永谷元宏の「長沙日語学院 友好の輪
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福島顕二郎の長沙教師録〜未来への道が完成(文字クリック)

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長沙日語教師録  
「コメント」



  
     

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2006/11/04

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9月23日(土)
 午後ピ君が来る。ピ君何やらメモリースティックのようなものを取り出して、私のパソコンから写真をコピーしたいという。日本語対応のパソコンだがいとも簡単にコピーした。そういえばこの前は女子学生が来て、これまた自分のアドレスに写真を送信していた。いずれも簡単にやってのける。すごいなと思う。  


 一般にまだ自分のパソコンを持つのは少ないようだ。彼らは一様に「ワンパー」なるインターネットカフェイに行ってよく遊ぶ。            


 若者の溜まり場のようで、社会現象にもなっている。学校に行かず日長ネット遊びに興ずる若者(小・中・高校生)がいるようで非行にもつながる現象も起きているらしい。                


 パソコンは無くても自分のアドレスがあるから、メールの交換も盛んにしているようだ。日本の友達もたくさんいるといわれビックリだ。        


 「先生QQをしますか」と聞かれ「何ですかそれ」というと、カメラ付のパソコンで相手の顔を見ながら会話をするらしい。日本の若者とも盛んにしているという。「日本語の勉強、日本のことを知るのにとてもいいよ」という。                


 一度学生に誘われて「ワンパー」なるインターネットカフェイに行って見たが、若者で大賑わいだった。いずれもヘッドホーンを付けてゲームに熱中していた。若い女性も多い。大学の近くだから学生なのかもしれないが、真昼間から満員だ。不思議な雰囲気を感じる。                      

 パソコンを持っていなくても彼らの技能は相当なものだと思った。私も日本に帰ったら「QQ」なるものをして見ようかと思う。世界中の友達と「顔を見ながら会話」が出来れば、それは面白いなと思う。もっとも彼らはイケメン狙いだから、いきなり爺が顔を出したら即却下だな。良し悪しか。          


 しかし中国にできたたくさんの教え子達と「QQ」ができればそれは楽しいことに違いない。彼らは卒業後中国各地に散らばるから、その意味でも何か新しい世界が広がるかもしれない。

2006/11/03

中国の床屋へ


9月22日(金)
 今日は、中国に来て初めての床屋だ。李行さんにお願いして一緒に行ってもらう。床屋は彼女がいつも利用する「美容院」だった。五一路の繁華街の一角にある。客は若い女性ばかりで戸惑う。         

 彼女もどこに行けばいいのか分からないから、困った挙句にいつもの店に相談したのかも知れない。「中国は男女一緒」だと彼女はいうが本当かと疑問を持つ。腕は大丈夫かと思う。しかし入ったからにはまな板の鯉になるしかないと決める。         


 すぐ洗髪専用の椅子に座らされ、仰向けに寝かされる。頭の部分に先発用の流しがあり洗髪される。変な気分だ。洗髪はいわゆる理容師ではなく洗髪専門の小姐だ。何やら話しているが聞いても分からない。どうも私の襟のところに水がかかっているから注意してと彼女が言ったらしい。細かい気遣いに感心する。次は散髪の椅子に移動する。女性ばかりで目のやり場に困
る。                      


 若い男の理容師(かどうか?)が来た。あらかじめ用意したメモと髪型を書いた紙を渡す。彼女と話して散髪開始。初めから最後までバリカンだった。器用に仕上げていく。私は近眼だから鏡がよく見えない。 


私のいつも行く日本の床屋は大将が私専門でやってくれる。最初バリカンだが仕上げは鋏を使う。経験と勘がなす業ですばらしい。日本でも若い理容師は刈り上げ・短髪のスポーツ刈を鋏で仕上げるのは苦手らしいと聞いたことがある。               

どう仕上げたのか、やがて作業が終わり、メガネを掛けて仕上がりを見る。やや頭の上の左右が張り出していたので修正をお願いした。もちろん彼女が通訳だ。通訳を伴って床屋さんに行くとは貴重な経験だなと思う。                      


 彼女は「襟のところを剃って」とかあれこれ注文をつけていた。ありがたい。いわゆる髭剃りはない。やや不満だが仕方が無い。              

 どうも男専門のいわゆる「理容院」もあるらしい。そこへ行けばいいのに彼女の苦労が伺える。ありがたいと思う。                   


 それにしても全部バリカンで仕上げるとは恐れ入った。仕上げもなかなかだ。文句なし。料金は22元(330円)だった。日本の十分の一だ。      

 帰り、お礼に五一路のレストランで海鮮料理を食べた。「盛記海鮮酒楼」という高級餐庁だ。上海蟹のような蟹と桂魚、キクイモのスープ、野菜料理、ビールにジュース。魚はコックが生きた魚を最初に見せに来た。鮮度を確認させるためらしい。面白い。蟹も魚もすこぶる美味しかった。食事代は200元(3200円)。大奮発となったが楽しい一日だった。

2006/11/02

一人バス乗り挑戦


9月20日(水)
 今日は一人でバスに乗る。そうそう学生に甘えてばかりではいけないと安全なルートで挑戦だ。湘江沿いの広い直線道路をただ乗るだけと高をくくって乗り込む。どこまで乗っても1元だ。簡単。        


 5つ目のバス停で降りると確認して乗る。用意周到。バスは走り出した。一つ目、二つ目・・・バスの車内案内が聞こえる。「・・倒了」は分かるが駅名は聞き取れない。しかも乗降客がいないと通過してしまうことがわかった。だんだん不安になる。日本のように、降りることを知らせるボタンも無いことが判明。   

 どうして運転手に知らせるのか。隣のおばちゃんに「下車、下車」と中国語で言ってみるが、返ってくる言葉が分からない。5つ目のバス停のはずだ。焦る。と一人の杖をついた老人が立ち上がった。降り口に黙って立つ。バスは止まった。どうして?。老人に促されて先に降りる。「謝謝」という。ほっとしたが、何がなんだかさっぱり分からないまま降りてしまった。 


 後で教えてもらったが、まず駅が近づいたら大声で「停車停車」と叫ぶか降車口に立つこと。運転手はそれを見聞きして停車するという。バス停でなくても途中で止まるというから驚きだ。          


 それにしても、いまどき大声で叫んで知らせるとは・・・うら若い女性でも降車の時は鬼のごとくに叫ぶのか。満員だったらどうなるのか。・・・「異文化なり」。                     

 その後何度もバスに乗るようになるが、いまだに声を張り上げることには抵抗があるので私はいつも運転手の近くに立つことにしている。そして小声で「停車」と告げて前から下りることにしている。     

 降りたところは以前に李行さん、ピ君の3人でマッサージに行った付近のバス停だ。そこは湘江に架かる第一橋といわれ、美しい橋だ。            

 そのたもと付近は憩いの公園のようで、水曜日だというのにおびただしい人々が集まっていた。歌を披露して金を稼ぐ人、楽器を演奏してやはり金を稼ぐ人、マージャン・将棋・トランプはお決まり。いたるところで熱戦が展開されている。男も女も無い。見物人から、散歩人からてんやわんやの人だかり。初めて見る光景に軽いめまいを覚えるほどだった。      


 帰りは不安に駆られ、散歩を兼ねて30分の道のりを歩いて帰ることになってしまった。情けない。しかし愉快な一日だった。

2006/11/02

中国のうどん


9月19日(火)
 午前の授業が終わり、昼食は李行さんとピ君3人で中国うどん(面条)と小チー(もち米饅頭)を食べる。


 「うどん」といっても小麦粉と米粉がある。日本的なうどんは米粉のほうである。辛味を抜いて野菜がたっぷり入った美味しいうどんだった。例によって彼らはテーブル上においてある唐辛子をふんだんにかけて食べる。どういう舌をしているのかと思う。    


 夜はピ君と食べる約束をした。学生達の細やかな心遣いに感謝。午後女子学生が3人宿舎に遊びに来た。日本茶と茶菓子を振舞う。素直で明るい学生達にしばし時の経つのを忘れる。

2006/11/02

9・18


9月18日(月)
 今日は「9・18」。中国にとっては特別な日だ。1931年9月18日、当時日本の関東軍は満州の支配を強めようと、満州鉄道を爆破し、中国軍の仕業として謀略を凝らし、ついに満州事変(中日戦争)が始まった日だ。


以後1945年8月まで、両国民にとって15年にわたる悲惨な戦争が展開された。中国にとっては当時列強とされた勢力への強烈な抵抗戦争の開始でもある。


 日本は1932年に「満州国」を建国し、やがて国際連盟をも脱退し国際社会の中で孤立化の道を進み、軍国主義国家への道を突き進むことになる。事実を拭い去ることは出来ないが、二度と有ってはならない「不戦の記念日」でもあろう。          


 今日のテレビは、このニュースと、これをもとにあらたに作られた映画の宣伝が多かった。見てみたい気もするがどこで観られるのかわからない。一方で九州を襲った台風被害のニュースも流していた。    


 ここ湖南省は毛沢東の出身地であり、また日本軍との歴戦の地でもある。少々のことは覚悟しているが、今のところ全くというほどそれを感じたことは無い。一度だけ、学生とバス停で話をしていたら、隣のおばさんが寄ってきて話しかけられた。「日本は謝らないね」と。学生がニコニコしながら通訳してくれた。私は「それは政治家の話。私は痛みを感じていますよ」と答えた。学生が通訳して伝えると、おばさんは何も言わなかった。                  


 大学付近の食堂や買い物には毎日出かけるが、そのような目で見られていると感じたことは無い。むしろにこやかで愛想がいい。私もヘンな中国語を使って元気に話しかけるからむしろ人気者かとも思う。とても親切でうれしく思っている。人間の心は万国共通だなと思うくらいだ。学生達も実に素直で健康的ですばらしい。                      

 午後、一人で古刹「開福寺」に行って見た。長沙大学から歩いて4、50分。散歩にちょうどいい。湘江の川べりに沿う大通りをひたすら歩く。


 気分爽快だ。はるか向こうに湘江に架かる第二橋が霞んで見える。開福寺はその近くにあるはずだ。奥深く木立に囲まれた名刹を想像したが、いきなり道路に独特の塀をめぐらせた寺が現れた。しかし雰囲気は十分。5元払って入る。実は自分一人でお金をお払うことは初めてだ。こんなことにもドキドキして感動する自分がおかしい。                


 月曜日の午後で閑散として静かだ。開福寺は禅宗の尼寺だった。剃髪しているから僧侶の男女の区別がつかなかったのだ。午後4時、読経が始まって初めて気がついた。大勢の修行僧の読経が始まる。男とトーンが違うので聞き入った。静かに読経が続く。夕暮れも近づいてきたので寺を後にした。         


 帰りは雑踏の街中を歩いて帰ったが、人の多さとほこりっぽさに現実の中国を感じる。まだ昼間だというのに、軒先や木の下ではあちこちでマージャンやトランプ、将棋に余念が無い。それを観戦するギャラリーもにぎやかだ。特にトランプは大声で勝負に挑む。日本人には喧嘩腰に思える。迫力がすごい。仕事はどうなっているのかと思うが、それは「異文化」だ。

2006/11/01

教員休職・復職学生


9月17日(日)
 毎日の日課、今日も湘江に出かける。学生の黄君に会う。私のクラスではないが、実に気軽に話しかけてくれる。うれしい。二人で散歩だ。        


 彼の話を聞くと、彼は妻子もちで、中学校の数学の先生という。驚きだ。年は35、6歳に見える落ち着いた人だ。                    

 彼は広西壮族自治区の桂林の出身だという。「どうして先生辞めて来たのか」と詰問調になる。彼はにこやかに、「やめてはいません。ここの勉強したら帰ってまた先生をします」という。休職してわざわざ長沙に来たのだ。                   

 彼は「日本語は興味があります」という。納得がいかない。しかし桂林は日本人観光客が大勢訪れるから、そのきっかけになったのかとも思った。     

 それにしても学校を休職してまた復職出来る・・。日本ではそうゆう理由では通らない。中国も粋だね。このようなことが日本で出来たら、もっといい教員が集まるだろうと思った。形にこだわる日本の教育では望みは無いが。国際感覚を持った教員は必ず教育現場で生徒達に反映されると確信すしているのだが。

2006/10/31

岳麓山ハイキング


9月16日(土)
 今日は岳麓山へ学生達とハイキングに出かけた。正式には「岳麓山風景名勝区」という市民憩いの公園だ。                      


 学生9人と野村先生、私の11人だ。私の担当するクラスの学生が一人もいなかったのは少々さびしくも思ったが、後で知ったことに呼びかけが徹底しなかったようだ。学生達の底抜けに明るい声に押されてバスに乗る。                    


 実は長沙に来て初めてのバス乗りだ。興味深い。バス賃1元(15円)。かなり使い込んだバスで、しかも運転はかなり荒っぽい。歩行者ももタクシーも、自家用車もみんな自分中心だから交通ルールもあって無しが如し。ブレーキはしょっちゅう踏まれるから、乗客はいつも踏ん張っていなければならない。座席はプラスチックで硬い。腰がすべり出すからいつも取っ手をしっかり握って自己防衛だ。乗客は当たり前のことのように平然としている。            


 程なく橘子州大橋(第一橋)を渡る。大河、湘江を始めて渡る。感動だ。ここ岳麓山は湘江をはさんで市街地の対岸に広がる景勝地なのだ。山麓には大学が集中し、学生であふれかえっている。町並みも新しく、プラタナスの街路樹がどこまでも続くお洒落な町だった。湖南師範大学、湖南大学、中南大学と続く。いずれも赤い布に誇らしげにスローガンや歓迎の横断幕を掲げ、新学期を迎えた雰囲気を演出している。足早に歩く学生の姿は、現在の中国の意気込みそのものだ。肩を丸め、だらだらと歩くことをよしとする日本の大学生とは大違いだ。日中の違いは何なのかフッと思いをめぐらす。                  


 バスを降り、登山道入り口に向かって歩き出した。湖南大学のフエンス沿いにゆるい坂道を上る。と、ものすごい光景が目に飛び込んできた。何と新入学生の軍事訓練だ。はるか学舎が霞むほど広大なグランドを埋め尽くすほどの学生が訓練を繰り広げていた。もちろん私には経験は無い。男子はもちろん、女子学生も全員だ。全員が濃緑色の軍服に身を包み集団行動訓練だ。期間は分からないが相当長く続くらしい。「私もしましたよ。厳しかったですよ。」と同行した女子学生が笑いながら、しかしどこか誇らしげに言う。もちろん、急迫した戦争があるわけではないが、正直戸惑いを感じたことは事実だ。しかし全身に力をみなぎらせて歩行する光景に中国の底知れぬパワーを見た思いがした。                     

程なく登山道の入り口にかかる。そこにはまたまたすごいものが目に入ってきた。毛沢東の巨像だ。湖南省は中国革命の拠点として、数々の革命家を輩出したことで知られる。                    

 カルチャーショックを感じつついよいよ岳麓山に入る。入園料を払い、楽しいハイキングが続く。かわるがわる学生が話しかけてくる。日本語の学習に熱心だ。                       

 あせばむほどの暑さだが緑の登山道はすがすがしい。途中の休憩地で三度目の衝撃が襲う。何と日中戦争で中国奥深く侵攻した日本軍に勇敢に戦い戦死した軍人や民衆の戦功を讃える大きな石碑が建っていた。かなりのハイカーが石碑を読んだり、語り合ったりしている。一日本人として緊張感と胸の高鳴りを覚える。                      


 1931年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満州事変(中日戦争)が勃発し日中全面戦争となる。以後15年にわたって悲惨な戦争が続いたが、その爪あ
とはここ長沙にも実は色濃く残されている。別の烈士公園には、日本軍に抵抗して戦死した戦士(烈士)が顔写真入で讃えられている。学生達は私の胸の痛みを察したか、そのことに何も触れ無かった。      

 ハイキングは続く。休憩場所には大抵巨像があり、革命に活躍した郷土の英雄達が胸を張る。学生達はいろいろなおやつを持ってきて、「先生どうぞ、どうぞ」と勧める。向日葵や南瓜のの種を器用に歯で割って食べる。私も教えてもらいながら食べて見るが、
噛み砕いてしまいうまくいかない。学生達は「涼しげな目」を向けて私の様子を見ながら笑っている。  


 頂上だ。243メートル。眼下に毎日散歩する湘江が涛涛と流れる。115万市民の長沙の町も一望だ。昼食は山麓の学生街で食べることになっているようで、私達は一気に降りた。学生達であふれ帰る町の一角で昼食。激辛湖南料理を覚悟したが、私達にも配慮して食べやすく美味しかった。ビール3本飲んですべて割り勘でいいという。一人15元、200円ちょっとだ。安い。                  


 帰りは中南大学にも寄り広大なキャンパスで遊んだりしたので少し遅くなった。私が「タクシーで帰ろう。私が払いますから」と言ってみたが、学生達は「私達は学生だからバスで帰ります」と同意しない。結局私の面倒を見てくれる李さんとピさん、野村先生と私の4人でタクシーで帰ることになった。    


 一日歩いて疲れただろうに、この律儀さはどこからくるのか。そういえば、彼らはハイキング中ゴミはまったく捨てなかった。楽しいハイキングだったが、カルチャーショックも多く、思い出になる一日だった。

2006/10/28

二日酔い


9月13日(水)
 昨夜は講師の先生方と学生達合計8人で繁華街に繰り出し、また鍋料理で盛り上がってしまった。少々飲みすぎて今日の授業の調子が出ない。教室には見慣れぬ学生が二人ニコニコしながら座っている。たずねると「先生の授業を聞きに来ました」という。日本では考えられないことで戸惑う。授業の空き時間だというから許可した。なかなかめずらしいことで笑ってしまう。                      


 午後湘江に散歩に出かけたが、途中小学校の下校風景に遭遇した。日本へのお土産話にもなるかと見学を決め込む。興味深い。まず、校門の付近には保護者と思しき出迎えの人々であふれかえっている。子供達はなかなか出てこないが根気よく待っている。思えば中国は一人っ子政策が取られているから、どの子も文字通り「小宝宝」(子供のことを意味する)だ。先生方の見送りを受けて、小さい学年から飛び出してきた。出迎えはどうも爺ちゃん婆ちゃんの仕事のようだ。孫は爺ちゃんに飛びつく子から無視して走りぬける子などさまざまだ。とりわけ珍しい光景ではない。   


 面白かったのは、校門の脇に(学校の敷地と思う)塾の大きな看板が堂々と掲げられていることだった。能力別だとか、本物の英国人だとか書いてある。授業料も相当高いように思った。中国は小学生から進学競争が激しいと聞く。ここ長沙大学も土日は中学生であふれかえるが、どうしてと聞くと、地元の中学生が塾に来るという。大学が塾に開放される。「う〜ん異文化」。

2006/10/28

鹿児島から帰った鄭さん


9月11日(月)
 今日も寒い一日だった。少々風邪気味で、日本から持ってきた薬を飲む。学生から、明日町に出て食事をしましょうと誘いを受ける。快諾。         

 午後、鹿児島大学留学を終えて長沙に帰って来られた鄭さんから電話があり、彼と学校で会うことになった。楽しみに待つ事彼は1時間半も遅れてやってきた。事情があったか、時間を間違えたか不明だが、悪びれる事も無く元気に再会だ。日本では考えられないことだが、そこはおおらかに構える。鹿児島で大石先生の紹介で、彼の奥さんとともにお会いし、長沙での


 彼はこれから長沙の大学で就職活動をするとか。専門は食品化学で、これからの中国にとってとても大切な研究分野と思う。今後の活躍を祈る。      

 
 学生の李行さんとピ君を紹介。特に李行さんは留学に興味があるのか、熱心に日本の大学のことを聞いていた。野村先生のお腹が心配だ。

2006/10/26

初鍋


9月10日(日)
 今日、昼食はピ君と「快餐」(早くできるという意味か)なる店で、粥と餃子を食べる。粥は豆の入った粥でおいしかった。しかし餃子は油が多くいまいち。中国の焼き餃子は日本人にはなじまない。     


 中国東北地方の蒸し餃子はおいしいというが、学校に近くに幸い「東北餃子店」なる店があり、大変おいしいと後で知る。                


 午後、李行さんがパソコンの調子を見てくれる。大学では情報学科に学んだというから心強い。夜はピ君と3人で鍋料理を食べることになっており、しばらく宿舎で日本語と中国語のレッスンをすることにした。日常会話のフレーズをお互い日本語と中後で言う寸法だ。間違えば当然厳しく指導。しかしどうも私のほうが劣勢だ。簡単な日本語は彼女は完璧だから。少々助詞が狂う程度で張り合いが無い。私はいちいち間違い、単語も出ない始末で、どうしても彼女が「老師」になってしまう。しかし楽しいひと時だった。   


 夜は長沙一の繁華街「五一路」に出て角の店の2階に上がる。とんでもない広さだ。日本の百貨店のワンフロアーが全部鍋屋という感じだ。向こうが霞んで見える。それが満員だからすごい。                                     
大変人気の店らしい。ピ君は座席探しに奔走。汗だくで待つ私達を呼びに来た。着席すると店員がやってくる。長い時間を掛けて品を注文する。私はさっぱり分からないから、ただ「ビールビール」と中国語で叫ぶ。「はい分かりました先生」とピ君が律儀に答える。                       

 鍋に火がつく。丸い鍋の真ん中が区切ってある。二人の配慮と後で知る。程なく鍋ネタがワゴン車に載ってやって来た。野菜・肉・魚・練り物など、おびただしい品数だ。食べられるのかと心配する。通路は売り子が引っ切り無しに他のネタやフルーツを売って歩く。飲み物持込は禁止で、隣の若者達と店員がもめていた。どうも持ち込み料を請求されているようだ。 


 二人は仕切られた鍋の両方に手際よくネタを放り込む。中国人の最近の流行は鍋料理とか。大変な客だ。よくこれだけの客を裁けるなと感心するとともに、裏方の勝手場を心配してしまう。「大雑把」なことをしてないかと。                   

 客達のパワーに圧倒されながら食事が始まる。「こちらは辛いから、先生はそちらでどうぞ」と勧める。まず、ビールで乾杯!。どのくらい辛いのか。学生の鍋の方をつまんでみる。・・・・」とんでもない辛さだ。私はしきりに「健康に悪い」と言うのだが、二人はニコニコしながら平然とうまそうに食べる。私の方へは箸すらつけない。鍋の仕切りがまるで万里の長城に思える。                   


 味は結構美味しかった。二人の「私専用鍋」の配慮に感謝。日本の繊細な、ゆっくりと味わう鍋料理の作法はここには無い。テーブルの上に置かれた鍋の具をひたすら食べるという感じだ。しかし二人はよく食べる。すごいの一言だ。これが現代中国人のパワーだ。辛味と油がぎらぎらしている鍋だ。「う〜ん異文」。


 もうひとつ。食べかすは躊躇無くテーブル上に落とされる。通路にもだ。タバコの吸殻も当然床に。掃除のおばちゃんが絶えず食べかすを集めて回る。「う〜ん、これも異文化なり」。            


 ほとんど残らず食べつくし回家!。タクシーでピ君と帰る。すごい晩飯だった。

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