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2007/06/23 違いを認める |
隣国(隣人)と仲良くするには、お互いの「違いを認め合う」ことだそうだ。これがなかなか難しい。 文字を読んだ時はなるほどと思ったが、自分のこととなると難しい。とてもいい関係だと思っていた学生がある日突然いなくなる。小生に「黙って」退学し目的地に行ってしまうのだ。それも一人やふたりではないのだ。日本人ならば「お世話になりました」と別れの言葉を交わし別れるのだが…。習慣の違いだろうなあ。小生は人間が小さいせいか「あれだけ小生を慕っていたと思うのに、あれはなんだったのか」とか「あれだけ一生懸命に教えたのに…」等恩着せがましく思うのだ。思ってしまうのだ。自分かってな損得勘定をしたり、「あれだけしてやったのに」なんて、思うことが了見が狭い証拠なんだ。学生という鏡を通して自分の醜さが浮き彫りになる。「あー、なんという自分なんだ。」 日本語を話しているだけの教師ではいけないとつくづく感じる。学生さんからいろいろと教えていただける。 「違いを認める」ことは重要である。しかし頭で理解していると思っているが、本当の理解は出来ていない。大好きな中国でさえそうだ、あまり興味のない国?の人に接すると小生の態度はどうなるのだろうか。世界のあちこちでイザコザが起きている。隣国を心底理解することは大変なことだ。 大学付近は長沙の下町だ。庶民的な町だ。ここの習慣には、まだ慣れない。それはゴミのポイ捨てと痰、唾吐きである。小生の少し前の人が歩きながらバナナを食べていれば、そのうち皮を捨てる。店の主人が店内のゴミを道路に掃きだしている。あちこちで痰、唾を吐き捨てる。この習慣にはなれない。どうも「これらの違いは」認められない。改めて欲しいと望んでいる。 大好きな中国ゆえに。 これも了見が狭いからか…。 「隣国(隣人)との違いを認める」考えさせられる。 |