永谷元宏の「長沙日語学院 友好の輪
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福島顕二郎の長沙教師録〜未来への道が完成(文字クリック)

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長沙日語教師録  
「コメント」



  
     

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2007/03/07

異文化体験?


 今日の授業は日本人が会話でよく使う「〜んです。」「〜んですか。」をした。
分かりやすく理論的?に説明したつもりだが、彼らがどれだけ理解したか少々疑問だ。
今週の土曜日、朝8時から学生たちと散歩をしながら「〜んです」と「〜んですか」を使った会話をしながら歩くことになった。学生が欠伸をしたら「眠たいんですか」、いやいや歩いているように見えたら「疲れたんですか」と聞くつもりだ。遊びながらこの「〜んです」「〜んですか」を彼らに定着させたい。 どこまでできるか・・・。
 
昨晩、学生たちが部屋を訪ねてきた。当然、日本語の会話が多いが、小生は中国語を教えて欲しいので時々彼らを先生にして中国語を話すが、小生が発音すると全員がすぐに訂正してくれる。何回聞いて、何回発音しても小生の発音は合格しない。中国語の発音は難しい。
 
今日、長沙に来て初めて理髪店(長沙では美容院と書いてあった)に行った。五つ星の美容院だった。聞けば上海が本店のチェーン店だそうだ。大きな店だ。美容院にも5つ星があるのにはびっくりした。(日本にもあるかもしれないが、行った事がないので知らない。) 洗髪やマッサージを受けながら小姐と片言の中国語で話をしたが半分くらいしか通じなかった。まあ、小生の中国語はこの程度だ。
 
銀行に行った時もびっくりした事がある。カウンター内の女子行員に対し、客が「満足。普通、不満」を意思表示(客の前にボタンがあり、その3分類のひとつを押すシステム)し行員が1つ星〜5つ星までの5段階に分けられるのだ。小生の相手をした行員は2つ星だった。このシステムがあるのに行員の態度は・・・と思った。

 今日も幾つかの異文化体験をした。楽しかった。

2007/03/04

はじめてのメッセージ


2月27日に長沙に着き、やっとインターネットが接続できました。
小生の持って来たパソコンはなぜか我が部屋からは使用できず、さあ大変。副校長のパソコンを借用することになった。セットは学生に依頼。学生は長時間かけて小生が使えるようにセットし説明してくれた。ありがとう許くん。
 
この2、3日許君と李さんが小生の相手をしてくれた。「先生なにか困っていることはありませんか。遊びに行きたいところはありませんか。食べたいものはありませんか・・・。」いろいろと気を使ってくれる。ありがたい。おかげで知らないところでも困ることは何もない。
 小生がいままで食事を作った事がないと分かると先生方が交代で作ってくれるんだって。「牧野先生は辛いものはだめですよね」と言いながら小生の味、量にあった食事を作っていただいて、これにも感謝、感謝です。
 長沙に来てよかったと、心底感じています。

授業は明日(3月5日)から開始。待ち遠しい。早くすべての学生に会いたい。どんな授業ができるやら、学生の反応は?どれもこれも楽しみです。

さあ、いよいよ明日からが本格的なスタートです

2006/11/28

あっぱれ小李!


10月2日(月)凰風
 張家界から列車、チャーター車(ハイエース)と乗り継ぎ、ここ凰風(ホンホアン)に着いたのは夜の9時半だった。鉄道駅・吉首から凰風間までは1時間半ぐらいかかる。


中国の夜道は暗い。行きかう車も少ない。真っ暗な並木道をひたすら走った。トヨタのハイエースは長沙でもよく見かける人気車だ。私も日本で愛用しているので懐かしい。それにしても今日はハードな1日だった。野村先生が風邪気味でへばり気味なのが気にかかる。


夜の凰風は言葉に表せないほどノスタルチックな町だった。猫族(ミャオ)の町、二度と訪れることの無い異国情緒たっぷりの町だ。川べりには木造の瀟洒な旅館が果てしなく続く。入り組んだ路地をガイドに案内されてひとまず旅館に入る。

              夏の凰風は若者の町だった。青年男女であふれかえっている。反対側の川べりには無数の土産物屋や食堂が立ち並び、否が応でも私の心を高ぶらせる。   


 私の部屋は木造の3階だった。ベランダに出てみると赤や黄色のネオンや赤いちょうちんがきらきらと川面に浮かび、夜風が気持ちよさそうに川筋の柳を揺らしていた。                   


 ほどなく野村・李行さんがやってき3人でしばし夜の凰風を眺めた。湖南省のしかもこんな奥深くにこんなにすばらしい町があるのかと、言葉も出ないほど美しい町だった。明日が楽しみだ。         


 夕食には遅すぎる時間だが私達は食事に出ることにした。もちろん車は通れない狭い路地がくねくねと続く。こんな時間だが路地は人でいっぱいだった。  


 ガイドの勧める食堂に入る。新鮮な魚が食べたいと言うと、李行さんはナマズを注文したようだ。大皿に尻尾がはみ出しそうな巨大ナマズだった。子供の頃、魚つかみには憧れの魚だったが今日まで食べたことは無い。彼女は「美味しいよ」と笑う。野菜料理にナマズ料理だ。用心しながら一口つまんでみる・・・・。美味しいのだこれが。ぷりぷりした肉感と皮のぬるりとした食感がいかにも栄養たっぷりを思わせる。ビールで乾杯!。ハードな一日に会話の花が咲く。   


 そして、ほどなく二胡の流しのお兄ちゃんが入ってきた。哀愁漂う二胡の音色に酔いしれる。思わず10元を差し出す。するとお兄ちゃんは私の隣に座って演奏しだした。サービスに3曲演奏するという。他の客も会話を止める。店の店員達も聞き入る。至福のひと時だった。                   


 余韻に浸って帰ろうと飯代を払おうとした。すると李行さんが突然大声を張り上げた。何事か。料金は115元(1700円ほど)だった。3人で名物料理、凰風の生きた大ナマズ料理、野菜2皿、ビールにご飯だ。一人600円弱。日本人の感覚ならまだ安いと思うだろう。しかも夏の凰風は観光客の押し寄せる絶好のかきいれどきだ。                

 李行さんの顔に似合わない粘りの交渉が続く。店の主人も出てきて交渉だ。中国語の会話だから分からない。李行さんは100元渡すと一歩も引かないのだ。若い女店員が主人に報告する。あきらめたようだ。100元でケリ!。・・・。            


 あとで聞いたが、「最初に値段を言わなかったから、向こうの間違いだ。ナマズが100元とは聞いていない」というのだ。高すぎると。「長沙にもナマズ料理がある。比較して高すぎる。値段も聞いていない。だから私はナマズを80元にした。」と。う〜んあっぱれ!李行さん。「君はすばらしい奥さんになる」と褒めた。                 


 実はこれも後で聞いた話だが、李行さんにはもうひとつ密かな怒りがあったという。それはガイドのことだ。どうも凰風のガイドは月給1000元の他に案内する店で客が買い物をすると、ちゃっかりバックマージンを要求しているというのだ。だからその分安くさせたと。・・・またまたそのしっかりぶりに感服だ。「小李!、君は何とすばらしい娘か。聡明聡明!」と叫んでしまった。

2006/11/26

張家界3日目と列車


10月2日(月)
 今日は3日目。今日も登山だ。前日の疲れが残る。帰りは再びあのきつい石段をを下りるのかと思うと萎える気分だ。                   

 9時半出発。登山バスを降りて2時間の登りだ。中国第一の森林公園という。李行さんお勧めのハイキングコースだ。                  


 ここ張家界は様々な登山コースがあり、全山を回るとすれば一週間でも周れないという。総面積369平方キロというから、約20キロ四方の一大山岳公園だ。                      


 年中ほこりと霞に曇る長沙と違い全コース石畳の森林浴にふさわしい懐深いすばらしいハイキングコースだった。途中の休憩所では美しく着飾った土族の娘達が笑顔で迎えてくれる。一緒に写真を撮れと商魂たくましい。                    


 2時間のコースは終わったが、今度はロープウエイで山頂へ。昨日の逆のビューポイントだという。ガイドがどうしても見せたいという。昨日はあちらから見たと指をさすが、私には昨日も今日も同じ景色に見える。ロープウエイは大混雑で、乗るのに1時間も待たされた。結局山頂での昼食は午後2時ごろとなってしまい大幅な日程の遅れとなってしまった。     


 全山禁煙!。きつい。休憩所まで禁煙を強いられる。私が「吸煙吸煙」いうとガイドが笑っていた。しかし遅れが幸いして下山もロープウエイとなった。ありがたい。                   


 到着駅にワゴン車が待っていた。みやげ物を買う時間も無く、車は張家界駅に向けて突っ走る。列車は5時30分だ。1時間半、猛スピードで何とか間に合う。                      


 いよいよ待望の中国鉄道だ。機関車の写真を撮る暇も無く列車に飛び乗る。指定席だが、後で分かるが皆必死に走る。どうして?と思うが流れに逆らえない。それに中国では勝手にホームに出ることは出来ないのだ。アナウンスがあるまで、待合室で待つ。すごい人数だ。大きな荷物、たくさんの人々。怖さを覚えるほどだ。「スリ」「置き引き」に注意だ。      


 アナウンスがあると待合室の扉が恭しく開く。すると皆一斉に走り階段を駆け上る。大変な光景だ。超長大な列車らしく、私達の車両ははるか遠くだった。疲れ果てて、相当落差のある車両にどっこいしょと乗る。                      


 やれやれだ。一息ついて周りを見渡すと、何と座席は無論のこと、車中人で満員ではないか。トイレもいけないほどの混雑だ。李行さんに聞く。「これ指定席車両でしょ。どうして」と。李行さんは笑うばかりだ。                      


 私達の席は3人掛け。前の人は4人座っていた。反対側は2人掛けサイズだ。斜め前の席には、2人が座っていたが、一人は子供を抱えた女性であった。  


 列車は走り出す。わくわくする。まだ夕方で外の景色が見える。農村の光景が見える。夕方だからか、うら寂しいような荒漠たる光景が見えた。      


 まもなくすると若い綺麗な女性が人を掻き分けやってきた。自分の座席を探す。何と子供を抱えた女性の席だ。当然立ち上がると思ったが、何と女性は一笑
してそのままだ。若い女性は文句も言わず立ったままだ。しばらくして、さすがに悪いと思ったか、子供を抱えたままわずかに窓側に詰め寄った。窓側の男性も文句を言わない。15センチほどあけて、その女性に座れという。女性は何か小声で言って15センチの席にわずかに腰を乗せる。「これはすごい。油断ならない」と構える。                 


 満員なのにタバコは吸い放題。皆盛んに何かを食べ出す。そんなところに車内販売が来る。重労働だろう。食べかすは窓からポイポイ・・。通路はあっという間にゴミだらけだ。中国の列車は「一応指定席はある」ということにしておこう。うーん異文化。

2006/11/26

張家界登山一日目


10月1日(日)
 今日は本格的な登山だ。毎日学校の周りを歩いているから大丈夫と気合を入れる。          


6時半起床。ホテルの周りをジョギングする。朝食はバイキングだが、上海のホテルと比べると随分落ち世界遺産張家界の五ツ星級ホテルといえどもここは湖南省の最果て、まだまだの地方文化の強い少数民族の地だ。                      


 ガイドによると今日は登山6時間コースという。若い頃なら健脚で鳴らしたこの脚、「屁」とも思わないことだが今はこの齢、不安が走る。        


 チャーター車のお出迎え、山岳専用のバスで入山口へ。ギネスに載ったという高層エレベーターで一気に上がる。                    


 奇岩変岩の連続だ。NHKの特集でここを中心に活躍する地元の画家の墨絵のドキメンタリーを思い出した。見事だ。一見の価値十分だ。


 それにしても、ここまで来てこの人の多さ。ビューポイントにはほとんど入れない。皆写真を撮るからなおさら人が渋滞する。写真を撮る彼らは隣の人を追い払う。周りに人がいないことを装いたいらしい。日本では考えられないね。韓国人がやたらと多いのも特徴らしい。直行便があるらしい。日本人は一組くらい見たように思う。                  

 昼食は、山頂の小屋で「トマト・たまごスープ」「鶏肉豆野菜の炒め物」「ジャガイモの炒め物」「豚肉野菜の煮物」「ご飯」だった。幾らか知らないが、李行さんが気を利かせてくれて辛くなく美味しかった。ガイドも一緒に食べようといったが彼は遠慮して食べなかった。律儀な人だ。           


 張家界は同じ湖南省にある観光地だが、ここ省都長沙から400キロも離れているのだ。400キロといえば東京から大阪付近まで行ってしまう距離だ。湖南省自体21万平方キロ、人口6500万人というとんでもない大きな省なのだ。日本が37万平方キロ、人口1,3億人として考えてもらいたい。そんな遠距離を今私達は訪れているのだ。中国は広い。     


 様々な石峰やそれにへばりつく松の木々、秋は美しいであろう紅葉の木々など壮観だ。ただしこのおびただしい人の数が・・。「国慶節は民族大移動」を思い出す。これも貴重な経験だなと納得する。     


 特に下山は大変だった。標高1100メートルほどの山だが、私達は下山道全ての距離を歩いて降りた。さすがに最後は「ひざが笑ったね」。明日も又登山だと思うと大丈夫かと案じた。           


 下山道全てが石の階段なのだ。タイミングよく「かごや」が声を掛ける。人の歩き方を見て声を掛ける。ここで乗っては「一生の恥」と意地でも乗らないことにする。幸い野村先生が疲労の極に達している模様で、若い李行さんもダウン寸前の様子。彼女は歩き方を知らないので、休んでは一気に階段を駆け下りるから余計に疲れる。注意しても体がいうことをきかないらしい。だから私はまだ気楽に自分のペースで降りられる。ガイドはさすがにあきらめたか、安全を確認するとさっさと降りていく。ガイドの待つところまで行くと「さあ行きましょうか」とくる。テンポが合わないのだ。最悪。          
途中でたまらず高いみかんを買う。その美味しいこと。まさに「蜜の味」がした。          


 ホテルに帰った後、食後に3人でホテル内にある按摩にいさんで出かけたが、どうも変な雰囲気だったので止めることにした。女主人らしき人が李行さんに「どうして帰るのか」と聞いたようだが、嫌なものは嫌だ。

2006/11/26

旅行代金


9月30日(土)
 今回の旅行費用は一人当たり概算4万円弱。内容を紹介しよう。日本では絶対考えられない安さだ。  


 3泊5日。最後の一泊は夜行寝台列車だ。ホテルは五ツ星級ホテル2泊。凰風では遊覧船の行きかう美しい川べりや街並みが一望できる絶好のロケーションに位置する瀟洒な木造の旅館に1泊。二階のベランダから、彼女が入れてくれたコーヒーを飲みながら3人で至福のひと時をすごした。            


 行きは6時間あまりのバスだったが、ガイドの質の良さは日本と比べようも無い。張家界に着いた午後から3日目の午後5時ごろまで山岳専門のガイド付き(タフで物静かな親切な中年の男性だった)。ホテルから登山道の入り口まで毎日専用のワゴン車が送迎してくれる。鍾乳洞、登山入山料、ギネスに載ったという長いエレベーターや何回も乗るロープウエイ代、全ての食事代、張家界駅から凰風までの列車代(軟座指定席)、吉首駅から凰風へは夜の真っ暗な道を猛烈なスピードで1時間半もかかる距離だが、これもチャーター車で、ガイド付き(2日目も)。遊覧船代、食事代、ガイド代、最後は待望の夜行寝台列車。何もかも含んで4万円弱。日本でこんな旅行をしたら・・計算できないがおそらく一人20万円はかかるだろうと見る。そんな超贅沢な旅行をしてしまったのだ。   


 今日は朝8時、長沙駅のバスターミナルから世界遺産、張家界(チャンチャーチエ)に向かう。ハイウエイをひたすら走る。張家界市は市街地と山岳入り口付近の街並みとはずいぶん様子が違う。ホテル周辺から入山地点までは観光化されたお洒落なホテルや売店が続く。10年先には「東洋のスイス」のような観光都市になるかもしれない。             


 この日最初に訪れたのは鍾乳洞だった。スケールの大きさを期待したが、特記するようなものではなかった。アップダウンがきつく、健脚で無いと辛い。ただ鍾乳洞を案内するガイドは地元「土族」の娘で、それはそれは美しい娘だったと記しておこう。民族衣装も言葉にならないほど美しい。           

 夜は奮発して土族の舞踊や歌を見に行った。これも写真で紹介しよう

2006/11/25

旅行準備と飲茶店


9月29日(金)
 いよいよ中国版ゴールデンウイークだ。私の場合10日間も続く。今年は珍しく国慶節と中秋節が重なり長期の連休となった。日本でも「中国の民族大移動」とか何とかニュースが流れているのではないか。

せっかくの機会だからと4泊(車中泊1泊)5日の大旅行をすることにした。野村先生と私、通訳兼ガイド役をお願いした学生の李行さんと3人で、湖南省の世界遺産「張家界」と猫族の町「凰風」を訪れることにした。


 もちろん李行さんたってのお勧めだ。もちろん中国でも超有名な観光スポットだ。行きはバスだが、帰りは夜行寝台車に乗る。中国で夜行寝台車に乗るのは初めてだし、行く前から感激している。       


 旅行の計画から旅行社の手配まで全て李行さんがしてくれた。李行さんの親身の親切に心から感謝だ。今日は旅行準備と旅行社への支払いを済ませる。明日から出発だ。                   


 支払いを済ませた後、李行さんと街中の「中国茶館」なるところに入ってみた。中国茶の「本格的な飲茶」を期待して興味津々。落ち着いた雰囲気に期待も高まる。                    


 すぐチャイナドレスを纏った小姐が物静かに近寄ってきて注文を聞く。それは全て李行さんまかせだ。さすがに李行さんも経験が無いらしい。戸惑っている様子が伺える。                  


 やがて注文のお茶とセットが運ばれてくる。小姐のする中国茶の作法に見入る。急須に湯が注がれ暖められる。小さな湯飲み茶碗にもあふれるごとくお湯が注がれる。そしてそれは先ず捨てられる。そして飲用のお茶が立てられる。何杯でもOKだ。         

 ただ驚いたことは、同時に「スイカ」「落花生」「菓子」「干しぶどう」「ビスケット」などがどっさり出てきたことだ。李行さんも笑っている。私は目をパチクリだ。後で聞いたが、粥や焼き飯のサービスもあるとか。                   


 いくら高級茶でも同じ茶ばかりではと、李行さん気をきかせて他の茶をサービスするよう掛け合ってくれた。そんなこと日本では絶対あるまいに、何と別のセットを持ってきたではないか。          


 それにしても目の前の山盛りのおつまみは・・・。確かにお茶は美味しかったが・・・・。これ本当に「伝統の飲茶」か?・・・。疑ってしまった。   


 今でもあれはおかしいと思っているが確かめてはいない。ただし値段は何と100元だった。一人50元となる。中国の水準では超高価といえるだろう。客も私達2人しかいなかったから。          


 お代わりも出来るし、食事もサービスなんて何とも不思議な中国茶館の体験だった。2人は笑いながら店を後にした。                   

 もし、京都かどこかで「お茶」でも飲んだら、多分「高級饅頭1個」だろう。それで幾らかは知らないが。

2006/11/24

博覧会と花火大会


9月26日(火)
 今日は朝から長沙のテレビが日本の経団連会長(伊藤忠)の来訪と中部地区(中国の)博覧会開会式式典のニュースを伝えていた.


学校に行くと、何でも日本人が1000人も来ているという驚くべき話を聞いた。大阪の財界人を中心に大変な訪中団だ。
        

 開催されたら日本人に会えると、翌日早速遠い会場までタクシーを飛ばして李行さん、ピ君を連れて訪れた。日本を紹介できると意気込んで行ったのだが、1000人どころか一人も会えなかった(いなかった?と思う)。「日本会場」なるものも無いのだ。   


 中央政府の大物も来て挨拶したり、歌や踊りもあり一日中式典の様子を伝えるのですごい博覧会だと決め込んで行ったのが間違いだった。結局中国中部地方(湖南省を中心として)の物産展のようなものだった。先端産業などの紹介や展示はまったく無く、観光、食品、漢方薬などの紹介が中心だった。外国館なるものもひとつも無い。「朝からあんな大きな式典を実況して・・・」という感じを残して帰って来た。中国は何でも祭り好きで派手好みかとも思う。    


 さて、今日は夜、湘江の川べりでは花火大会があるという。「とても綺麗で賑やかだから是非行きましょうと学生達に誘われた。元来花火好きな私。日本の様な花火大会を想像して、夕方学校から勢いタクシーに乗って学生達と出かけた。            


 タクシーは会場とまったく違う方向に走り出す。湘江沿いの大通り(6車線)は交通規制で通れないという。私は勝手に「すごい花火大会だ」と決めつける。その通り、会場からはるか遠いところで降ろされた。


 おびただしい人の数。恐ろしいほどの人々が肩をぶつけながら一方方向に歩いている。バス、車、単車、人みんな一緒くただ。「スリに気をつけて」と学生がいう。緊張だ。                 


 会場に近づくと、ますます恐怖がわくほどの人いきれだ。長沙市民150万人全部が集まったかと思うほどの迫力だった。                


 当然ビューポイントには入れない。右往左往する。そんな中でも、道端にちゃっかり椅子を並べて金を稼ぐやからもいるからすさまじい。この群集に否が応でも期待が高ぶる。                


 昼の博覧会に来ている来賓?か、日本人もいるのか定かでないが、人で埋まって身動き取れない道路を、パトカーを先導に何台もバスが進入?して来た。警笛を引っ切り無しに鳴らし無理やり進入だ。日本では考えられない光景だった。8時開始というのに、バスも立ち往生。来賓が到着できないのだ。案の定開始は30分も送れてオープニングだ。誰も不満を言わないのが不思議。「遅れて当たり前」。うーん中国人は心が広い!。                    


 次々に上がる花火に群集は歓声を上げる。「アイヨー!」とか何とか。掛け声が愉快だ。しかし筒場が近いので、音はすごい迫力だが内容はいまいちだ。火薬の発明は中国という。戦乱を制する最強の武器は火薬だ。歴史と伝統に裏づけされた中国花火。是非見たいと期待したが、結局単純な色彩の花火がほとんどだった。                      


 動きに趣向を凝らした花火や、空中で止まったように見える花火は面白かった。学生は「湖南省の花火は有名です。世界の大会で優勝している」と胸を張るが、今夜の花火は期待はずれだった。しかも1時間で終わってしまった。日本だと、フィナーレにはそれにふさわしい花火が上がり、歓声とともに終了するのだが、そんな流れも無い。私の心は不完全燃焼のままお開きとなってしまった。      


 「わずか1時間足らずの花火にこれだけの人が集まるか」・・・うーん。帰りがまた大変で、どれだけ待ってもタクシーは拾えない。何時間歩いたことか。 

 
 学校の門限は11時だ。ついに歩いて帰ることにした。こんなことなら、初めから歩けばもうとっくに学校についている時間だ。疲れ果てて学生と歩く。時間が無い!。大変だ。校門が閉まってしまったら・・。焦る。ついに後20分も歩けば着く辺りで、たまらず、タクシーならぬ、オートバイタクシーに乗ることにした。初乗りだ。学生と2人乗り。学生が交渉する。10元という。何でも良い。早く学校に戻らないと。                      


 校門に着いたら11時05分だった。守衛さんがニコニコと迎えてくれた。やれやれだ。翌日学校に行くと、「11元」は高いですね。儲けましたね」。?、主語は誰?という変な日本語で笑われた。

2006/11/19

わび・さび


9月25日(月)
 今日の授業は「会話」と「みんなの日本語44課」だ。44課は語彙の導入。「中国語版」を使うから説明は簡単だ。むしろ私の中国語の勉強になって面白い。学生は「先生、発音がおかしいとか、四声がおかしい」とかやかましい。問題は会話の授業だった。何と「わび・さび」が登場してきた。前夜準備はしたがどう展開したものか悩んだ。


要は「質素で趣のある生活や心情を求める感情で、古来より日本人の心として伝わる生き方」としてみたものの、説明は難し。
    

 平家物語、方丈記、松尾芭蕉など描きながら、「もののあはれ」から説明に入る。人の死や別れ、ねたみや嫉妬、金銭や、支配欲などを例に出しながら「人間の欲望や執着」「そしてやがては全てが滅する人間の性」につなげ、日常に生きる人間のあり方や生き方を感じさせたかったが、どうどうめぐりで結局1時間全部使ってしまった。               


 激動の中国、凄まじい競争原理の真っ只中にある中国の若者達に、「異次元の世界」を感じさせたかったので、少々むきになったきらいがある。数千年の歴史を持つ中国だ。どこかにその琴線に触れる心情が眠っているはずだと、熱を持って説明してみたものの、さて?だ。                    


 実際、今の日本人にも「わび・さび」は古の彼方の世界だから、目の色変えて突き進む現代中国の若者達には、それを感じるゆとりなど「無用」かも知れない。                      


 夕方の湘江には川べりに白いプラスチックの椅子がずらりと並ぶ。たくさんの椅子を堤防の上から川原まで担いで運ぶのだ。大変な作業だ。


 最初は何だろうと思ったが、結局夕涼みに訪れるカップルに有料で貸すのだ。川原には照明が無いので上から眺めるとほぼ真っ暗に等しい。絶好のデートスポットだ。「わび・さび」どころではない。たくましい長沙人の金銭感覚を見る思いだ。

2006/11/17

「先生・小姐・女士」


9月24日(日)
 夜いつもの李行さん、ピ君と3人で食事に出かける。学校の近くの「人民公社」といういかめしい名の餐庁だった。                  


 いつものように盛り上がった会話が続く。人民公社という名前に刺激されたか、政治や経済の話になった。                      


 いくら私の学生とはいえ、中国の青年達である。話題を慎重に選びながら会話を進める。彼女は23歳、ピ君は32歳だったか。それで2人には価値観の開きが相当あるという。彼女いわく。「彼はおじさん!」と。何をかいわんやであるが事実らしい。激動の中国をこんなところにも感じるのだ。しかし2人とも政治や経済の話には熱心で、日本の浮いた若者達とはずいぶん意識が違うと感じる。経済格差や公害、食品の安全等に触れてみたが真剣に話を聞いてくれた。   


 ところで彼らは「人民公社」なるものを知っているのだろうかとふと思った。文化大革命についても然り。今は別世界のことだろうなと思う。彼らの親達の青春時代の話だ。                


 話題が変わって、中国の男性は皆家庭で料理をする。買い物もするという話だ。李行さんの父親は料理がとても上手だとか。ピ君も料理は大丈夫という。この話になると、男女平等に働く中国の生活文化を感じる。「大竹先生はしますか」というから、とりあえず胸を張って「しません」という。「どうして」「奥さんは家にいるから」「奥さんがかわいそう」というお決まりの会話になっていく。「そういう時代だったから。今の若い夫婦は夫も結構するらしいよ」で話を打ち切る。                    


 ところで餐庁で働く女性を小姐というが、李行さんも小姐でいいのか聞いてみた。街に行きかう一般の女性に「小姐!」と声を掛けるのは失礼とか。上に苗字をつけて「李小姐」ならいいそうだ。レストラン、店、ホテルなどの働く女性は「小姐」でいいというからその区別は何かと思った。ちなみに「女士」は結婚している女性をいうらしい。男は「先生」だ。学校の先生のことと思ってはいけない。         


 食後李行さんをバス停まで送って3人は別れたが、私はまだ煌々と明かりの灯る学校の教室をのぞくことにした。本当に熱心だ。たくさんの学生が大声を出して勉強していた。黒板には参考文型や単語がびっしりと書かれている。私が教室をのぞくと大きな歓声で迎えてくれた。そして質問や取り止めの無い会話で盛り上がる。                    


 気がつくと10時半だった。宿舎に帰ると程なく電話が鳴る。李行さんだ。「先生!、どこに行ったんですか」と。彼女は私が行方不明になったかと心配して何度も電話したらしい。確かに学校の回りは夜ともなると明かりが少なく、人の顔も判別できないほど暗い路地もあるのだ。スリがいたり物取りがいたりするらしい。油断禁物だ。                

 学校は11時には校門がピタリと閉められ、警備員の人が学校を守るから安心だが、皆に迷惑掛けない為にも用心することにする。李行さんの細やかな気配りに感謝。

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