留学中の想い、いろいろ書きます。

鹿児島大学留学生
鹿児島国際大学



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卒業のとき(吉永英未ラスト通信)
2017/06/13


卒業のときを迎えようとしております。

変わらない日々は毎日しっかりと変わっているということを感じました。

復旦での日々は辛いことも楽しいことも嬉しいこともたくさん詰まった玉手箱のような日々でした。

言葉では表せないほどのたくさんの思い出と、支えてくださった方への感謝の気持ちで、玉手箱はもうすでにいっぱいになってしまったように思います。



しかし、人生という物語はまだ閉じることなく、玉手箱にも収まりきらなそうですので、
これからはもっと大きな器に入れて、思い出も知識も感情もすべてしまっていけたらなと理想を胸に抱いております。


今は、父や母、すべてのものから授かった命を大切に輝かせて、ロウソクのような細い光でもしっかりと周りを照らせるような、そんな人になれるように、一歩ずつ努力していきたいです。


足跡のあとに花が咲くように、大きな結果ではなく小さな花でも一生懸命に咲かしていくことができましたらと思います。


どうぞお身体に気をつけてお過ごし下さい。

2017年6月6日
吉永英未



卒業のとき

 「卒業したい」その一心でここまで、走ってきた。いざ、ゴールが目の前に差し掛かったとき、なぜかふと立ち止まりたくなる。その裏にはきっと、「友情」とか「名残惜しさ」とか、永遠に消えることのないものがあるからだと思う。


 論文を提出してから、5月25日に口頭試問、それからさらに論文に修正を加え、6月5日、論文の決定版と共に学位取得に必要な書類をすべて提出した。


 スケジュール帳をめくってみると、ほんの一か月前の出来事もすっかり忘れてしまっていることに気づく。振り返ると、実はとても幸せな日々を過ごしてきたのだ。


5月11日、私は、将来の準備のために突然日本へ一時帰国することになった。街すれすれを通る飛行機の機体に揺られ、私はハラハラどきどき福岡空港にたどり着いた。一週間の日本滞在は私にとってとても幸せなひとときだった。


日本にいる間、とくに博多駅で見るのも全て「買いたい」、「食べたい」という衝動に見舞われた。前回日本を離れてから10ヶ月ほど経つが、見るものすべてが新しく輝いて見えた。日本食も、スイーツも何もかも食べたくなった。自分を最大限甘やかし、買いたいものを買い、食べたいものを食べてしまった。



 福岡からバスで鹿児島まで。日本にいる、一分一秒が嬉しかった。博多駅筑紫口を「ちく・むらさきぐち」と読んでしまったり、
「すみません」というところを中国語で謝ってしまったり、小さなアクシデントは多々あったが、無事に鹿児島中央駅に到着し、今回の帰国を知らせていなかった父に電話をかけて、驚かせるというドッキリにも成功した。今回の帰国はあまりにも突然で、また鹿児島での滞在時間も少なすぎたため、多くの方々にお知らせすることもできなかった。


鹿児島に荷物を置いて、鹿児島での用事を済ませると、また福岡にひらりと戻ってきた。


 限られた日本滞在中、恩師と、夢を追いかける私を応援して下さる方々にお会いし、自分の将来とやりたいことについて確信を持って前に進む勇気を頂いたことは、私にとって大きな力となった。



その力は、上海に戻ってからの私の生活を大きく変えた。努力し続けなければならないことを知り、努力は必ず夢へと繋がることを確信した。たった一週間の一時帰国は、私にとって格別な旅となった。



 上海に戻ってくると、「相変わらず」の日々を送った。そんな「相変わらず」の日々は、実は毎日変わっており、同じ発見など一度もなかった。刻一刻と卒業に近づく日々。変わらないようで変わっている毎日を精一杯過ごすことが、いまの私に大切なことなのだと思った。



 6月23日、復旦大学は2017年度卒業式を迎える。復旦に来て三年目の夏、私は卒業する。どれだけたくさんの人に支えられてここまで歩んでこれたのだろう。

この場を借りて、心から感謝の気持ちを伝えたい。言葉では伝わり切れない感謝の気持ちを、言葉に載せて伝えたい。



2017年6月6日
復旦大学留学生寮1615室にて

春のひかり
2017/04/08


春のひかり     吉永英未 2017.4.2

検測通過通知
 
 4月1日、父の63歳の誕生日を明日に迎え、私は論文の「検測」に通過したことを知った。この「検測」とは、論文の引用以外の引用が、論文全体の10パーセントを超えていないか審査するものである。


もし引用が基準を超えていた場合、訂正を加えなければならない。私は、参考文献がほとんど日本語の文献だったため、引っかかることはないだろうとは思っていたが、論文をオンラインで論文を提出したため、「提出完了」という実感すらあまりなかった。


4月1日、「また来たか」と陳先生に言われるのではないかとか、論文が通過していなかったらどうしようなど考えながら、緊張した身体で、歴史学部教務課の開いたままのドアをノックした。私が口を開く前に、「吉永英未、あなたの論文は検査に通過した。」と陳先生に大きな声で告げられた。嬉しかった。初めて、ほっとした。私は、お世話になった行政職員室の李先生、王先生にこの結果を伝えた。


論文を書き始めてから初めて、周りの人から「おめでとう」と言われた。あとから、論文を提出したのはクラスの中で三番目、無事に検測に通過したのは一番目、論文の厚さもほかの過去の学生の比べてとても厚かったと言われた。私はひとまず、お世話になった方々に一つの難関を超えられたことを報告した。


これからの審査

 これからの過程として、論文は校内審査と学外審査にかけられる。校内審査は、すべての学生が、学内の副教授以上の先生方三人に審査をしていただく。そして、学外審査は、システム上で無作為に選ばれたクラス全体の10パーセント未満の学生の論文が学外に送られ、復旦以外の大学の専門を問わない教授の方に審査される。


このとき自分の名前、指導教員の名前、大学名も隠され、ただ論文のみが審査される。この審査は厳しく、わたしはただ、この極めて低い可能性で審査対象に選ばれ、私の論文が学外に飛ばされないことを祈るのみである。


この間、現在提出している初稿は修正可能で、万が一審査に通過しなかった場合でも、先生方のアドバイスのもと修正を加え、もう一度審査してもらうことができる。

これらの審査を通過ると、今度は5月末までに自分の指導教授を除く5名の教授のもと、(内一名は学外の教授)論文の質疑応答が行われる。
これに合格すると、論文は大学の論文判定委員会に送られ、6月20日前後に学位が渡されるのだ。最終的に、論文は復旦大学図書館のシステムに登録され、将来、一般公開されることになる。論文のキーワードや名前で検索すると、自分の論文が出てきて、誰でも、全国どこからでもダウンロードすることができるようになる。


この制度のおかげでわたしも、論文を書く段階で様々な大学のたくさんの方々の修士・博士論文及び学術論文を参考にさせていただいていた。いま、将来自分の論文が一般公開されることを思うと、ちょっとはずかしくも思うが、嬉しくも思う。

春のひかり

 約一年間、論文執筆に奮闘した日々。好きなことも、やりたいことも、少しずつ我慢し、減らしてきて、最終的には論文だけを目の前に、毎日を過ごしてきた。4月1日に検測の通過通知を受けて初めて、やっとほっとすることができた。

 4月2日、中国は清明節で、お墓参りをするための祝日である。私は、春艳と同済大学に桜を見に行くことにした。念願の桜を、もうすでに散ってしまいそうな上海の桜を見ることができることを嬉しく思うとともに、支えてくださった方々に、感謝してもしきれない感謝のきもちで、胸がいっぱいになる。


無事に最終質疑応答に合格することを望む一方で、そのときにはもう、復旦を、中国を離れなければならないということも悟らなければならない。

長い間目の前のことに一生懸命になりすぎて、いまはちっともここを離れるという実感がないのだが、少しずつ落ち着いて、残された時間、お世話になった人たちに、感謝の気持ちを伝えなければならない。そして、お別れをする準備も、しなければならない。


 私が論文を提出した当日、親友に赤ちゃんが産まれた。13歳の頃から陸上部で、共に人生を「走って」来た親友。彼女の子供の名前が「ひかり」と聞いたとき、私ははっと彼女の笑顔を思い出した。

私の母に嬉しそうに、結婚を報告する彼女の笑顔を。母は病室のベットに横たわりながら、でも嬉しそうに彼女の幸せを祝福した。2年前、私の母がそっとこの世を去ったのは、寒い冬だった。

今年の春、新しい命が誕生した。天国にいる母が、笑っている気がした。暖かい春の光を照らして。


2017年4月2日 本当は大好きな父の63歳の誕生日を祝福して

論文初回提出を終えて
2017/04/08


論文初回提出を終えて 3・30  吉永英未


最初で最後のゼミ

 日本の大学で必ずあるゼミは、中国の大学ではそうもないことを知った。ほかのゼミがどうなのかわからないため、はっきりとしたことは言えないが、私の指導教員の学生全員が、顔を合わせることは、一年時に同じ授業を受けていたときを除くと、二年時からいままで、一学期に一度しかなかった。


毎学期の終わり、指導教員の馮先生が自分の学生全員を招き、大学のレストランで一緒に食事をする、それが一学期、最初で最後の顔合わせである。もちろん、ゼミ生と約束して個人的に会うことはできるが、日本の大学のゼミのようなまとまりやその団結の暖かさはなかった。


 論文提出を前に、今年から歴史学部に予備質疑応答制度が導入された。卒業前の論文の質疑応答のとは別に、初稿を提出する前に、指導教員を除く三人の先生の前で自分の論文について発表し、審査するのだ。そのため、私たち馮先生の学生は、2月28日に馮先生の研究室に集まった。


論文を見せ合って、あれはどう、これはどう、「これで大丈夫かな?」と言い合った。初めての、最初で最後のゼミといえるものだった。

さみしくも、くやしくもあったが、それ以上に一つの大切なことをやり遂げなければならないというプレッシャーに、感慨しているひまもないことを自分に言い聞かせた。



論文提出

 ゼミのあった夜、馮先生は私の論文を一晩で見て、最初から最後まで添削を加えてくださった。またもや、感動して、言葉にならなかった。

その翌日、提出する目標であったが、参考文献の書き方と史料の分け方に苦戦し、その日のうちに提出することはできなかった。そして3月30日、午後5時前、ついに論文を大学の教育システム上に提出した。


学内審査用と学外審査用の二種類の格式の論文と、論文の概要である。提出したあと、過去にオンラインで登録した基本情報の部分にまだ不安があり、いつもの教務課の陳先生を尋ねると、今度は強い口調で「ここに聞いてもわからない」と言われてしまった。

 提出したその日、じつは私の気分は落ち込んでいた。3日間の奮闘で精神的にも身体的にも疲れ果てていたせいもあるが、一番は、わたしが焦りすぎて、そのせいで周りの方々に迷惑をかけてしまったからである。

実は、私は論文の提出が3月30日までだと思っていたのだが、実際のところ、最終締め切りは4月5日だということが提出する日にわかったのだ。以前、クラスメイトと顔を合わせるたびに提出期限を確認したが、みんな口を揃えて「うん。そうだよ」と答えるので、私もその気になってしまっていた。


周りの学生も初めての手続きのため、理解が十分でなかったのだと思う。私は人一倍焦り、ラストスパートを走りきったのだが、その「焦り」のために、馮先生、そして周りの方々にたくさんの負担をかけてしまったことを深く反省した。


 思い出すと、ゼミの途中で私が「早く桜を見に行きたい」と言ったとき、馮先生に、「そんな時間なんてない」と一言で返されてしまったが、一晩で私の論文すべてに添削を加えてくださった翌日、私に、「論文の本文はもう問題ないから、今日は桜を見に行けるよ」と言ってくださった。


私の焦りを、自分しか見えていない「わがまま」を、周りの一人一人の方々は包容し、咎めることなく、ただ私に、前に進ませてくれた。一生懸命になりすぎて、目の前のことしか見えていなかった私は、そんな周りを見ることもできず、たくさんの人を巻き込み、大きな迷惑をかけてしまってい。 

                     
 3月30日

論文初回提出を前に
2017/04/08


論文提出をまえに        吉永英未  2017.3.25

 論文はいよいよ最後の修正に取り掛かり、3月30日までにワードで歴史学部の教育管理システムに提出することになっている。「終わり」にさしかかるにつれて、焦り、不安、覚悟、様々な感情が込みあがってきた。「終わる」から、喜べるはずなのに、私の心の中は複雑であった。


 3月に入って、仲の良い友人に「論文を見てくれないかな」とお願いしたところ、「いま忙しいから」とあっさり断られてしまった。私は、「そうだよね。わかった!また論文終わったら一緒にバドミントンしようね!」と返したが、それから立て続けに二人の友人にもあっさり断られてしまったことは、私にとって心に大きな釘が刺さったようだった。



もちろん、相手には私を手伝う義務も責任もないから、断られても仕方のないことなのは十も承知なのだが、これまで、論文添削と内容についてのアドバイスのお願いについて、友だちから一度も断られたことのなかった私は、部屋に帰ると、ポロポロと涙を流していた。



「なんで最後になって誰も助けてくれないんだ」。悲しい気持ちは大きく膨らみ、一つの塊になって、胸を締めつけた「もう私にできることはやり尽くしたんだ。あとは中国語と、論文の中身について、先輩や友だちにアドバイスをいただいて、訂正を加えることしかできない。」そう決めきっていた私は、周りに支えてくれる人がいなくなってしまったことに不安を感じ、そして、「誰も助けてくれないなら論文はこれまでだ。」と自暴自棄になり、惨めな気持ちと、やりきれない気持ちであふてしまっていた。涙は、止めどなく流れた。


 本当は、心の底から、諦めたくなかった。周りの方々のアドバイスと中国語の添削が必要なことは確かであったが、私自身に出来ることに、もちろん終わりなどなかった。私の戦いはまだ終わっていないことも、いまのプレッシャーを受け入れなければならないことも、わかってはいた。わたしは、論文の最終段階で、自分の限界を決めきってしまっていた。


 締切を前に、論文以外にも大学に提出する書類やオンラインでの手続き、その一つ一つを確実にこなさなくてはならなかった。論文が本当に最後の段階に差し掛かるにつれて、卒業に関わる大事な手続きも自分ひとりでしなくてはならない上に、論文の最終添削も終わっていない。

そのプレッシャーのために何倍にも膨らみ、格段と難しく見えた。論文の最終修正も「これですべてが決まるのだ」と自分を脅すため、それらの試練をとてつもなく大きなものに捉え、それはのちに精神的な負担に変わり、更に自分に圧力をかけてしまっていた。

悲しみと、不安な気持ちは積もり積もって、自分ひとりでは耐えられなくなってしまっていた。思いっきり泣いて、母に話しかけてみたりして、自分に冷静になるようにうったえた。締切を前に、自分を見失いそうになりながら、でも取り憑かれたように論文のことだけは寝ても覚めても頭から離れなかった。


 今思うと、乗り越えられる人達にとって、こんなことは当然で、なんのプレッシャーもいなくこなしていけた段階だったのかもしれない。しかし、人に頼ることが得意で、甘えん坊で、精神的にも強くない私にとって、この最後の難関は、復旦に入る前のプレッシャーと同じくらい、いや、それ以上にはるかに大きかった。


 そんな私に前を向かせ、現実に向き合うように支えてくれたのは、家族の支えと、「論文の重み」であった。この論文は、決して、私一人で書いたものではない。先生方の支えと、そして、10万字を越える論文のたたき台の段階から、中国語を添削し、辛抱強く私にアドバイスをくださり、支えてくださった友人と、先輩方とともに書いたものである。


彼らの支えがなければ、私の論文は永遠に、「おわりに」を書くに至ることができなかっただろう。その論文の重みを、友情の重みを感じた私は、何が何でもこの論文を完成させ、提出し、卒業を迎えなければならないと思った。


「日中友好の架け橋になる」そう誓って、三年前、ここ復旦大学に来た。それから二年間、架け橋になることはおろか、日本や中国のために何も貢献することができていない自分に気づき、自分自身に何度も落ち込んだ。

しかし現在、私は、私が中国で書いたこの一本の論文こそが、日中友好そのものなのだと気づいた。

この論文は、私の観点と、先輩のアドバイスと、数え切れない友人による中国語の添削を重ねて、初めて完成することができたものである。この論文が学術的に、研究分野に対して大きな発展をもたらしたということは難しいかもしれない。


でも、人生で初めて一つの学問の焦点に向かい合い、幾度となく友人に助けをもらい、苦しみもがきながら書き上げたこの論文は、私と私を信じ支えてくれた友人たちとの努力の「結晶」であり、ほかのなにものにも変えられない唯一の日中「友稿」である。この論文の重みが、私がどんなつらいときも、くじけても決して諦めないように、前を向かせてくれた。


暖かい場所
 提出前の3日間は、夢の中で論文を提出してしまうほど、それだけをただ思って生きていた。食事をすることは第二、第三だった。朝起きるとパソコンをつけて論文を確認、お茶だけ飲み、午前11時まで粘り、お昼に食堂で二倍のお昼ご飯をお腹に詰め込んだ。なぜならそれがその日の最初で最後の食事になるからである。

 この辛い間、私が「居場所」としていたのは、歴史学部行政課の職員室であった。ここは、修士一年生のときに私が一年間通った場所である。朝8時半に出勤すると、カートを引いて復旦本部全体の郵便集計所に行く。


そして、歴史学部の注文しているその日の新聞と、先生方に届いたEMSや手紙、小包などをカートに詰め込んで、引いて帰って来ては、学部の先生方のポストにそれら郵便物を割り振る。多い時、作業は約1時間ほどかかる。


しかし毎回名簿を見ながら先生方のポストを探すため、歴史学部の先生方全員の名前とポストの大体の位置を一年目にして覚えることができたことは、その後の大学生活に役に立った。歴史学部の先生なら、お会いしたことはなくても、名前だけはしっかりと覚えている。


 私がこの行政職員室に顔を出すと、李莉先生と王永剛先生が笑顔で迎えてくれた。私が、もうすぐ論文を提出すると告げると、「それは大事な時だね。

この職員室で作業していいよ」と言ってくださった。二年前に私が座っていた席には、新しい学生が座っていた。私は、遠慮なく空いた席に座り、パソコンとにらみ合った。

この行政職員室は教務課職員室に近いため、聞きたいことがあった場合、すぐに聞きに行くことができる。私がそこで作業していると、顔見知りの先生がいらっしゃっては、私の顔を覗いた。


新しくいらっしゃった先生が入ってくると、私を見て、「新しく来た助手ですか」といった。職員室の王先生は、「彼女は僕たちの職員室のOGだ。それも国際OGだ。」と説明してくださった。

職員室で働く二人の先生方は、私に場所を提供してくださったばかりでなく、わたしに心の「居場所」を与えてくださった。緊張でガチガチになった私の心に暖かい風が吹いたのを感じた。


 食事の時間も惜しんで論文の格式を変えている私を見て、李莉先生は「えみ、食堂のごはんなくなっちゃうよ。ご飯食べてからまたやりなさい」と優しく私に言った。午後5時になって職員室も閉めなければならないため、私も片付けを始めると、王先生は、「もしここで引き続き勉強したかったら、ここに残ってやるといい。帰るときは電気を消して、自動ロックドアを閉めるだけでいい。」とおっしゃってくださった。


「あなたは私たちのところの一人だから。」二年前に働いていた私のことを今もなお覚えていて下さり、論文の最後にわたしに暖かな光を灯してくださった李先生、王先生の優しさを、その言葉を、私は忘れることができない。私が始めてここで働き始めたとき、王先生は、復旦歴史学部の行政職員室で働き始めて四十五年とおっしゃっていた。


定年退職後も同じ場所、同じ机で働き続けている王先生は、復旦を誰よりも知っていて、歴史学部を誰よりも愛していることを、私たち学生も、そして先生方も知っている。その日の夜、私は11時まで職員室に残っていた。

春艳との出会い
 3月20日、腫れた目で歴史学部の教育課の陳先生を訪ねた。一から十まで、手続きについて聞いて、その場でオンラインの必要事項を埋めていった。


あまりにも何度も尋ねるので、しまいには、陳先生に、「また来たか」と言われてしまった。それでも辛抱強く先生が手の空くまで待っていると、「吉永英未、学籍番号は?」と聞かれた。

先生は教育システム上の手続きに漏れがないかしっかり確認してくださった。私が6回目に職員室に入ってきた際には、「まったく。今日はあなた一人に尽くしたよ。」そう呆れたように言った。「厳しくてこわい」で有名な教育係の陳先生だが、実はとっても心の暖かい方であることを、私は知った。


 3月21日、わたしは歴史学部の行政室と教務室を行ったり来たりしながら、パソコンで必要事項を打ち込んでいた。簡単な手続きも、自分ひとりでは合っているのか自信がない。中国語で書かなければならない部分は必ず、友人に確認してもらわなければならない。困った顔をしている私をみて、二年前に私のしていた仕事をしてる修士一年の学生が話しかけてくれた。


同じ歴史学部の後輩の李春艳である。彼女はオンライン上で私が書いた情報を一つ一つ確認してくれた。彼女のおかげで、個人情報入力などの手続きを完了することができた。

論文はというと、文章は書き終わったが、文章全体の最後の確認と、論文の格式や目次の挿入、参考文献の整理など、ワードを使いこなす作業が残されていた。とくに論文の格式に誤りがあると、致命的なミスに繋がるため、慎重に慎重を重ねた。


しかしながら、パソコンが苦手なわたしは、初めての作業にとても自分ひとりではこなすことができなかった。仲の良い先輩の一人、李颖先輩は博士課程で、同じく今年卒業を迎える。そんな、ともに忙しい彼にも、わたしはお願いをしてしまった。


「明後日には提出しないといけないんだ。なのに格式がまったくひとりでは調整できない。」「えみのことなら、僕がたすけないとしょうがないね」理系の彼は歴史学部の文章はよくわからないけど、といいながらも、論文全体の格式を調整し、目次など加えたあとはしっかりと大学の指定した格式に変わっていた。


自分の論文もまだ完成していない中で、力を貸してくれた先輩に、感謝してもしきれない。


 論文の文章の最終確認について、私が何度6万字の論文を読み返しても、もう文法や内容構成の間違いは見えてこない。しかし、論文の目次から結語まですべてを通して問題がないかどうか、いまだ確信は持てない。


私は、その日出会ったばかりの後輩春艳に遠慮がちに聞いてみた。「いま論文の最終確認の段階なんだけど、もしよかったら、ちょっとだけ見てもらえないかな?」この「ちょっとだけ」がのちに、3日間論文を見てもらうことになる。春艳は、「わたし、時間あるから大丈夫だよ。」そういって、それから提出までの3日間と半日、毎日私の部屋にパソコンを持って通った。



私は日本語の脚注や参考文献などを整理し、彼女は論文を最初から最後まで見直し、添削、さらに書式や段落、参考文献のチェックをしてくれた。先日出会ったばかりの彼女に、私を助ける義務などないのに、自分の時間と労力を犠牲にして、自分のことのように真剣に私の論文に編集を加えてくれている彼女を前に、私は目頭が熱くなることを堪えることができなかった。


天使のような彼女との出会いが、私を救った。それは、論文の中身の修正もそうだが、精神的に参って、ジタバタしていた私にとって、大きな心の支えとなった。彼女の無私の優しさに、「家族」のような繋がりさえ感じた。会ったばかりなのに、こんなにも人のために尽くせるものなのか。


3月25日

新学期を前に
2017/02/26


新学期をまえに
               吉永英未  2017.2.20


 「寝ても、覚めても、論文」。9月に上海に帰ってきてから、毎日、そんな日々を過ごしていた。読んで読んで、書いて書いて、友人に見てもらって、アドバイスをもらって、また考えて、書いて、書いて、書いて。そんな毎日を過ごしてきた。時々、泣きたくなる日もあった。


いや、ほぼ毎日そうだった。「卒業できるかな」「私みたいに、優秀でもない人間が、復旦をしっかり卒業できるのだろうか」そんな不安といつも戦っていた。


でもそんな不安が、背中を押して、私を机の前に座らせていたことも事実だった。
 以前は、バドミントンやご飯の誘いは間違いなく断らずに、外へ飛び出していた。しかし、論文を真剣に書き出すようになってから、そんな誘いも、論文を理由に断るようになっていた。


自分にムチを打ち、断ったら断ったで、部屋で冷凍食品しか食べることのできない私は、後悔も付き物だった。

運動が大好きな私も、たまに運動をしたとき、疲れて帰ってきては論文に取り付けないため、それなりに「さじ加減」を覚えた。


そうはいえども、たいてい、運動をして帰ってきたらベットに横になってしまっていた。それは、自分の体力が衰えていることも表していた。

 こんなに辛いということは、入学前に覚悟できてただろう、と言われるかもしれない。もちろん、聞いてはいたが、入ってみない限り、書いてみない限り、わからないことの方が多かった。


 周りの学生たちに圧倒され、自分に対する自信を失くしてしまった修士一年時。バドミントンだけは、自分を思いっきり表現することができると、体育館に自分の居場所をみつけ、それに浸っていた二年時。


友人の励ましはあったものの、向き合わなければならないのは「自分」だということを、その頃はまだ自覚していなかった。


なんとかすべての単位を取り終え、卒業への道は開かれたが、「論文」というものに、まだ向き合う準備は出来ていなかった。

 「あれから」、今のような状態に入るまで、たくさんの人たちに支えられてきた。
 14万字の私の論文の「たたき台」、それを10日間かけて中国語の添削をしてくれた友人。

それはただの流水式のものだったため、また書いて、自分の観点を少し加えてみて、大まかな背景のみの部分を削った。


それをまた3日間かけて読んでくれた友人。そのアドバイスのもとまた変えて、変えて、変えて、書いて、書いて、書いた。


途中で行き詰ったら、先輩に連絡して、論文の行き詰っている悩みを相談して、アドバイスをもらい、また机に向かい直した。

最初は、「これじゃ全然だめだと思う」というアドバイス。それから、これでもか、これでもかというくらい書き直して、具体的なアドバイスをもらえるようになった。


そして、今月末、歴史学部の先輩から、「あとは初回提出のあと、先生にアドバイスをもらえばいいと思う。」という言葉をもらった。論文は、「終わりがない」ことは承知だが、この言葉はひとまず私に、提出できる程度のところまでたどり着いたことを悟らせた。



その後、友人に5万字以上の論文に添削を加えてもらい、中国語を修正してもらった。その一週間、表を作成したり、年表を作成したり、参考文献を整理したりしていた。だから、気を抜く暇もなかった。



 そんな日々の中で、先日、復旦の語学生を卒業した後輩が日本から遊びに来てくれ、一緒に外灘に連れ出してくれた。久しぶりの「お出かけ」に、私は一番はしゃいでいたこと間違いない。



日本からお客さんが来るたびに必ず訪れる外灘は、もう何回目に来るのかわからないが、私にとって、どこに行くかは大事ではなく、旧友と他割のない話をしながら、夜の街を歩くことが、何よりも楽しくて、幸せに感じた。



 論文は、私に、身近な幸せに気づかせてくれたことも確かである。「外に出られるだけでうれしい」、「青空が見られるだけで嬉しい」と思えるようになった。



よく、「幸せを探しに」といって旅に出る人がいるが、自分を追い込んだ時、厳しい日々の中で過ごしているほど、「幸せ」に出会うことができるのだと気づいた。

それは、美味しいものをたべたいとき、美味しいお店を探すより、思いっきりお腹を空かせることがもっと手っ取り早いのと同じなのかもしれない。



 「論文のために」「論文第一」と呪文のように唱え、大好きなバドミントンや、友達との交流も断念して、机に向かっていた日々。「なんでわたしばっかりこんなに苦しまなければならないんだ」と自暴自棄になって、投げ出したくなることもあった。



でも、先輩から来るメールの、率直で厳しい意見の最後には、「あとひと踏ん張りだから頑張れ」とか、「卒業を祈る」とか、そんな言葉が必ずあった。



親友には精神的に支えてもらい、先輩も、友人にも、あまりにもたくさんの人に助けてもらい、諦めようにも、投げ出したくも、投げ出せなくなってしまっていた。

そして何より、こんなにも情熱を注いだ論文が、いまは審査に通過してもしなくても、これだけ頑張ったということに、私自身、後悔はないと言うことができる。


その気持ちが、もしかしたら、私がこの論文に一番求めていた気持ちなのかもしれない。


 もう少しで始まる新学期を前に、今の気持ちを言葉にしてみた。今学期は、これまで復旦で過ごしてきた三年間の集大成とも言える最後の4ヶ月である。


ここで改めて、これまで支えてくださった全ての方々に感謝し、これからも努力し続けることを誓いたい。

不器用で、実はなにも備えていない私が、25年間生きてくることができたのは、両親をはじめ、数え切れない人たちに支えられ、時に叱られ、私を成長させてくださったからである。私は一生、感謝しても、しきれないだろう。


 いつの日か、社会に貢献できるようになったとき、精一杯、このご恩に報いたい。

2017年2月20日深夜 吉永英未

花火のような「希望」を
2017/01/06


花火のような 「希望」を


 2016年1月7日、不安を抱えてタイ・バンコクに旅立ち、東南アジア6カ国を周り、そこで得た感動と他では体験し得ない経験、私にとって2016年の幕開けは一生に残る旅であった。


1ヶ月にわたる東南アジアの旅を終え、上海に戻り、孤独との戦い、そしていつしか夏が来て、鹿児島に一時帰国した。卒業前の最後の一時帰国である。

お世話になっている親戚や先生方にお会いし、気合いを入れ直し、目標を確認し直した。そのとき、鹿児島大学の木村朗先生から頂いた「喝」に、感謝しないわけにはいかない。


復旦に何しに来たのか、私の最後の大切な任務、論文と向き合うことを、お叱りと「喝」を入れて教えてくださったのが、木村先生であった。


 恩師の方々にがっかりさせないために、そして自分自身のために、新学期が始まった9月から私は真剣に論文に取り組み始めた。初めて自分で論文構成を書き終えたとき、「私にもできるんだ」と湧き上がってきた自信と、そう思えた感動を今でも忘れられない。


 図書室(サークルの活動室)に行く数は減り、なるべく多くの時間を論文に費やした。予定が無くて外に出なくても良い日は、前日に食堂で2食分をタッパーに詰めて冷蔵庫に入れ保存し、一歩も部屋から出ないでパソコンと本に向かい合った。


しかし、その一歩も外に出ない日は辛く、二日間も続くと精神的にきつかった。そのため、そんなときは自分を慰め、夜図書室に行って友達と時間を過ごした。大好きだったバドミントンからも一歩引き、自分に「引退」を言い聞かせた。


 そんなとき、復旦大学日本人研究生会との出会いがあった。復旦にいる大学院生の集まりであるが、前学期2人しか出会ったことがなかった日本人大学院生が、今学期になって初めて集まり、私たちはこの院生会を結成、月に一度自分の研究発表をすることになった。


その第一回目が私の論文の中間発表で、中国語で書いている内容を日本語で発表させていただいた。


ドキドキしながら始まったが、中国語の文献を読み、書いているものを母語で説明することで自分の頭の中を整理することができた。


院生会のメンバーは10人ほどで、私だけが復旦の修士課程に正規で属し、他の先輩方は東北大、九大、一橋、立命館などから交換で来ている。


専攻も出身もバラバラだが、論文の落としどころ、方向性と論文の価値など、重要な部分を話し合い、貴重なアドバイスをいただいたことは大きな収穫となった。


 11月には、同じテーマで研究をされている上海交通大学の翟新先生にお会いし、交通大学で三時間にも及ぶ面談を行った。


著書を読み、その後ろに書いている著者の紹介をもとに連絡をして、お会いしていただき、専門的なアドバイスと、私の論文に対する鋭い指摘をいただいた。


先生からの厳しいご指摘に、私は思わず後退してしまったと落ち込んだが、これまで支えてくれた友人や先輩方に励まされ、また立ち直した。


足りないところを指摘されるということは、論文にまだまだ伸びしろがあり、成長の空間があるということで、プラスに受け取ることで、前に進むことができることに気づいた。


 今年度最後の発表は、12月26日の日本人院生会で、私の論文の問題点と、これからどうやって修正を加え、形を整えていくのか具体的な方法について丁寧に先輩方に指導していただいた。


そして27日は指導教員の馮先生に意見とアドバイスをいただいた。論文は自分の子供のようで、愛情を注げばそれだけ磨きがかかると言われるが、逃げていた前学期から、向き合い始め、格闘し、そして様々な方に読んでいただきアドバイスをいただくことで、一層、また一層と磨きをかけることを覚えた。


その背後で支えてくれたのは、私の論文を根気強く読み、厳しい言葉をくれた友人たちであった。

10万字の論文を3日間かけて読み、中国語を添削し、アドバイスをくれたのは、文学部博士の李昌懋、哲学部修士2年の李凯旋、同じ歴史学部の顾明源先輩、そして部分部分で訂正してくれた数え切れない友人たちであった。彼らには感謝してもしきれない。

 
  12月29日、日本にいる親友のまこに誘われ、論文のことを引きずっていたわたしも半分無理やり背中を押されて一緒に三泊四日の瀋陽、大連の旅に出ることになった。


「遠ければ遠いほうがいい」という彼女のリクエストのもと、もともとハルビンに行く予定だったが、学校の関係で1月2日には上海に戻る必要があったので、友人のいる瀋陽と大連二つの都市に行くことになった。


東南アジアの時のごとく、瀋陽で私たちは現地集合を果たした。私が上海から瀋陽に到着したのは午後三時半過ぎ。瀋陽出身の肖雄君が迎えに来てくれていた。


李昌懋の高校時代のクラスメイトで親友の彼とは、復旦の図書室であいさつを交わしたことがある程度だった彼の印象は、いつもニコニコ微笑んでいることだった。


そんな彼に瀋陽で合流し、市内に行って瀋陽の街並みを紹介してもらった。「満州国」の時代、日本は瀋陽を占領した。瀋陽、あとにいく大連、そして長春の広場は3つの都市同じ背景の広場がある。


大連の「大和ホテル」が象徴しているように、これらは日本が占領していた時代に建てられたものである。

 昼マイナス6度、夜マイナス14度という極寒の中、足をバタバタさせて夜の瀋陽の街を見学した。というのも、足を動かさないと指先が凍ってしまいそうだったからだ



彼の歴史の解説を聞きながらも、私はその冷凍庫にいるような寒さに、ここより北のハルビンに行かなくてよかったと心から思った。


写真撮影しようと思ったら、携帯は「凍死」、上海から持ってきたダウンも瀋陽の寒さにはかなわなかった。

ガタガタ震えている私をみかねたのか、「僕は慣れてるから寒くないから。」と肖雄は自分の着ていたコートを脱いで私に着せてくれた。


朝鮮人の方々も多く住む瀋陽で、韓国料理を食べて、今度は彼のお父さんの運転で夜11時に瀋陽に到着したまこを迎えに行った。


 翌日、自分の気持ちにかかわらず、寒さでいやでも気合の入る瀋陽の朝、彼の案内のもとで私たちは瀋陽観光を始めた。

まず最初に、お寺にいき、12月30日、母の三回忌のお参りをした。そして、故宮、九一八記念館、キリスト教の教会など訪れた。理系の彼の歴史の解説は、行き届いており、心から感心した。


 瀋陽の最後の夜、肖雄のお父さんとお母さんと一緒に食事をした。お父さんは中学、お母さんは小学校の先生という彼。彼の家の本棚にはたくさんの本が並んであった。私はいま勉強中の囲碁の本をもらった。


 私とまこは瀋陽の夜をあとにし、翌朝また大連で彼と合流した。鈍行列車で瀋陽から大連まで来てくれた彼の親切に、ただただ感動した。瀋陽、大連での食事、チケット代などすべて彼に負担させてしまった。


レジの前で私と彼のお金の渡し合いが行われるが、結局彼にすべて払わせてしまった。


「これは中国の“伝統”のようなものだから。僕のところに友達が来てくれたら、絶対に僕がすべておもてなしするんだ。」と頑固としてお金を受け取ってくれない彼に、私たちは申し訳ない気持ち、そして感謝の気持ちでいっぱいになった。


 大連での最後の夜、私は2012年大連に交換留学時代に出会った友人の家で大晦日の夜を過ごした。


あれから5年の月日が経っていた。当時25歳だった彼女はもう一歳児の母、私は当時の彼女の歳になっていた。思い出話に花を咲かせ、私たちは別れを惜しんで再会を誓った。


 もうすぐ卒業すると言うと、多くの中国人の友人は、「中国人と結婚してここに残りなさい」と言う。


その暖かさを心からありがたく思い、自分にもその問いかけをする。私の最終的な目標は、日本で大学の先生になり、私が大学でなりたい自分を見つけ、輝く目標を見つけることができたように、一人でも多くの学生に、輝く道を見つけ、そのお手伝いをすることができたらと願っている。



そして、目の前にいる人たちの力になりたい。

一生を、貧困を中心とする平和問題に取り組み、平和と向き合い、自分の力の限り平和を築いていきたいと思っている。それが私の、大雑把ではあるが、変わることのない、人生の目標である。


具体的な卒業後の道について、はっきりとした目標はまだ決まっていないが、まず目の前の修士論文を完成させ、復旦大学を卒業することが、現在の大きな目標である。


もちろん、素敵な人と結婚し、幸せな家庭を築きたいとも心から願っている。

 2017年が私にとって、飛躍の年であるならば、きっとこれからもずっとずっと熱い何かを追いかけ、夢を見ていられると思う。


叶えられないから夢になり、夢は目標としてずっと私の人生の道を照らしてくれる。

いまは、悲観的に理想を語るのではなく、幸せに寄り添うように夢を語りたい。

 人生は花火のようだと母が言っていた。花火のようにあっという間に消え去ってしまうのだと。

でも、花火の懸命に上がる姿と、必死に咲き誇り、そして儚くちっていく姿を、見ている人がいて、感動する人がいることを、心に留めておきたい。


それが「希望」なのだと私は思う。
人生は花火のように儚い、でも希望は誰かの心の中に永遠に生き続けると。

 終わりは始まりを告げ、私たちはまた歩き出す。儚く散ってしまう人生に「希望」を残すために。


2017年1月2日 復旦大学留学生寮にて 


感謝してもしきれない感謝の気持ち
2016/11/11


感謝してもしきれない感謝の気持ち

 工友―かけがえのない仲間たち。      吉永英未

復旦大学で過ごす三度目の誕生日を迎えた。


何気ないふだんの生活の中で、たくさんの数え切れない人に支えられて生きていることに気づく。その優しさにときに涙することもある。そんな日は、そんな感謝の気持ちを忘れたくなくて、日記に留めておきたいと思う。


  図書室の人たちと交流し始めてから一年が経とうとしている。この一年間で、様々な人達と出会った。それは、遠い故郷を離れて上海に出稼ぎにきた人たちと、彼らの力になりたいと願う学生たちだった。


 ここでの「図書室」とは、大学の図書館のことではなく、復旦大学で働く、出稼ぎにきた人たちのために、ボランティア活動をする「校工服務隊」のメンバーが作った図書室のことである。


この図書室は、彼ら工友(ここでは復旦で働く人たちを指す)の住む宿舎の二階にあり、広さは決して広くないが、本棚には本がぎっしりと並べられている。これらの本は、図書館からいらなくなった本をもらってきたり、学生が寄贈したりしたものである。


(私もいくつかの日本語の本を寄贈した。)工友の仕事は、食堂で料理を作ったり、警備の仕事などをする、オフィスで働くホワイトカラーの仕事とは対照的で、体力仕事のきつい仕事である。


6年ほど前に作られたこの図書室だが、復旦大学での工友支援のボランティアの歴史は浅くはない。また、このように大学で働く工友のために大学内にサークルがあり、ボランティア活動が行われているのは、うちの大学だけではない。


たとえば、復旦は北京大学、清華大学とも「工友服務隊」同士の交流があり、大学内で働く「工友」だけでなく、中国全土の「出稼ぎ労働者」に関心を持ち、フィールドワークを通して調査を行っている。工友と直接交流し、より良い環境、待遇を得られるように努力しているのだ。


私たちの大学では、毎日工友が仕事を終えて宿舎に戻ってきたあと、午後8時半から図書室で様々な授業を行っている。たとえば、私は前学期火曜日の夜日本語の授業を担当し、彼らと日本文化を通して交流した。


また、英語学科の学生は英語、国際関係学部の学生は政治の授業、そして毎週水曜日は体育として、バドミントンや卓球を工友と共に楽しんでいる。


工友は、学生ではないため、大学内の図書館に入ることも、体育館を利用することもできない。私たちは工友が読みたい本を図書館で借りたり、体育館の予約をしたりする。


また、今学期から「中国語講座」も始まった。それは、甘肃省から出稼ぎに来た20歳から30歳の婦人方のために開かれたものである。彼女たちは、20歳を過ぎているが、学校に行ったことがないため、中国語(普通語)を上手く話す事ができない。


また、中国語を書く事も、ピンインを打つこともできない。現在は女の子も学校に行けるようになったが、彼女たちが子供の頃は、そのような文化的背景の中で、女の子は学校に行くことができなかった。
彼らは方言を話す(普通語にかなり近いが、やはり発音は異なる。)ため、故郷を離れると、まず言語の壁にぶつかる。漢字を書く事も、ケータイで打つこともできないため、ケータイを使ってのチャットではすべて音声を使ってメッセージを送っている。


また、彼らの働くところはハラム(イスラム教専門の食事)のレストランや食堂のため、周りにいるのもすべて回族、同じ故郷の人たちのため、異郷で働きながらも普通語を学ぶ機会がほとんどない。



彼ら回族ムスリムは、ハラムの食事しか食べることができないため、働く場所はかなり限られている。そんな回族の彼らの心は純粋でとても美しい。回族の彼女たちのために、毎週土曜日、学生たちは小学校で教えるようなピンイン(中国語のあいうえお)から教える。


彼女たちの学ぶ意欲はとても強く、「いつかケータイで漢字を打ってメッセージを送りたい」と意気込んでいる。
そんな工友たちの学ぶ姿をみて、私は、自分の置かれた身とその責任を深々と感じ、更なる努力を誓うのである。



このようなことを述べていると、いつも私たちが工友のために働いているのだという印象を受けるかも知れない。しかし、私たち学生と、工友は、友情の絆と信頼で結ばれている。先日は同じ年代の工友と学生4人で、深夜1時まで語り合った。


そのうちの学生の一人、哲学を学ぶ李凯旋は、夏休みに出稼ぎ労働者とともに工場で実際に働いた経験もある復旦大学の修士二年生である。彼は学部を復旦の新聞学部(メディア学部)を出て、マルクス主義に興味を持ち、大学院入学の試験は哲学学院を受験した。


そんな彼は夏休み、蘇州の工場で一ヶ月間働いた。自分の身分は隠し、工友たちと共に汗を流した。そんな彼の周りでは、大手企業や金融機関でインターンシップをしたり、海外でPhDを取る学生など少なくない。周りの学生は「君はなんでそんなにもたくさんの時間を工友のために費やすのか。」と彼に聞く。


あの日の夜、図書室で、彼は私たちに語った。
「僕にはこれしかないんだ。僕は他に何も特技がないし、大学の中でもひときわ優秀というわけでもない。


でも、工友のために少しでも何かできることで、僕にとっては生きがいを感じらる。何より、彼らと過ごす時間が本当に楽しいんだ。」
彼が工友のためにこんなにも時間を割く理由が他の学生たちには理解しずらいかもしれない。

でも、私にはその気持ちがわかる気がする。工友はよく、「いつも私たちのためにありがとうね。食堂にご飯食べに来なよ。安くしてあげるから。」という。

でも、感謝しているのは、私たち学生たちの方であって、彼らと接することで、人間の暖かみを感じ、図書室にいる事で自分の居場所を見つけることができる。

生きがいを感じることができているのほかの誰でもない、私たち学生たちなのである。


 私には中国のお母さんがいる。北食堂で働く張麗おばちゃんである。
張おばちゃんの目は誰よりも優しくて、どこか母に似た面影がある。おばちゃんも、私を本当の娘のように可愛がってくれ、食堂で働く他のおじさん、おばさんたちに、「私の本当の娘よ。」と私のことを紹介してくれる。


「もう日本に帰りなさんな。中国人と結婚して中国に残りなさい。あなたが帰ってしまったら、おばちゃんさみしくなるから。」と言ってくれたおばちゃんの言葉に目頭が熱くなった。


母のような暖かさ、本当の娘のように温かく包み込んでくれる帳麗おばちゃんは、わたしの中国のお母さんである。


  復旦の授業を聴講するために、福建省から出稼ぎに来た丁東、彼は高等教育も受け、もともと受付などの仕事をしていたが、哲学に興味があり、復旦大学の哲学の授業を聴講するために、大学内でウェイターをして生計を立て、仕事の合間に授業を受けている


。復旦は開放的で、ひとつの授業に聴講生がたくさんいる。彼らは他の大学の学生であったり、働いている人たちであったり、復旦の修士課程を受験したい人だったり、様々である。


 丁東の哲学の思考力はなんとも言い表せないもので、とにかく彼は、「すごい」。そんな彼と私たちはよく、夜中まで哲学について語りあう。


 姜作鹏、彼は大学の門を守る警備員で、山東省出身。過去7年間軍隊にいたため、がっちりとした体つきが特長だが、とても優しくて、日本が大好きで、私が日本語を教えていたときは一番積極的に発言してくれた。



 汪竹君、かっこいい名前だが、女性である。私より4歳年上で、本当にお姉さん的存在。図書室の中では一番仲が良くて、なんでも話せる仲だ。復旦付属のホテルで受付をしている。


上記のような工友の他に、6教学楼の向かいの工友宿舎には、たくさんの工友が住んでいる。

そして彼らのために、少しでも力になりたいという人たちで集まったのが、私たち校工服務隊であり、物理学部、国際関係学部、法律学部、社会工作学部、医学部などなど学生の出身は様々である。私たちはその特技を活かし、図書室で専門の授業をしたり、映画を放映したりしている。
そんな温かい人たちの集まる図書室は、いつしか私にとって温かい「家」となっていた。いや、大学が、中国は私を温かく見守ってくれていると感じる。


自転車がなくなったその日のうちに、私に自転車を譲ってくれた親友。
スカートに穴が空いたとき、何も言わずに縫ってくれた食堂のおばちゃん。


一度故郷へ帰ったのに、私たち学生が恋しくなってまた復たんに帰ってきてしまったと言う南食堂で働くおばちゃん。


そのひとりひとりの優しさが、私にとっては涙がこぼれるほど嬉しくて、どう感謝したらよいのかわからなくて、ただただ、友情や愛に国籍など関係ないんだと、こころのそこから感じるのである。



私が復旦で得たかけがえのないもの、それは、国籍や年齢、学歴や社会的身分を超えた友情であり、信頼関係を築いてきたかけがえのない仲間たちなのである。



そんな私にとって尊い、かけがえのない仲間たちに、感謝の気持ちをこころから伝えたい。



努力の花(復旦日記 2016.9)
2016/10/06


努力の花      復旦日記 2016年9月

 修士論文について

 ここ復旦で過ごす、最後の一年がとうとう始まった。まずはわたしの留学の集大成になるであろう修士論文について。
  修士論文に対して、今までの力の入れ具合が2パーセントだとしたら、現在は80%のところまできているのではないかと思う。

宿舎から一歩も外に出ずに論文に取り組んでいる。

冷凍食品を食べ続け、パソコンに向かい続けた。その結果ついに論文構成を自分の手で書けた暁には身体中がしびれていた。
 このような状態に入れたのは、恩師のお叱りと、先輩の励ましであった。お叱りを受けて、励まされて、私はやっと本気になることができた。

現在中国語で10万字を越える文章を書いたわけだが、これから大掛かりな修正と改正が必要である。

バドミントンの試合への誘い


 復旦でバドミントンを始めて、三年目となる。入学してすぐに参加した試合で三位入賞してから、私にとってバドミントンはひとつの娯楽であり、情熱を注ぐものとなったことは間違いない。

それからというもの、勉強がついていけない、もしくは自信がなくなると、バドミントンに逃げていた自分がいた。
少なくても体育館のコートの中では、自分を表現することができる。そして周りの人も私を認めてくれる。

そんな気持ちの中に浸っていた。もちろん、バドミントンで出会った友人は少なくなく、彼らとの友情はかけがえのないものである。彼らとは勉強についても哲学についても、人生についても語ることができる。


 しかし、だんだんと気づき気づかされてきたのは、学問に向き合うとからずっと逃げてきたことである。

たしかにバドミントンでは、自分を大きく表現することができるのかもしれない。でも私は、バドミントン留学に来たわけでもないし、向き合うべきものから逃げたところで結局問題は解決できていないのである。


友達との会話、自分との会話でそのことに気づいた私は、だんだんとコートから離れていった。健康のための適度な運動程度で、友達に誘われてはバドミントンを楽しんでいた。


 9月中旬。バドミントンの試合に出てくれないかと大学から声がかかった。私の気持ちは複雑だった。それには遡らなければならない過去がある。

 修士1年時、バドミントンに闘士を燃やしていた私は、復旦大学を代表して大学チームに入れることを心待ちにしていた。

そして、チームの練習の日には毎回顔を出して、機会があればチームのメンバーと打っていた。しかし、チームの雰囲気、チームメイトの態度は「熱烈歓迎」というものではなく、私が頼んだから打ってあげるというような雰囲気だった。コーチも私の存在はあまり気にしていなく、いてもいなくても変わらないというような感じを肌身に覚えざるを得なかった。

そのことに気づいた私は、はっきりいって「居づらく」なり、自然とチームから抜けていった。それからというもの、チームのメンバーと打つことはなくなり、チームが占領するコートの傍らコートで、他の友人や先生方と打つ日々が続いた。


それから二年の月日が経っていた。
 そんな過去もあって、今年度に入って突然の試合への誘いを素直に受け入れることができなかった。


「これまで二年間、私を空気のように見ていたのに、なんで今頃、しかも卒業準備に忙しくなった時に試合に誘ってくるのだろう。」私は彼らに歓迎されず、コーチにも見て見ぬふりをされ、雑草のように育ってきたのだ。今更プライドの高すぎるチームに戻りたくはない。。そんな気持ちが胸からずっと離れられなかった。様々な感情がこみ上げ、断ろうと準備していた。


そんなある日、地下鉄に乗っていたときのこと。地下鉄が地上に出て、暗い景色が一気に青い空と立ち並ぶビルに変わった。私はふと、気がついた。プライドが高いのは、私のほうだということを。チームのメンバーに嫉妬したり、コーチに不満を抱いていたのも、他の誰でもない、私の方だということを。心のわだかまりが、さっと溶けたような気がした。


そして私は、もう一度だけ、大学のチームに、微力ながら力を貸そうと決意したのだ。チームのメンバー、コーチとのわだかまりをとり、雑草のように育ってきた私の、本当の姿をもう一度見て欲しかった。以前は勝ち負けにこだわりすぎていたのかもしれない。でも、いまはもっと大切なものに気づくことができた。そんな私をもう一度みてほしかった。


 バドミントンに時間を割くことができるのも限られているため、私は団体戦だけ参加することにした。

10月22日、復旦大学を代表して初めての外部の試合に参加することになる。しかし、私には心の中に決めていることがある。それは、道徳を持ってバトミントンをするということである。試合に負けてもいい。

しかし、どんなときも道徳を捨ててはいけない、そう心に言い聞かせた。この決意には、高校生の苦い思い出まで遡ることになる。


努力の花
 『努力の花』は私が高校三年時、校内スピーチコンテストに出場したときのスピーチ原稿のテーマである。私は高校の三年間を、青春を、情熱を、すべてバドミントンに捧げた。寝ても起きてもバドミントン。

その魅力に、完全にとりつかれてしまった。私がバドミントン部に入ったのは1年生の中で一番早く、また中学時代陸上部だった私は、フットワークも人一倍速かった。


初心者のため、初めのうちは羽を打つことができず、素振りとフットワークを半年間続けた。憧れの先輩がコートで活躍する姿をみて、自分もいつか先輩のように輝きたいと、どんな努力も惜しまなかった。


 気が付くと、同期のメンバーは全部で12人になっていた。笑いが絶えない、最高のチームメイトにもなっていた。しかし、校内戦が近づくとそのような友好的な雰囲気も一変してピリピリとなった。

校内戦では、チームメイトと戦い、その結果レギュラーになれるかどうかが決まる。みんな試合に出るために必死で練習し、校内戦に臨んだ。


 私はというと、試合で勝つことができない。。。過去何回かの校内戦で勝ったことが一度もない。それどころか、新しく入って何ヶ月目の人にも勝利を譲ってしまう。


そんな自分が悔しくて、強くなりたい一心で、部活の練習が終わると、自転車を父の車に積んで、車の中で母の作ったお弁当を食べ、地元皇徳寺小学校で夜間練習をした。


私は体力だけは、自信があり、中学2年時には20メートルシャトルランは男子に劣らず108回、高校のロードレースでも4位入賞した。その体力を頼りに、手当たり次第バドミントンに打ち込んだ。


 しかし、試合となるとどうしても勝つことができない。「こんなに努力しているに。。。」そんな自分への焦りと、チームメイトへの嫉妬、コーチに認めてもらえない悔しさなど、3年間幾度も涙を流しながら長田川沿いを自転車で帰った。
 努力しても、努力しても、試合に勝つことができない。私はその悔しさを、いつしかチームメイトにぶつけてしまった。

「私はこんなに努力しているんだ」そんなことを言わんばかりに、強情になり、八つ当たりした。


そんなある日、部活のミーティングの場でなんと私の「批判大会」が開かれたのである。

大切なはずのチームメイトが、一人ひとり、私に対する不満を打ち明けた。私は、思いもせぬチームメイト11人からの批判に、自然と涙が溢れていた。がむしゃらになりすぎて、まったく自分の姿を見ることができていなかった


そのため大切なチームメイトを、言葉で、行動で、傷つけてしまっていたのだ。

私がこの集団にもたらした悪影響は計り知れない。

こだわっていたのは自分の「勝利」だけで、相手の気持ちを考えることなんてまるで頭になかった。

自分はこんなに努力しているのに、誰にも認めてもらえなくて、惨めで、悔しい思いをしているのは自分だけなのだと、思い込んでいた。
 道徳の欠片もなく、人間としての資格もなくなりかけてた私は、チームメイトからの厳しい指摘に、気づかされた。


最後に彼らは、「私たちはえみを傷つけたいのではなくて、えみに変わってほしいだけなんだよ。」と言った。
 高校最後の引退試合。個人としては初の三回戦まで出場することができた。


試合会場には、母も駆けつけてくれ、私の最後の試合を見届けてくれた。団体戦にはレギュラーとして参加することができなかったけれど、これまでの自分の努力に、悔いはなかった。


私は、自分も試合に出ているつもりで力のこもった応援をチームメイトに送った。共に汗を流し、努力してきた仲間と一緒に笑顔で引退することができたこと。私にとってかけがえのない宝物となった。


 「努力は必ず報われる」と簡単に言うことはできない。私は三年間努力して、努力し続けててきて、結局レギュラーになれたことは一度もなかった。

結果だけを見るとそうかもしれない。でも、高校三年間で流した汗と、涙と、唇を噛み締めた思いは、10年たった今でもはっきりと覚えている。

そして、仲間が教えてくれた何よりも大切なこと、人を思いやる心、その後もずっと胸に刻んでいる。


 ひとつのことに捧げる情熱、それは、どんなことに対しても無駄にはならない。たとえ成果を残すことができなくても、がむしゃらに努力したことは、きっと自分自身の力になっている。


高校時代、私がバドミントンに注いできた情熱は、のちに英語捧ぐ情熱になったり、中国語になったり、そして論文になったり、形を変えて私の原動力となり、背中を押してくれた。


あのとき諦めず、努力してきたことは、自分だけがしっかりと覚えている。そして、無駄な努力はないのだと、どんなときも私に教えてくれるのだ。


  大学を代表して、試合に参加することが決まってから、大学のチーム内で練習することになった。

しかし、私は、これまで通り一緒にバドミントンを楽しんできたチーム外の仲間と打つことを、やめてはいない。初心者の人たちに教えることもやめていない。


彼らは、私を心から温かく受け入れ、これまで一緒に歩んできた仲間である。勝ち負けは、コートの中だけで決まるかも知れない。

でもコートの中だけでは決められないものがある。大切なのは、名誉やプライドではなくて、そこにいる一人ひとりを思いやる気持ちなのではないか。


試合の有無に関わらず、大学を代表するチームメイトであるかないかに関わらず、私が大切にしたいのは、あの時見失ってしまった、しかし一番大切な気持ちである。

そんな心をもって、これからもバドミントンを楽しんでいきたい。

 あっという間に過ぎてしまった9月。中国は今、国慶節に入り、7日間の大型連休となっている。


みな半袖を着ているほど、秋はもったいぶってまだ上海には来ていないようだが、北京から来た友達は、北京はもうかなり肌寒くなったと教えてくれた。


先日は深夜3時まで、図書室の友達と、ボランティアをする意義から哲学、人生、平和について語り合った。時間を忘れて、語り明かした。


人はみな、社会から認められたいと思っている。みんな、自分の居場所を探している。みんな、様々な悩みや思いをもって生きている。


たったそれだけのことを確認しあうだけで、すごく楽になれた気がした。その日の夜、私はぐっすりと眠った。

2016年10月4日 吉永英未

私の原点 『再会』 復旦日記より
2016/09/03


復旦日記 私の原点、再会             吉永英未
7月。第一週目には全てのテストが終わり、第一弾の学生たちは、両親の待つふるさとに帰っていった。大学の中に暮らす私たちは、食堂や図書館、大学内を歩いていると、人の流動が伺える。

大幅に人が減ったため、食堂では並ばなくてもすぐにご飯が食べられるようになった。
普段は、授業が終わる11時半を時計が回ると、食堂には長い列ができ、自分が並んでいる列で何を食べられるのか分からないまま並び続け、おかずを目の前にしてやっと注文できるという具合である。
「第一弾」というのも、旧正月を過ごす冬休みと違って、夏休みの場合約半分の学生はその前半をインターンシップや課外活動、研究生となると実験や研究で大学に残るため、約半分の学生だけが実家に帰るためである。


その他の学生は、夏休みの後半に一、二週間実家に帰り、新学期のはじめにまたもどってくるのである。
第一弾の学生が実家に帰った頃7月の初め、私の本当の戦いが始まった。今学期一番お世話になり、心を許しあった食堂の馬くんは実家に帰り、上海にもどってくることはないということで、涙のお別れになった。

図書館で勉強しながら自然に涙が溢れてくるほど切ないお別れとなったが、そんな中でも私には向き合わなければならないことがあった。

それは、半年前に申し込んだIELTSの試験である。試験料が1800元と、決して安くない値段、そして何より、自分で決めた目標を簡単に諦めるわけにはいかなかった。


半年前から参考書を買いあさり、以前これらのテストを受けたことのある学生から勉強方法を聞いて回った。

復旦大学の学生は、私の周りで大体3人のうち一人は過去にIELTSもしくはTOEFLを受けたことがある。それも高得点を取っているので、様々なアドバイスをもらうことができた。
中国では、本の値段が日本と比べてかなり安い。また、中古のものもあり、その値段の安さに欲しい本はついつい全て買ってしまう。


IELTSとは、全世界で行われているケンブリッジ大学の主催する英語の試験で、大抵の場合イギリスの大学もしくは日本のいくつかの研究生入試の英語科目にも認められている。試験は、聞き取り、長文読解、作文、会話(Listening ,Reading, Writing, Speaking)その全てで、試験は約3時間に及ぶ。TOEFLに並び難易度は高く、何万という単語を暗記しなければならない。


高校以来まともに英語の試験勉強をしたことがなかった私は、まず「勉強」そのものに慣れるのに時間を要した。とくに長文読解には苦労した。文章を一生懸命読んでいると、前の文章の内容を忘れていく。

また、問題文の中で出てくる単語がわからず悪戦苦闘するという具合である。
上海の夏は暑かった。少なくとも、鹿児島と比べるとかなり蒸し暑く、外にじっとしているだけで汗がにじみ出た。そんな暑さの中、7月30日の試験に備え、毎日のように図書館開館の時間とともにいつもの席に着いた。


朝6時起床、洗濯物を手洗いし、部屋をモップがけし、そのあと北食堂で朝食を済ませ、8時半の開館とともに理系図書館に入る。

夏季休暇中に開放された教室は限られており、大学に残る学生はほとんど、涼しい図書館で自習するため、開館とともに席を取らなければ、9時には学生でいっぱいになってしまう。

昼食の時間になると席を外し、近くの食堂で昼食を済ませたあと自分の部屋に戻り、お昼寝をする。まさに、「中国時間」である。日本から来たばかりのとき、「え、お昼寝!!?」と最初は信じられなかったが、周りのどんな優秀な友人も昼寝をするし、午後1時半、2時頃になるとみんな起き出して勉強なり仕事なり行くところを見ると、これは効率の良い方法なのかもしれないと思い、私もやってみることにした。



早朝から活動を始めているため、お昼になるとたしかに眠くなる。しかも、昼寝をしたあとは、午後になっても眠気が来ることがなく、夜の睡眠にも影響が出ない。このお昼の1時間こそが、中国の方々の心身の健康の秘訣なのかもしれない。


お昼寝の後、午後はまた図書館に戻り勉強し、午後6時食堂のご飯がなくなる前に食堂で夕食をとる。夜はサークルの図書室に遊びに行き、おしゃべりをしたり、食堂で働くおばさんたちと中国のテレビドラマを見たりして過ごした。


一日の中で唯一リラックスできて、楽しい時間だった。
そんな規則正しい生活を送っているうちに、ついに7月30日、IELTS試験の日がやってきた。

筆記試験の3日前にはスピーキングのテストがあった。実際にイギリス人の試験官を前に、約15分の会話の試験が始まった。

外国の方と話すことは日常的であったため、緊張することはなかったが、自分の言いたい事を長文で、相手に伝わるように話すのは私にとって簡単ではなかった。


筆記試験の会場で、外国人受験者は私ひとりもしくは、いても大変少数だったと思う。
ほとんどが、夢を抱えた中国の学生、社会人の人たちだった。試験時間は約3時間だが、試験会場に拘束される時間も合わせると約4、5時間にも及んだ。試験中、水を飲むとトイレに行きたくなり、トイレに行くと自分の試験時間が削られるため、ほとんど誰も席を立たない。私もそのひとりだった。


試験が終わった時の開放感、何より、8月3日に鹿児島に帰ることができることに心から嬉しく、待ちきれなかった。


ふるさと

 8月3日、一年ぶりの帰国に胸を躍らせていた。私の期待をよそに、滑走路が込み合っているため、機内で待機することになった。待機しているうちに今度は雨が降り出し、「悪天候のため、大変申し訳ございませんが、、、、」と引き続き待機することになった。


そのうち、飛んでいない飛行機の中で機内食も配らた。忍耐強く飛行機の中で待機すること4時間、飛行機はようやく上海を離陸し、一時間半後、鹿児島空港に到着した。


 空港に迎えに来てくれた家族の顔を見るたびに、時の流れを感じる。人間は、気づかぬうちに、でも確実に年をとっていく。自宅に帰る前に母方の実家で4日間余暇を過ごし、「にほん」を満喫した。霧島の自然はまるで私に「えみ、おかえり」と言ってくれているようだった。昨日まで中国の土地にいたことがうそのようだった。


 一年ぶりに帰ってきた我が家はちっとも変わっていなかった。変わっていたのは、子供の頃賑やかだった通りが静まり返り、いつも優しく声をかけてくれる近所のおばあちゃんの家がいつの間にか留守になり、以前は向こうの空まで見えていたところに新しい店が立ち並んでいることだった。


そして、親友との再会。半年や一年会っていなくても、まるで昨日会ったばかりのように、一緒に過ごしていた「あの頃」のように、離れていたその距離や時間を感じさせなかった。


 そして、お世話になった先生方との再会。母校である鹿児島国際大学は、私の夢のはじまった場所でもある。たった一日の大学日であったが、スクールバスを降りてから7号館へ向かう道は、大学で過ごした日々を思い出させてくれた。


 たった二週間の帰国であったが、様々な場所で、自分の原点を感じさせてくれた。お盆中、お墓の前で手を合わせるとともに、祖先の方々に感謝の気持ちでいっぱいになった。冬休み東南アジアを旅していた私にとって、一年ぶりの帰国だった。そして、一日一日全てが充実し、愛と反省に溢れていた。


 留学生活最後の一時帰国は14日間、あっという間であったが、一つだけたしかに言えることは、鹿児島は私の原点であり、家族、友人、お世話になった先生方は、愛を持って私を育ててくださったかけがえのない存在であるということ、そしてこれからどこへ行っても、どんなに時が経っても、それは変わらないということである。


私のふるさとは、ずっと、私のふるさと。

上海での再会

9月18日、私が上海にもどってくると、第三弾の学生たちが実家に帰っていったようであった。

夏休み最後の二週間を、故郷で過ごすためである。私は、修士論文に取りかかった。

指導教員の馮先生はイギリスに出張にいかれたため、とりあえずいまは自分でできる限り進め、新学期が始まってから再び面談をすることになった。


私の論文の時代背景は、日中国交正常化である。田川誠一という外交官の日記を中心に、国交樹立前、その未来を信じ、いまだ「戦争状態」だった中国に11回訪問し、交渉に当たった外交官について、その歴史認識や政策を中心に論文を書き進めている次第である。


8月末、上海にはたくさんの「旧友」と再会することができた。思わぬ再開に、驚きと喜びを隠せない出会いもあった。

上海に戻ってから3日後に、鹿児島国際大学に留学に来ていた賈慶超くんと再会した。賈慶超くんとは、一緒にラーメンを食べたり、作文を書いてはお互いに添削し合ったりするなど、学部時代はとても仲の良い友達だった。


現在吉林で働いている彼が上海に遊びに来るということで、彼に復旦大学を案内したり、午後は一緒に上海を観光した。時間が経っても変わらない友情は、もちろん国籍も問わない。私たちは昨日別れた友達のように、再会を喜び合い、変わらない笑顔で離れていた時を埋めた。


南京大学でお世話になり、現在上海でインターンシップをしていた樊士慶とは、一緒にバドミントンをしたあと、自転車で外灘The Bandまでいった。自転車で初めての遠出。


予想以上に近く、30分足らずで外灘についた。地下鉄に乗るよりもとても気分が良い。とくに、8月末はあの蒸されるような暑さが溶け、外でそよ風に吹かれているだけで幸せな気分になった。素晴らしい気候である。


三人目は、これまた鹿児島国際大学時代のチューター熊青青さんである。彼女は、学部時代のチューターで、鹿児島に来たばかりの彼女を連れてケーキ屋さんに行ったり、私の家で食事をしたりした。


笑顔が素敵な青青さん、そんな彼女となんと上海行きの飛行機を待つ鹿児島空港でばったり会い、一時帰国を終えた私と、これから一時帰国する彼女は、約4年ぶりの再会を果たした。


まさに、感無量である。お互いに「留学中」の私たちは、昔の話、今の話に花が咲き、おしゃべりが途切れることがなかった。


そんな彼女がまた鹿児島に帰る際に上海を経由するということで、私たちはまた、上海の中心街で落ち合った。私たちは「あの頃」のように、笑い合い、人生について、語った。


そして、8月31日、この夏の最後、私の親友でもあり、大好きな先輩である王章玉先輩が深圳から上海にもどってきた。というのも、上海へ出張に来たのである。


一年以上も会っていなかった私たちは、あの頃と同じメンバーで、あの頃と変わらぬ笑顔でまたここ上海で落ち合った。どんなに楽しい時を過ごしただろう。


「僕が卒業したら、きっと仕事が忙しくて、あまり君たちに連絡できないかもしれない。でも何年後、きっと帰ってきて、近状報告をしに来るからな。」


そういった彼は本当に、働いてからというものめったに連絡をくれることがなかった。私は彼らが卒業後、一緒にご飯を食べたり、バドミントンをしたり、楽しい時間を共に過ごした仲間がいなくなり、 さみしい気持ちでいっぱいだった。


しかし親友が、私たちのことを忘れることなどもちろんなかった。一年後、王章玉先輩は本当に帰ってきて、私たちと再会した。涙が出るほど笑い、話は尽きる事がなかった。


一緒にバドミントンの試合に出て、二位を取ったこと。私の試合に応援しに来てくれたこと。仲間たちと彼の故郷、西安に行き、命懸けで華山を登ったこと。

私のプレゼンテーションの発表を手伝ってくれたこと。誕生日、卒業式、中国の様々な祝日を一緒に過ごしたこと。

一つひとつの思い出がまるで昨日のことのように蘇ってきた。


  友情も思い出も、色褪せることがない。時が経つにつれてそれはもっと味わい深いものとなる。この夏に再会した仲間たちの笑顔をこれからも忘れることがないだろう。


またどこかで、と再会を誓い合った私たちはきっとまたいつの日か、どこかで、会うことができると信じている。


明日から始まる新学期。復旦大学で過ごす最後の一年が始まる。後退することがあっても、傷つくことがあってもいい。それらは全て、私の成長の糧となるから。


お世話になった全ての人たちに感謝の気持ちを込めて、そしてこれから出会い、お世話になる全ての人達との出会いを祝福し、新学期の始まりをここに祈念したいと思う。

                         
              2016年9月1日 吉永英未

ひとの言葉から学んだこと−2−重慶の旅
2016/06/17


ひとの言葉から学んだこと−2−     吉永英未
                 (重慶の旅)


飛行機で約二時間半、アモイから、重慶に着いた。今回の旅最後の目的地である。

飛行場に着くと、長江師範学院の学生が迎えに来てくれていた。

それからバスに揺られること約2時間、にやっと涪陵にたどり着いた。長江を挟む緑の山。水があり、山がある。昔の人たちがこの景色を描き、詩で歌ってきたその美しさが目の前にあった。


昔はきっと、緑がもっと澄んで、水がもっと清かったのだろう。

 涪陵からタクシーに乗り、長江師範学院へ向かう。そしてついに、川野さん、貴福くんと再開を果たした。学部時代にお世話になった科学論研究会の先輩である川野さん、そして後輩の貴福君。


これからの4日間の重慶の滞在で私は二人にたくさんの迷惑をかけてしまった。しかし同時に、大切なことを学んだ。それは、先輩、後輩からの「言葉」であり、その「言葉」に考える自分自身との葛藤でもあった。


重慶の火鍋は真っ赤だった。お玉を使って具をすくうと、辛い調味料がその半分を占めていた。辛いものが苦手な私は、これは大変なところに来てしまったと思った。


翌日、大学の前で朝食を取った後、川野先生の授業に出させていただいた。そして案内された研究室に私は感動し、思わず写真をとり続けた。


そこに並べられた日本語に関する本、日本の小説やアニメ、日本文化を紹介する本や雑誌に、川野先生と貴福先生の仕事に対する情熱と学生への愛が溢れていた。

端午节という祝日には、川野さん、貴福くん、日本語学科の学生と一緒に重慶市内へ出た。

周りで話されている重慶弁は上海で暮らす私にとってとても新鮮で愉快に聞こえた。


自然が大好きな私を、黒い白鳥のいる公園に連れて行ってくださった。

ここの黒い白鳥は、学生陳小玲さんのあげるレタスはすかさず食べるのに、私が湖に落としたレタスには見向きもしない。そんな黒い白鳥を見て、私たちは笑い合った。動物たちの瞳はとても澄んでいた。


夜に見た重慶の100万ドルの夜景はとても風情があった。

霧が重慶の街を包み込み、町一番の夜景スポットはたくさんの人たちで賑わう。

夜になってから出てくるバーベキューの屋台とそれを包み込む煙、火鍋を取り囲みおしゃべりに花を咲かす人たち。人々の暮らしの拠り所とその温かさが霧とともに私にも伝わってきた。


中国。ひとつの国だが、一つ一つの地方それぞれに特徴がある。文化も方言も衣食住の週間も異なる。異なるがゆえに面白く、人々を魅了する。またひとつ、新しい中国を見つけた。


上海に帰る前夜、鍋を囲み、お世話になった川野先輩と貴福君、陳小玲さんと言葉を交換した。そして尊敬する先輩と後輩のお二人から、言葉を頂いた。


私は、ないものねだりすることが得意だ。でもそれは動機となり、ないものをあるものに、目標を現実にするきっかけとなる。


しかし、いま置かれている環境で、その任期が終わらないなかで、次の飛躍を望み過ぎることは、あまりよくない。なぜなら、私は「今」すらつかむことができていないから。


人間一人ひとりにはそれぞれの社会的役割がある。それは生きる原動力ともなり、生き甲斐とも言えるだろう。パンを焼いている人は、そのフワフワのパンを作ることで社会に大きく貢献している。平和を作ることは、平和活動に直接的に関わることだけではない。


自分の社会的役割を果たすことで、社会に大きく貢献し、それは平和を作っていることに変わりはないのだ。私はこれまで、平和に直接関わることで、紛争地に直接行くことで、貧困地域に身を置くことで、平和を築いていきたいと思っていた。それができていない現在のもどかしさに、自分自身を否定していた。


しかし、そんな私は、研究生という社会的役割すら果たせていなかった。そんな大切なことに、やっと気がついた。


そして、置かれた場所で花を咲かすこと。実際に置かれた環境と自分に与えられた仕事を愛し、情熱を注ぐこと、それが幸せをつかむ近道なのかもしれない。

最後に、人と比べないこと。私は中国に来てから、これもあの人にはかなわない、あれも及ばない、と人と自分を比べるようになってしまった。


そしてそのたびに自分の自信を失い、小さくなっていた。私は、復旦哲学部の先輩からの言葉を思い出した。


「人間は総合動物なの。欠点があって、いいところもあって、全てをひっくるめたのがあなたなの。あなたはあなたの過去を乗り越えて、今のあなたがある。


そしていまの道を進み続けているのは、あなたしかいない。あなたもわたしも、唯一なの。」唯一の自分。。。だから誰かと比べることに意味はなさないということ。そう考えると、とても楽になった。


復旦に戻ってくると、大学は期末テスト、そして卒業のムードに包まれていた。大学の先生方は忙しそうに、今学期のまとめに追われている。光華楼の前の芝生では卒業生が記念写真を撮っていた。またあっという間に、一年が過ぎた。


9月からはいよいよ最終学年、修士3年生となる。みなさんから頂いた共通のアドバイス、それは「とりあえず論文を書きなさい」というこである。


誰かが、論文は自分の子どものようだと表現していた。わが子のように可愛がり、練り上げていく。無事に卒業できるようにこれからは地にしっかりと足をつけ、論文と向き合っていきたい。


   今回の旅で出会った方たちの言葉に、そして何よりも一つのことに情熱を注ぐその背中から、言葉を越えた何かが伝わってきた。


それは明らかに、今の私には無いものであった。不器用ならば、ゆっくりでいい。でも、いつか私も、その何かを自分の手でつかみとりたいと思う。


2016年6月14日 復旦大学留学生寮1615室にて 

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