人たちのために尽くすことである。

復旦大学には、食堂で働く人たちや、掃除をするひと、警備員など、様々な職種の方たちが働いている。この方たちの活躍があって、私たちが安心して学生生活を送れているのである。

しかし、彼らの賃金は低く、ひと部屋8人でお風呂もないという劣悪な寮に住み、ほぼ休みなく、一日11時間、それ以上働いている。


私たちは、聞き取り調査を通して彼らの労働状況を把握し、報告書にまとめたり、校工員たちと交流する場を設けている。

活動室は、校工員たちの寮の二階に作った小さな図書室である。この図書室には、図書館が本を処分する前に私たちが回収した本や、経費で揃えた本、私達個人が寄贈した本が並んでいる。


わたしも、日本語の本をいくらか寄贈した。そして、図書室には、仕事が終わったあと校工員たちがおしゃべりにやってきたり、高齢の方で、インターネットを利用したい方など、なんらかの手助けが必要な方たちが来た際に、お手伝いを行っている。


英未の日本語教室

私は今学期、彼ら校工員を対象として、日本語を教えている。毎週火曜日、彼らの仕事の終わった8時半から9時半まで日本語の授業を開催することになった。


私も、校工の方たちのために何か出来ることをしたいと思い、始めた日本語教室だが、30名近くの応募があり、小さな教室はいつの間にかいっぱいになった。

授業に来てくださる人たちは、97年生まれから食堂で働く50代のおばさまたちまで様々である。


救われたのは、わたしのほうです。
実はこの授業が始まるまで、私の生活は空っぽだった。今学期、授業は週に一度しかなく、人と接する機会が急激に減った。


クラスメイトはみなインターンシップで学校に居ず、また、これまでなんでも話せていた友達がみな日本に帰国し、わたしは本当に一人ぼっちになってしまっていた。


東南アジアでの一ヶ月の旅から帰ってきた私を待っていたのは、「孤独」、そして論文、英語、将来のプレッシャーだった。


毎日机の前に座りながら、何もしないうちに一日、また一日と過ぎていく日々。やらなきゃいけないことは山ほどあるのに、なぜか前に進まない。進めない。

論文は振り出しから動けず、IELTSを申し込んだものの、高校二年以来英語の試験を受けたことのないわたしは、読解能力の下降に、どこから手をつければよいか分からなかった。


そして、覆いかぶさる将来への不安。

そんなときに出会ったのが、馬佳明だった。彼とはじめて散歩をしたとき、彼はわたしにこう言った。

「僕はえみが羨ましいよ。だから、頑張ってね。」この一言が、このたった一言が、私をどれだけ変えたのか、計り知れない。

馬佳明は3歳の時、石炭を掘っていた洞窟が爆発し、父を亡くした。彼は家族に仕送りをするため、15歳の時に出稼ぎに出た。


私は、自分が15歳だった頃を思い出した。両親の愛に包まれて、恵まれた環境で、学問と、幸せな学生時代を送っていた。


人生はなんでこんなにも異なるのだろう。見知らぬ男の子から、親友と呼べるまでに仲良くなった私たちは、お互いの人生のあまりにもの違いに、ただ、言葉では表せない思いに胸がいっぱいになった。


私は、中国政府から奨学金を頂き、このような恵まれた環境で、学ぶ機会を頂いている。それなのに、孤独だ、とか、さみしい、とか、勉強についていけない、と言って毎日自分に理由をつけては現実から逃げていた。


「えみは、夢を諦めてはいけないよ。今のえみに一番大切なことは自分の夢を実現させること。」6歳も年の離れた弟分の親友が、毎日のように暗い顔をしている私にこう声をかけてくる。

ほかのどんな人から励まされるよりも、力になった。と同時に、前に進んでいない自分を悔しく、そして情けなく思った。


彼は15歳から見知らぬ土地で出稼ぎをして、こんなに苦労をしてきているのに、わたしは、、、、。私にできることは、、、私に課された使命は、、、。毎日のように、そう考えざるをは得なかった。



馬佳明は、わたしに、「えみからもらったものが多すぎて、どうやって感謝すれば良いか分からないよ。」と言う。しかし、実際に感謝しなければならないのは、私のほうであり、私を孤独の暗闇から救い出してくれたのは、彼のほうであった。



「とき」は、止まらずに流れていく。。。

運命は、予想もつかなくて、人々の人生は、こんなにも異なる。。。

わたしは、「生きた時間」を過ごしているのだろうか。

また、一日一日を無駄にしてはいないだろうか?

わたしは、何のために生きてるのだろうか。そんなことを、いつも考えながら、また「とき」が流れていく。。。

卒業まで、あと半分を迎えた今学期、この一学期の努力が今後の一生を決めるといっても過言ではないかもしれない。

だからこそ、焦り、ときに怖くて、諦めたくもなる。

でも、私に与えられた出会いはすべて力になって、これから歩む道を照らしてくれる光になると信じている。

私は、歩み続けなければならない。

2016年3月29日 復旦大学留学生寮1615室にて

英未の中国語エッセイ『我和馬佳明』
2016/03/29


英未の中文随筆『我和馬佳明』―(マー君とわたし)ー
http://www.nihao-kagoshima.jp

英未の『東南アジア平和之旅2016』スライド集
2016/02/27


https://youtu.be/e3bIjuLTsfQ

スライド集をYouTubeにUPしました。

英未の東南アジア『平和之旅』最終・第5章台湾
2016/02/25


英未東南アジア平和之旅 第5(最終)章 シンガポール、台湾

 インドネシアのスラバヤ空港から世界有数のハブ空港であるシンガポールのチャンギ国際空港に到着したのは夜7時頃だった。


私たちは急いで出国手続きを済ませ、一晩だけのシンガポールを体験すべく市内へと向かった。


 ほんの数時間前まで、バスも見つからないスラバヤ島にいた私たちは、今、ネオンの輝く大都会・シンガポールにいる。


 眼に映った人びとが本当に新鮮にみえる。地下鉄に乗った。インド系の人とアジア系の人が英語で話している。どうやら、会社の同僚のようである。


反対側の耳からは中国語が聞こえてくる。看板には英語、中国語、インド語が書かれている。


ここでは様々な民族の人たちが、様々な言語を話し共存しているのだ。なんと魅力的な国だろう。。。

 街並みの風景はどこか上海と似ている。一足先に上海に帰ってきてしまったような、そんな気さえした。


しかし、ここの物価は相当高かった。インドネシアで六日間で使ったお金を、シンガポールでは一晩で使ってしまいそうだった。物価の安い国々を渡り歩いてきた私たちは、日本並みの物価に驚き、財布の中の残高を何度も確認した。


 中国で2元の「肉まん」も、シンガポールでは2ドル、約10倍である。私たちは肉まんを片手に噴水ショーを見に行った。

翌朝の飛行機で台湾に飛ぶ。『東南アジア平和之旅』最後の駅である。。。


 5年ぶりの台北

 5年前、大学二年生の夏休みの一ヶ月間、私は台北のアマの家に滞在していた。

初めてのホームステイ、初めての海外一人旅である。

台湾を理解するため、中国語を上達させるため私はなんの恐れもなく、好奇心だけを背負って、新しく就航したばかりの鹿児島ー台北行きの飛行機に乗り込んだ。


そこで待っていたのは、様々な人々との「出会い」と言語の壁だった。


 アマは、私の兄の親友のおばあさんである。小さい頃から本当の家族のように慕ってきた兄親友家族とは、いまでも親密な関係を保っている。アマは台湾語でおばあちゃんの意味で、私もそう呼んで慕っていた。


アマは日本語が話せた。当時18歳だった私は怖いもの知らずで、まだ不十分な中国語のまま、独りで台北旅行をした。


毎回家に帰ってくると、アマが「おかえり」と言ってくれた。そんなアマと家では日本語で話せることで安心した。

 しかし、一歩外に出るとそこは「海外」、耳に入って来る中国語のスピードは授業中に聞くそれよりもずっと速かったし、知らない単語ばかりだった。


あるとき、道に迷ってアマの家に帰れなくなって泣いてしまったことも思い出さずにはいられない。


そんな大学二年生の夏から、修士二年生となって訪れた二度目の台湾、言語の壁はもちろん、自分自身にも少なからず自信を持つことができるようになっていた。


おもえば「また会いに来るね。」とアマにさよならを告げてから、いつのまにか5年の歳月が経っていた。

 アマとの再会

 台湾に着いて二日目、私は地図を見ながらアマの家を探した。

街並みが変わっているところもあったけど、懐かしいアマの家のある通りに着いたとき、足が勝手に動き出した。


わたしの足は5年前の記憶をしっかりと覚えていた。

その日は旧正月のため、親戚の人たちがみんなアマの家に集まっていた。


「アマ!」と呼ぶと、玄関から懐かしい優しい笑顔のアマが出てきた。
私たちは抱き合った。


アマは今年94歳になり目がほとんど見えなくなっていた。アマは私の身体を手探りで触り、くっつきそうなくらい顔を近づけて、私の目を覗き込んだ。


そして、「えみ、おかえり。」と言った。私は5年ぶりのその言葉に目頭が熱くなった。

 アマは話し方も、話すスピードも昔とすこしも変わっていなかった。変わったのは言語だけである。


昔は聞き取れなかった中国語も、今ははっきりと、何を喋っているのかがわかる。うれしかった。


私が復旦大学で頑張っていること、東南アジアを旅してきたこと、母が亡くなったこと、アマはすべて知っていた。
そして、笑顔で私に話し続けた。


私がアマに自分の夢を告げると「がんばりなさいよ」そう言って背中を押した。

この言葉を聞くため私は台湾へ来たのだと思った。アマの笑顔をもう一度見るために、私はここに来たのだと。


 「アマ、また来るからね。」と言って玄関に向かうと、アマは「私はもう94歳になったの。えみとはもう次に会えないかもしれない。

でも、絶対、えみならできるから。がんばりなさいよ。私はえみを信じてるから。」


 アマのその言葉を聞いて、涙がこぼれそうになるのを必死に堪え、私はアマの家を後にした。

5年の月日は私を成長させ、そして私が気づかぬうちにアマとの距離を確実に離してしまっているような気がした。

 しかし、私の母や、アマ、家族に対する愛は永遠に変わらない。


台北から台中へ 

 東南アジアの国々では、全てが新しくて、何事も気が抜けなかったが、台湾に来て、なんだか家に帰ってきたような、そんな居心地の良さを感じた。 私たちは、新幹線に乗って、台中へと向かった。


 窓から見る景色は、まるで日本の田舎の景色のようだった。冬だというのに春のように温かい台中の気候は、私たちを眠りに誘っていった。


 台中に着くと、お寺に行き、佛様にこれまでの一ヶ月の旅のお守りに感謝を述べた。久々の夜市はお正月中で人通りは少なかった。


 台中のホテルに着くと、親友と二人でこれまでの旅の写真を振り返った。いよいよ翌日、私は上海に戻るのだ。写真を眺めながら、語りきれない思い出話に二人で笑いあった。


辛かったことも、苦しかったことも、いま振り返ってみるとかけがえのない思い出ばかりである。


 落ち着いたころ、明日の台北への移動に備え早々とベットに入った。

母の教えてくれた地震

 私は夢を見ていた。母がいた。なんだかいい夢ではなかった。早く目覚めたい、早く目覚めたい、と思っていた。 
 すると、横になっている身体全体で大きな揺れを感じた。パッと目覚めて、天井を見た。地震だ!


 午前4時6分頃、台中で地震が発生した。私たちは貴重品だけを持ってすぐさま部屋を出た。6階から非常階段で1階へと駆け下りた。これまでに体験したことのない大きな揺れだった。


フロントに着くと、揺れに驚いた人たちが次々と降りてきた。
スタッフの人は「震源は台南だから問題ない、心配しないでください」と言った。

しかし私たちはまた部屋に戻る勇気はなかった。地震発生から1時間が経つまで、私たちはフロントで様子を見ることにした。


旅の終わり


 翌朝、夜が明けるとすぐに、台中を離れ北へと向かった。この旅の最終日にまさか地震に遭うとは思いもしなかった。


台北のテレビは台南のマンション崩壊のニュースを24時間報道していた。生存者が一刻も早く救出されるとを願い、私は台北桃園空港へと向かった。

 
 2月7日午前2時30分、飛行機は無事に上海浦东国際空港へと到着した。長かったようで、あっというまの一ヶ月間の『東南アジアの平和之旅』は終わった


 日記を書きながら振り返ってみると、旅で出会った多くの人々の顔が思い浮かんでは消えた。


あの日、あのとき、あの場所でしか会うことのできなかった人たち、彼らの笑顔に救われて、私は無事に困難を乗り越えることができた。


 そして私は、この旅を通して、将来の道を決心した。復旦大学を卒業後、アメリカの大学院で平和学を学びたい。博士号を取って、日本の大学の教授になりたい。


私が日本の大学でたくさんの素晴らしい人たちに出会ったように、これから未来を背負う学生たちに、大きな夢と、平和を伝えていくことができたなら、この上ない幸せである。


そして、Peace活動に積極的に参加し、様々な方面から「平和」を作って生きたい。
 
 一生忘れることのできない、一生忘れたくない旅をさせてくれた東南アジアに、本当に、本当にありがとう。私の、平和への旅は、これからも、つづく。


 2016年2月11日 復旦大学留学生寮1615室にて

英未の東南アジア平和の旅第4章インドネシア@
2016/02/24


英未東南アジア平和之旅 第4章   インドネシア@

 久しぶりに飛行機に乗ったせいか、寝不足のせいか、シンガポールの空港で食べた食べ物のせいか、飛行機から降りると頭痛と腹痛に見舞われた。

トイレに駆け込み戻ってくると、親友の姿が見つからない。私たちはこのまま30分くらい離れ離れになっていた。しかしやはりテレパシーというものは伝わるもので、すぐに再会を果たすことができた。


 ジャカルタ空港に着いた瞬間、一気に(気配のようなもの)がその前にいた国々と違うことに気づいた。


ここは、イスラム教の国。ムスリムの国。女の人はみんなターバンを巻き、ドレスを着ている。私たちはいま、インドネシアにいるのだ。。。


 ブルーバードタクシーに乗って友達のオフィスに向かっている間、私はずっと目を閉じていた。


いつもながら、新しい国に入ったとき、慣れるのに時間がかかる。

その国の雰囲気や気候、風土などの微妙な違いを、身体はしっかりとキャッチしているのだ。


そしていきなり飛行機で降り立ったとき、わたしの身体はその変化にまだ対応することができない。そのため、頭痛やだるさなどがもろに身体にくる。


 ジャカルタを訪れたのは、ここで働く友達に会うためである。

彼女は短期大学を卒業後、インドネシア政府の奨学金をもらい語学留学し、現在はジャカルタで社会人3年目である。


 彼女の専用運転手の(ちょっと荒い気味の)運転で彼女の家に着くと、まるで自分の家に着いたかのような気分になり、すっかりリラックスして、そのままソファーで眠ってしまった。


彼女が帰ってくると、これまでの旅での様々な物語を、わたしは一気に一生懸命に伝えた。


鹿児島の女の子が三人そろうと、海外でも自然と鹿児島弁が止まらなくなるものである。

私たちは笑いあった。


 彼女の家では、貴重品の心配もしなくてもよいし、どこに行くかの段取りもたてる必要はない、完全にリラックスしていた。リラックスし過ぎていたといっても過言ではない。


 翌日、溜まっていた洗濯物を洗濯機に放り込むと、もうひとりの鹿児島県出身の友達も加わり、私たち鹿児島おごじょは4人で車に乗って、食事、映画を見に出かけた。


ここでは、映画はとても安い。私たちが見た映画は日本や中国でまだ公演されていないもので、350円で見ることができた。

鹿児島の友達4人で映画館に座っていると、まるでミッテ10にでも来ているような錯覚さえおぼえた。

しかし、映画のあとに、「ここでテロが起きるかと思って少しドキドキしてた」という友達の声を聞くと、いま、先週外国人を狙ったテロが発生したジャカルタにいるのだということをはっと自覚した。


当時犯人はカナダ人に抱きつき、一緒に自爆した。死者の数は10人程度であったが、爆発があったところは彼女の働いている会社のすぐ近くだったという。


私は身も震える思いになった。今、世界は、いったいどこまで安全ではなくなっているのだろう。

 ジャカルタからスラバヤへ

 楽しい時間はあっという間に過ぎ、この安全で鹿児島弁の聞ける温かい家を離れなければならない日が来た。


二日間ジャカルタに滞在した私たちは、翌日の午後、1000もあるインドネシアの島のひとつスラバヤに飛ぶために、友人の家を離れた。


 空港では、メールの通知と異なるターミナルから乗ることになっており、フライトは三時間遅れで、飛行機に乗る前から精神的に疲れていた。


しかし、スラバヤの空港でEddyに会って、再会のハグを果たしたとき、すべての疲れが吹っ飛んでしまい、これからはじまる冒険の期待へと変わっていた。

Eddyとの出会い

 90年生まれのEddyと出会ったのは、大学4年の夏、アメリカを一人旅していたときである。

カジノの街ラスベガスのホステルで、私たちは出会った。カリフォルニア生まれの彼は、実は親はベトナムに住む華僑で、彼が生まれる前からアメリカに移り住んできた。


 私たちはホステルで出会ったのち、もうひとりの日本人、しゅうへいさんと共にレッド・ロック・キャニオンに行った。
Eddyが運転してくれた。

出会ったばかりの三人だったが、一緒に壮大な景色を見て、大きなアメリカンピザを食べて、距離は一気に縮まった。

そしてまさか、ここインドネシアのスラバヤ島で彼と再会できるとは想像もしていなかった。


 ここでの彼との出会いが、私の人生にとって忘れられない、大きな一歩になることを、この時はまだ予想もしていなかった。


 Madura島へようこそ

 スラバヤから、バス、タクシー、船、そしてまたタクシー、三時間の移動の末に着いたのは彼の働いている学校のあるMadura島。


 彼は、大学を卒業したあと、このPeace Teachingプログラムに参加し、二年間インドネシアの僻地で英語を教えるというボランティアを行っている。


Madura島はインドネシアの中でも田舎で、ムスリム色の強いところである。ジャカルタでは厳しい規定はなかったが、この島では、私たちはこの島のムスリムの文化にのっとって生活をしなければならない。


 Eddyに会った最初の夜、彼からここでの様々な文化を教えてもらい、私はただただ驚きながら聞いていた。


1. ムスリムの文化では、女性は肌を見せてはいけない。私たちはターバンを巻く必要はないが、この蒸し暑いインドネシアでも長袖長ズボンを着なければならない。


2. 食事の時や握手の時、必ず右手を差し出さなければならない。インドネシアでは、トイレの時にだけ左手を使う。左利きのわたしでも、間違っても左手で箸を握ってはいけないと肝に銘じた。


3. 女性と男性は夜一緒に歩いたり、軽いボディタッチもしてはいけない。


4. ここでは女性の地位はとても低い。男性社会である。


5. その他にも、目上の人に会った時の挨拶の仕方など、初めてのことばかりをEddyに教えてもらった。一日では覚えきれないほど、たくさんの注意事項があった。


不安を抱えたまま、私たちはホテルで眠りに就いた。インドネシアで泊まる最初で最後のホテルである。明日からはいよいよホームステイの日々が待っている。。。


学校見学 ムスリムの高校へ

翌日、5時にEddyがホテルまで迎えに来ると、私たちはホームステイ先の家に荷物を置き、全校朝会に間に合うように学校へと向かった。


ムスリムの高校である。彼はここで英語を教えて10ヶ月。いまでは、学校や近所で会った人みんながEddyに挨拶をしている。

彼の笑顔は、本当にキラキラとしていて、周りのみんなを自然と笑顔にする。

Nice to meet you !

全校朝会の前に、私たちは校長室に案内され、校長先生と4人の副校長先生に挨拶をした。私たちは、この学校に来た初めての日本人だそうだ。


私たちは、先生の手の甲を手に取り、自分の額にその手の甲を当てた。これはここの挨拶の仕方で、Eddyがするように見よう見まねでやってみた。


先生方はその手を自分の胸に当てた。学生たちも、Eddyに会って話をする前は必ずEddyの手をとり、自分の額に当てたり、手の甲にキスしたりした。なんと綺麗な挨拶の仕方だろう。私たちは感動した。


私たちはEddyの担当する授業に一緒に出ることになった。教室に入るとみんなわーっと声を上げた。みんな目をキラキラさせてこっちを見ている。私たちはひとり一人Eddyに紹介してもらった。


そして、学生から日本について、私たちについて、英語で質問を受けた。彼らの笑顔に、私たちの緊張はなくなっていった。


写真を撮ることが大好きな彼らは、私たちと写真を撮りたがり、授業のあとは撮影会になった。なんだか有名人にでもなったようだった。


もう一人のEddyとの出会い

 お昼は副校長先生たちに誘われて、一緒に食事をした。食事から戻ってくると、次の授業まで時間があり、私たちは語り合った。


Eddy。ラスベガスで出会ってから三年、私たちはお互い自分たちの道を歩み続けた。私は中国の大学院へ、彼はアメリカを飛び出してインドネシアへ二年間のボランティアに。


そんな彼が、異国で奮闘する姿を、アメリカにいたときはまったく想像もできなかった。

そして、現在の彼の生活を目の当たりにしたとき、言葉以上に学ぶものがあった。彼の現地での生活、彼の笑顔から、私は言葉では表せないほど、数え切れないものを学んだ。


 彼はこのプログラムから毎月10万円程度の給料をもらっているが、ホームステイ代と交通費を除くと手元にはあまり残らない。


彼が、150円のタコスを買うとき、「これは高いから月に一、二回しか買わないんだ。」と言ったとき、思わず胸が痛んだ。アメリカでピザをほうばる彼の姿はいまはもう、過去のものあり、今彼は新しい土地で奮闘しているのだと、実感した。


 このプログラムの目的は、インドネシア僻地での英語教育を通して、現地の英語教師をトレーニングすること。


そして、派遣されたアメリカ人が地域に溶け込み、コミュニティに入ることである。現在インドネアには120人のアメリカ人が僻地でミッションを達成させるために奮闘している。


 私は、Eddyの笑っている顔しか印象にない。しかし、Eddyの過去の話を聞いたとき、その笑顔の裏にある深い悲しみを知った。


あるお昼のできごと

実は、お昼副校長先生と食事に行った際、ある出来事が起こっていた。この出来事は私たち二人の日本人だけでなく、Eddyにとっても大きなショックとなった。


インドネシアの人たちはみんな陽気で、私たち日本から来た「外国人」を見ると、笑顔で声をかけてくる。


それは、職員室の先生も、学生も同じだった。副校長先生たちは、私たちと一緒に写真を撮ると、そのまま校長室へと誘った。


私が、日本の社会と比べると、こちらの人たちはいつも笑顔で、とてもいいですね。と述べると、ちょうどスコールが降り出した。インドネシアは今、雨季である。


雨が止んだ頃、私たちは先生方の車に乗り込み、近くのファーストフード店へと行った。3人の副校長方は先に注文し、さっとレジから消えた。


私たちは続いて注文すると、レジの人は「○○いくらです。」と値段を告げた。私たちは振り返った。副校長たちは早々と席に座り、おしゃべりしている。


 まさか、と思った。そう、そのまさかだった。私たちは、自分たちの注文したハンバーガー一つずつだけでなく、副校長方三人の注文したセットの料金も一緒に支払った。


私は、食事に誘われたが、自分の分の会計は自分たちでしようと思っていた。


しかし思いもよらなかったのは、五十過ぎの副校長三人の方々の会計もしなければならなかったことである。


Eddyは何度か副校長方の方向を振り返ると、失望したように彼らに背を向け、「みんながあなたに笑ってくるけれど、だからといって友達というわけではないんだ。」と言ってお金を支払った。


 私にはこの副校長たちの行動が理解できなかった。私はトイレを装って席を立つと、Eddyに彼が支払った全額を無理やり手渡した。


そしてEddyと話した。話さずにはいられなかった。Eddyは、「これは決してインドネシアの文化ではないよ。これまで他の先生方と食事に行ったときは、先生方が支払ってくれていた。


今回初めて副校長方と食べて、僕も本当にびっくりしているよ。えみたちに不快な思いをさせてごめんね。」

 席に戻ってきたものの、どうしても笑うことができなかった。親友が、「えみが笑わなかったらEddyが心配するから、笑いなよ。」と言っても、どうしても笑うことができなかった。


副校長方は、何事もなかったように、私たちに日本について様々な質問をしていた。この時のハンバーガーの味を、私は覚えていない。
 
沈黙の職員室

 私たちはまた車に乗り、職員室に戻ってきた。90年代生まれの三人は、沈黙を続けた。そのとき、それを見かねたのか、副校長の一人が入ってきた。そして、彼にお金を手渡した。


 彼は、「僕はすぐに結論に急いでしまうんだ。彼らを誤解してしまっていたのかもしれない。」と言った。


続けて、「彼らは僕を、アメリカから来たお金持ちだと思っている。でも本当は違うのに。」


私たちは、分かっていた。学校から一番近いファーストフード店に副校長方が初めて来たとは思えないし、支払いの先後を知らなかったとも思えない。


完全にEddyをはめていたことは分かっていた。だから尚更、悲しくて、悔しかった。

 私は悲しい顔を隠せなかった。Eddyは、「Dont worry, Emi」と言った。私に笑顔がないとき、彼はいつもこう言う。上司に裏切られたEddyが一番辛いのに。


笑顔の裏の悲しい過去

 私は、口を開いた。

「私は自分の感情をコントロールできないんだ。嬉しくないとき、悲しいとき、怒っているとき、どうしてもその気持ちを隠すことができないんだ。


まるで子供のように、そのままの感情をむき出しにしてしまう。悪い癖ってわかっているのに、何人もの人に注意されているのに、どうしても治すことができないんだ。」

私はすでに、涙目になっていた。「副校長先生たちのことはもう、気にしていないよ。

でも、私はまた自分の感情をむき出しにしてしまった。そのことに、自分自身に悲しくなっているんだよ。」

 Eddyは静かに私の話を聞いていた。私は続けて話した。


「そしていまでも後悔しているのは、母の亡くなる一ヶ月前まで、母と、母の病気と向き合うことができなかったこと。。。


私は、母が病気になってから、その現実を認めたくなくて、認めることができなくて、母が入院しているというのに、アメリカやイギリスに行ってしまった。


最後の一ヶ月は上海から戻ってきてそばにいたけれど、それは遅すぎたんだよ。。。もし過去に戻ることができたら、すべての時間を使って、母のそばにいたい。そして悲しいとき、、、」

私が涙で言葉に詰まると、Eddyが続けた。

「悲しいときお母さんを思い出すのでしょう。」「うん。。。悲しいとき、こんなに悲しいことがあったんだよ、ってお母さんに伝えたいのに、今はもういない。


そして、お母さんのそばに居れなかった後悔を思い出すと、悲しさがもっともっと大きくなるんだ。」

 職員室の先生たちはみんな授業に行き、ここには私たち三人しかいなかった。

そしてここで、涙が止まらなくなるとは、思ってもいなかった。Eddyは言った。「えみの気持ちは分かるよ。」



「あなたには分からないよ。」私は言い返した。すると彼は話し始めた。「僕が5歳の時、両親は離婚した。父親が出て行った日から、お母さんは僕のことを殴った。


高校を卒業するまで、殴り続けた。僕はいま、母を愛しているかわからない。愛せるか分からない。僕は母にさよならを言わずに、アメリカを離れ、インドネシアに来たんだ。」


 いつも笑顔を絶やさない彼の、その笑顔の裏にこんな過去があったなんて。。。私は、言葉が見つからなかった。


副校長方に裏切られても、彼は笑っていた。
私は彼に聞いた。
「なんであなたは、辛い時も笑っていられるの?」
Eddyは言った。
「僕は家族の中で一人だけの男の子なんだ。小さい時からお母さんが、男の子は泣いちゃだめって言ってたんだ。


だから僕は、どんな辛い時でも、笑ってきた。」

 Eddyのような人間に出会ったのは、彼のような人間に出会えたことは、私の人生に大きな意味を持たせた。彼の笑顔の奥には、強さがあった。


彼の笑顔の奥には、深い悲しみがあった。そして、周りの人を明るくする彼の笑顔の奥には、優しさがあった。

ムスリムと同じ屋根の下で

 私は涙を拭いて、次の英語の授業の教室へと歩きだした。心を割って語り合った私たちは、友情の距離が、ぐっと縮まった気がした。


 授業が終わると、ホームステイ先の家に帰った。ここはEddyがホームステイしている家で、私たちは空いているもうひとつのゲストルームに泊まらせていただくことになった。


私たちはEddyに習った方法で、お父さんとお母さんの手を取り、自分の額に当てた。


ホストファミリーは最大のおもてなしをしてくれた。
毎回食事の際は食べきれない量の食事が用意された。

ホストファミリーは、Eddyを自分の子供のように可愛がっていた。


そしてEddyも、自分の両親のように彼らを信頼していた。
一年足らずでインドネシア語をマスターしてしまったEddyは彼らとのコミュニケーションは全く支障がなかった。


見た目もアジア系のため、インドネシア人に間違えられることさえあった。

 ホームステイ生活は、「初めて」の体験ばかりだった。
まず、ここには水道がない。


手洗い場とお風呂場は同じで、バスタブのようなものがあって、そこに一年中水が貯めてある。その水をすくって、手を洗ったり、体を洗ったりする。トイレも同じく、ご想像通りである。



 そして、外に限らず、女性は家の中でも肌を見せてはいけない。

お馴染みの長袖長ズボンである。「ホストファミリーの家に行ったらやっと涼しくなれるね。」と期待を寄せていた私たちは甘かった。


Eddyに注意を受け、お風呂の後も35度の蒸し暑さの中、また完全防御の服に着替えた。さすがに、悲鳴をあげたくなった。

 毎晩5時になると、近所の子供たちがホストファミリーの家に集まってきた。

ホストブラザーが、アラブ語の聖書を子供たちに読んで聞かせている。


小さい子は三歳ほど、大きい子も10歳程度である。こんなに小さな時から、聖書を読み、お祈りの仕方を勉強するのだ。


 ISISの無差別テロ、悲しいニュースが続く中で、イスラム教と聞くと身が引ける人が世界中多いのかもしれない。しかし、この島ではムスリムに生まれ、ムスリムに育っている人たちがいる。


彼らは陽気で、笑顔が絶えなくて、一日5回神にお祈りをして、日本のアニメが大好きで、英語が大好きで、、、この島には風俗店もないし、お酒もない。


冗談を言っては笑い、悲しいときは涙を流し、道に迷った私たちを快く助けてくれる人たちがいる。


 いったいどれほどの人が、イスラム教について、本当に理解しているのだろう。いったいどれほどの人が、知ることをせず、報道に流されて偏見だけが一人歩きしてしまっているのだろう。。。


ホストファミリーと同じ屋根の下で、笑顔で暮らしている中で、そんなことを考えずにはいられなかった。


もうひとつの日本

 私たちが食事のあと、リビングでチェスを楽しんでいると、近所のおばさんが私たち日本から来た「お客さん」を見に来た。


ホームステイに来てから、親戚の人や近所の人など、たくさんの人たちが私たちを見に来られた。

顔をじーと見ると、「見た目は変わらないねえ〜」などといって、日本に関する様々な知っていることを述べては、帰っていっていた。


 しかし、この日のおばあさんはちょっと違った。

遠い親戚だというこのおばあさんは、私たちの横に座ると、日本の歌を歌いだした。戦時中、日本のインドネシア占領時代に歌われていた曲である。おばあさんは、日本軍について語りだした。


Eddyは、すべてを通訳してくれなかった。私たちに気を遣ってくれていたのだ。しかし私は、加害者としての日本の責任を问う発言をする人たちと、何度も話をしたことがある。

それは復旦での授業中でも、南京でもそうであった。だから、歴史を学ぶ学生として、日本人として、気にせずに話をして欲しい、と思った。


 おばあさんはもう一度私たちの両頬にキスをすると、帰っていった。

出会いと別れ テレマカシー、インドネシア

 あっという間に、インドネシアを離れる日が来てしまった。
お世話になったホストファミリーと、そして尊敬する友人Eddyと別れなければならない日がとうとう来てしまったのだ。


文化のあまりの違いと、初めてのインドネシアの家庭での生活、新しい食べ物。慣れないことばかりで、一日目から「帰りたい、、、」と思ってしまったが、いまではもっとここに居たい。


もっとインドネシアを、イスラム教を、ムスリムを、そして最高の友達Eddyを理解したいと思った。

 テレビやインターネットですぐに手に入る情報。それらはときに、片面のものであって、本当にその目で確かめなければ、真実の姿は見ることができない。



私はいま、頭にスカーフを巻いたムスリムの人たちを目にすると、全く違和感を感じない。


それどころか、親近感さえ生じる。彼女たちをみると、インドネシアで、最後まで私たちに大きく手を振ってくれたムスリムの学生の顔が目に浮かばずにはいられないから。


ホストファミリーの優しい笑顔が、目に浮かばずにはいられないから。そしてこの土地で頑張る親友Eddyの姿が目に浮かんでくるから。。。
 
 インドネシアMadura島、この島で過ごした日々を忘れることができない。
 

英未東南アジア平和の旅第3章ベトナム編
2016/02/19


英未東南アジア平和之旅 第3章 ベトナム、シンガポール

 カンボジアからベトナムへの国境越えは、スムーズに行われた。タイ、カンボジアに続く三カ国目に到着した。ここでの目的は、ベトナム戦争博物館に行くことである。

 ホーチミン市内にバスで降りたとき、その交通量の多さにとにかく驚いた。バイクの海。道路を渡るのは至難の業で、車とバイクの間をすり抜けて歩く。

中国で慣れていると思っていたのは大間違いで、中国とは比べ物にならないほどのバイクの数であった。


 この交通事情に圧倒された私たちは、外へ出る気すらなくしてしまった。

一歩間違えば、命の危険がある。しかし、学んだのは、現地の人に付いて道路を渡れば、うまく横断することができるということである。

人だけでなく、車の後ろについて道路を渡ることもやってみた。車の後ろにくっついて走ることで、とりあえずは前後左右から来るバイクからは身を守ることができた。

しかしむろんのこと、スピードと反射神経のいる行動ではある。

 生まれて初めて食べたベトナム料理の味も忘れることができない。
材料を切っただけの、これから調理する食材が並べられ、そうめんの塊のようなものと一緒に、酢のようなものを付けて食べる。

最初は食べ方すら分からずにキョロキョロしていると、両サイドの親切なベトナム人の方々がどのようにして食べるのか教えてくれた。

現地の人と一緒に笑い合いながら、こんなに楽しく食事をしたのは久しぶりだった。

 
 ベトナム戦争博物館

 一日目に、ホーチミン市内を観光し、半日の時間を使ってベトナム戦争博物館を見学した。

ベトナム戦争で使われた枯葉剤によって、ベトナム市民のみならず、アメリカ軍兵士にも大きな後遺症を残した。
その後遺症のせいで戦争から帰国したアメリカ兵の子供の中には、先天的に右手がなかった。


ベトナム市民から生まれた子供は何代にも渡ってその後遺症に苦しめられた。

そして、無脳症の赤ん坊の写真を見たとき、私は胸が張り裂けそうな思いになった。高校生のころ、学校の図書館で見たイラク戦争の写真集、そのなかで見つけた無脳症の赤ちゃんを思い出さずにはいられなかった。

「この子が一体どんな罪を犯したというのだろう。」「なぜ戦争はこんなにも残酷に命を切り刻み、ずたずたにして、奪うのだろう」。。。

その時から、戦争に対する怒りと憎しみ、平和に対する危惧を抱いたことを今でも鮮明に覚えている。

 カンボジアの《キリング・フィールド》から《ベトナム戦争記念館》までの時間は、辛く苦しい見学だった。

しかしこの貴重な時間のおかげでわたしは、しかと戦争の恐ろしさと残酷さをこの目で見た。そして、これから平和学をとおして、しっかりと戦争と向き合わなければならないと心に誓った。

 新しい寝床と新しい出会い

 私たちは、より良い「ホステル」を目指してホーチミンの繁華街を歩いていた。バックパッカーにとって、寝床はとても重要で、安さ、快適さ、すべて条件の良いところを探すことはとても大事な仕事なのである。

また、これまで半月の間、旅をしてきて、様々なホステルを経験し、要求も少し高くなってきたように思う。

 明日泊まるホステルがなかなか見つからないなかで当てもなく歩いていると、三人の欧米人がホテルらしきところに入っていった。


おばあさんが門番をしているところに、私たちも吸い込まれるように入っていった。

わたしは、「ここに泊まることができますか?」と聞いた。

すると、―あとで知ったのだけど―おばあさんの孫のカイ君が出てきた。英語の話せる彼は聞くところによると、現在、ニュージーランドのオークランド大学に留学しており、冬休みのためベトナムに帰国して、祖母の経営するホテルを手伝っているのだという。


私たちが日本から来たことを知ると、彼はとても親切に話しかけてくれた。
部屋に案内され、気にいった私たちは明日からこのホテルに泊まることに決めた。

キッチンのついた大きな部屋に、一泊2000円で泊まることができる。二人で割るとひとり当たりたったの1000円である。

 フロントのソファーに座りながら、私たち三人はお互いに自己紹介をして会話を楽しんだ。

ベトナムに来たものの、この国の事情や物価について、全く知識のなかった私たちは、このカイ君のお陰で随分たくさんのことを教えてもらった。

私たちがホーチミンに3日間滞在する予定だというと、「それはもったいないよ。ホーチミンは一日で観光できるよ。」といい、ツアーコンダクターを紹介してくれた。

ひとり30ドル程度で、一泊二日の観光ツアーである。何も予定の決まってなかった私たちは、なんのためらいもなく申し込んだ。

それが日本人は3人だけという欧米人ツアーであることも知らずに。。。

 インターナショナル・ツアー


 翌日、フランスパンの朝ごはんを食べながら、私たちは集合場所についた。

バスに乗り込むとすぐに、自分たちが完全に少数派であることに気づいた。

周りはすべて、ヨーロッパもしくは北アメリカから来た旅行客。アジア人は私たちふたりと、日本人の退職後に旅行に来ている方三人だけだった。


 私たちは空いていたバスの一番前の席に座った。これから始まる一泊二日のツアーにワクワクしていた。


何より、これまですべて自分たちで計画し、自分たちで公共機関を利用して移動し、食事から宿まですべて手配していた私たちにとって、ツアーほど楽なものはなかった。バスも食事も宿もなにも心配する必要がないからだ。


 ガイドのすぎちゃんはベトナム人で、英語が達者でユーモアあふれる人だった。
ギター片手に歌ったり、どこ
に着いてもその場所の説明をペラペラと始めた。ものすごいノリの良さに、私たちは随いていくのに必死だった。


 このツアーで出会ったひと達のことが今はとても懐かしい。
カナダ人のEzzyはトロント大学歴史学部を卒業後、パートナーと企業し、現在は8ヶ月間、東南アジアで転々と働きながら旅行している。


スペイン人のカトリーナは小学校の先生になるのが夢で、現在大学で修士課程を履修しながら学校で働いている。

スロバキア人のケイティはギリシャで働き、そこで現在のボーイフレンドであるカナダ人のと出会った。


ポルトガル人のアリーシャはなんと復旦大学の横の同济大学で前学期中国語を学んでいたという。世界は広いようで、狭いものだ。


 ツアーに参加していた人たちはみんなフレンドリーで、いつのまにか団体意識も生まれて、写真を取り合ったり、船に乗る時に手を取り合ったりと助け合った。

肌の色、母国語、年齢なんて関係なかった。ホテルについてからも自由行動の時間には同じ階に住む6人みんなで食事に行った。

バックグラウンドも、将来の目標も違うみんなだったが一緒にベトナムの町を歩き、一緒に食事をして、一緒に笑いあった。
 FaceBookを交換して、私たちはこのツアーを後にした。

次の駅は、物語のあふれるインドネシアである。


一時間だけのシンガポール

 ベトナムからインドネシアへ飛ぶために、乗り継ぎで1時間だけシンガポールにいた。シンガポールについては、台湾に飛ぶ際に一晩泊まっているため、そこで詳しく触れたい。

 実はベトナムの最後の晩、最後の晩餐をしていると、一通のメールが入っていることに気づいた。

それは、ホーチミンからインドネシア・ジャカルタ行きの便のキャンセルの通知だった。「大変申し訳ございませんが、」で始まる文章をすべて読み終わる前に、私たちは「まずい。。。」と思った。チェックインの時間まで、9時間を切っていた。


 親友はすぐに日本のジェットスターに国際電話をかけたが、日本時間で夜9時を5分過ぎており、繋がらなかった。そのあと中国語のアナウンスが流れたときに、彼女はハッと私の顔を見た。


私がキョトンとしていると、賢い彼女は私にこう言った。「ちょろげ、中国なら時差が一時間あるから、まだ問い合わせができるよ。」ちょろげというのは、私の小学校時代のあだ名である。いまではこう呼んでくれる友達も少なくなってしまった。


 私たちは今度は中国のジェットスターに国際電話をかけた。通じた。長らく話していなかった中国語が、ここで役に立つとは思ってもいなかった。


私たちは、キャンセルされた便の一本前の7時10分発シンガポール経由ジャカルタ行きの便に変更した。


 あの時対応してくれた中国人スタッフの優しさと根気強さに大変感謝している。こうして私たちは無事に、翌日ジャカルタへと飛ぶことになる。

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