永谷元宏の「長沙日語学院 友好の輪
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福島顕二郎の長沙教師録〜未来への道が完成(文字クリック)

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長沙日語教師録  
「コメント」



  
     

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2009/04/18

衡山(こうざん)への旅(2)


6時にはもう昨日頼んでおいたタクシーが迎えにきた。
週末の早朝であるにも関わらず道路には畑仕事に向かう人、学校の生徒、ジョギングをする人などと行き交う。

豚が道路を歩いているのには驚いた。途中の石湾の街のコンビニで水と食料などを買う。約1時間で衡山の入口に着く。

もう観光客がぞろぞろと群れをつくって歩いている。衡山への道を少し登ると料金場に着いた。

入場料80元のチケットを買ってゲートを通る。ここからはバスで行く人と歩いて登る人にわかれる。ツアー組はバスが多いようだ。

(バス料金は70元と高い)我々はもちろん歩行組。車の往来に少々うんざりしながらも歩道に入ると急に静かになった。

歩道や階段は石畳になっているところが多い。自然の中に人工的な建造物が目立つのは何だか妙に感じるが中国の人の好みなのだろうか。


渓谷や池を越えて石の橋を渡ると禅寺についた。日本の寺とは趣が違って、孔子様風の金箔の仏像が正面に座いる。


達磨様のような大きな腹をしているのは禅僧の特徴であろう。谷のあちこちから読経の声が聞こえる。山の所々に据え付けられたスピーカーからの声のようだ。


中国の仏教は実用好きの中国の人達にはどんな形で残っているのだろうか。でも寺院の中では多くの人が跪いて厳かに礼拝をしている。

家族の無事長久安泰を祈っているのであろう。渓谷沿いの道をさらに辿っていくとほどなく忠烈祠に出た。

ここは日中戦争で亡くなった戦士の墓と記念堂である。堂には中国に侵攻した日本の軍隊と中国の国民軍と共産軍が共同で戦った歴史的な写真が展示されている。

蒋介石や共産軍の幹部の写真の中に若き日の周恩来の軍服姿が見られた。賢明で穏やかな面ざしは三国志の諸葛孔明のイメージと重なる。

ロープウエイ乗り場付近から雨がぽつりぽつりと降ってきた。我々は登山道の方へ進むが車の往来でざわざわして煩わしく、とても山の中腹の雰囲気ではない。


雨が大粒になってきた。途中の寺の前でビニールの簡易カッパを売っていたので買い山道を更に登る。所々の寺で雨宿りをしながら往くが雨脚はだんだん強くなる。

階段を登りきった所にバスの終着場があった。ここには禅宗らしき大きなお寺があった。一風道教の寺のようなである。派手な飾りが目につく。

雨宿りの人や車を待つ人でいっぱいだ。爆竹の爆音が鳴り響き硝煙の臭いがあたりに漂う。

燈明のかがり火が暖かいので近くで暖をとる。ここから頂上まではまだ1時間ほどかかるそうだ。稜線に近いせいか外は強風で雨も強い。

このまま登れば強風が濡れた体の温度を下げ体調を崩すのが明白。
登頂を断念してバスで下山することにしたがバスが高額なので彼女達はライトバンの運転手と交渉し麓まで格安で行ってもらうように話をつけた。

疲れていてもお金の交渉になるとファイトが出るようだ。衡山の麓に着くとさすがにみんな疲れた。しばらく休むとみんなに元気が戻った。

ふと今降りてきた衡山の方を振り返ると山の頂ははるか彼方の霧の中に消えていた。

2009/04/17

衡山(こうざん)への旅(1)


午前の授業(0802クラス)を済まして同行4人の女子生徒(案内役の廖さん、張さん、李さん、徐さん)とバスで長沙駅に向かう。

駅の待合室は超満員。電光掲示板には、広州や北京行きの表示もある。我々は13時39分発の永州行きの汽車に乗り込む。

車内は満員だが彼女達は隣の人たちとすぐに打ち解けて話の花が咲く。

株洲の駅を過ぎると汽車は湘江に沿って進み車窓からの眺めが美しい。

大小の船が沢山浮かんでいる、田植えをすませた田圃が広がる中を2時間ほどで衡山に着く。

近くの市場で食材を買いタクシーで廖さんの友人の家に向かう。30分ほど走ると道路脇に青年が待っていてくれた。

廖さんの友人はてっきり女性と思っていたが青年であった。彼の名は曹云海、彼女の高校時代の親友だというが恋人ではないらしい。

物静かな好青年だ。家はコンクリート造りの堂々たる構えで庭が広く入口には昔ながらの手押しポンプがある。

庭のテーブルでひまわりの種などをかじりながら話が弾む。曹さんの両親はいま農閑期の出稼ぎに行っているらしい。

彼は上海でCADの勉強をして職についたが今は2か月ほどの休暇をとって帰省中のようだ。

彼の従兄が幼い娘をバイクに乗せてやってきた。彼も出稼ぎ中で久しぶりに娘に会ったという。


娘は留守宅でおばあさんと二人で暮らしているが、これからまたお父さんが帰ってしまうので淋しくて泣いている。

みんなで散歩に出かける。三方を山に囲まれて田圃、畑、池、小川、家が点在する静かな田舎の景色があった。家々は堂々として新しい。

経済開放後の農家の姿であろうか。池では魚を養殖しているようだ。ついでに海の話をしていたら彼女たちは4人とも海を見たことがないと言う。

彼女たちは四方海に囲まれた日本をどんなイメージで描いているのだろう。

夕食は台所にある大きな「かまど」で支度した。裏山で採ってきた柴で火を焚き料理をする。昔ながらの暮らしがここにあった。


食後はまたみんなで散歩にでかける。夕暮れが迫り景色がきれいだ。みんなで合唱した。


日本の童謡を歌ったら彼女達は中国の童謡を歌ってくれた。「夕焼けこやけ」の世界だ。ああ!なつかしい。素直でいい娘たちばかりだ。自分のこころも洗われる。

就寝時に2階の部屋に案内される。みんなは一番いい部屋を先生にと言う。躊躇していると彼女たちが決めってしまった。

一息つくと空に星がいっぱい輝いている。周りに明かりがないので夜空の星は宝石をちりばめたように美しい。北斗7星がくっきり見える。


中国名も同じだった。星のことを話し合う。10時頃に足を洗ってベッドにつく。


“見知らぬ客人を何の報酬もなく温かく迎えてもてなす”人々の度量の広さは何だろう。

これが中国の大地や風なのか。家の入口と階段に「幸福」の文字が書いてあった。

2009/04/14

烈士公園の乙女たち


日本から花の種を送ってもらい2週間ほど前に屋上に植木鉢を置いて種を播いた。その百日草の双葉の芽が大分大きくなってきたので、周りを清掃し小さな花壇に植えかえた。


長沙では殆ど花の苗店を見かけない。家庭で花を育てる習慣がないのかも知れない。最近は生徒達もこの花の成長を楽しみにしている。日本からやって来た花を見ながらここでパーティーを開きましょうと提案もしてくれる。


さて、今日は午後から授業がないので黄先生の引率で804教室の生徒と烈士公園へ行った。3月上旬に初めて訪れた時はまだ肌寒かったが今日は陽射しも強く汗ばむほどの陽気だ。


平日のせいか混雑もなく先生に引率された幼稚園児や小学生に方々で出会う。我々のグループはうら若き花の女性連で華やかだ。あちらこちらで先生一緒に撮りましょうと声をかけられ照れてしまう。


ほとんどが20歳前後の女の子なので何をみても陽気で笑い声が絶えない。しかし花も恥じらう筈の乙女たちが平気で立ち食いをしながらはしゃいでいる姿を見ると文化の違いを感じてしまうが。公園中央部にある烈士会館の前で記念写真を撮る。


さすがにここではみんな神妙な顔つきだ。抗日戦争の展示もあり熱心に見ている。戦禍の爪痕がここに刻まれており複雑な気分になる。これまで訪れた公園に共通して感じたことがある。


こちらの公園では石や土の造形が目立ち自然を人工が上塗りしている感がする。自然美を大切にする日本の公園といささか視点が異なるのだ。


繊細さの少ない大ざっぱな感じがするのは四季の微妙な変化がない大陸の気候の影響や実用主義の気質の表れであろうか。

2009/04/11

布格繆勒(ブルグミュラー)とコロッケ


少しばかり余裕がでてきたので、久しぶりに超特価で買ったキーボードを弾いてみたらピアノの教則本が懐かしくなってきた。中国では果たして販売しているだろうかと、繁華街の本屋さん「定王台」に行く。


音楽関係の棚を覗くと教則本らしき本が並んでいるがどれも漢字表記である。ページをぺらぺらとめくるうちにどうやら目当ての「ブルグミュラー」が見つかった。


鋼琴(ピアノ)教材「布格繆勒 鋼琴進階25」とある。定価9元(140円)。漢字表記のバイエルやツェルニーも見つかった。中国歌集「歳月如歌」と合わせて2冊を買い求める。


地下の本屋街は50ほどの小さな書店が軒を連ねどんな本でも揃っているには驚いた。今日は雨降りであるが流石に繁華街は多くの人で賑わっている。市内一番のスーパーに行ってみると何でも揃っており日本のマヨネーズや寿司もあった。


今晩の夕食はみんなのリクエストに応えて日本食にした。好評の野菜のかき揚げてんぷらとコロッケそしてスープは味噌汁、みんなでワイワイ言いながら作る。


幸い近所のスーパーで小エビもあった。特に卵をつなぎにパン粉でくるんだコロッケは興味を引いたようであり味もOK。テンつゆで食べるてんぷらも珍しく食べ物談義に花が咲く。


湖南料理はとりわけ辛いので日本料理の薄味は物足りなさを感じるかなと思ったが、「先生の料理は長沙の日本料理店より美味しいよ」とうれしいことを言ってくれる。

2009/04/9

円卓授業


7月の日本語能力試験に備えて受験の特別授業が始まった。このため708クラスの会話受講者が随分減ったので、授業のやり方を少し変えてみることにした。


従来の前後配列を円卓方式に変え全員が対面できるようにした。少数人数であれば会話授業には適当だと思う。ここの生徒はこれから日本と関連ある仕事に就くことを目標としている。


それには読み書きの基礎知識とともに会話のコミュニケーション能力の熟達が必須であることは明白だ。このクラスはもう2か月余りで卒業する。


それまでに実用的な会話力を少しでも効果的に磨くにはどうしたらいいだろうかと考える。円卓方式で積極的な対面会話を始めることから試してみよう。他のクラスでも日本語を話す時間を聞いてみた。


クラスメート同志での会話はなかなかはかどらない。日本語会話をするのはほんの僅かな時間であるようだ。宿舎によく訪問してくれる生徒と日本食を作りながらこのことについて語り合った。

2009/04/7

湘江の船上結婚式


朝の授業を終えて湘江に向かう。今日も好天気で暑いぐらいの陽射しだ。湖畔公園の周りにはウイークディにもかかわらず散策やのんびりとくつろぐ人が大勢いた。


二胡を奏でる夫人、柳の下で語り合う恋人、孫の世話をする老夫婦、互いに干渉しない様々人がここで楽しんでいる。突然、河の方から音楽が鳴り響いた。湘江に停泊する大きな遊覧船で結婚式が始まる合図のようだ。


船上では現代風のウエディングソングが歌われる。広場の端からウエディングドレス姿の花嫁花婿が現れた。たぶん裕福層の結婚式であろう。


乗船口の桟橋では爆竹の爆音が轟き二人の前途を祝福する。自家用車で乗り付けたお金持ち風の出席者があとにつづく。ここはシンガポールか香港かと錯覚をする風景だ。公園でくつろぐ人々は流れる雲でも見るように悠然としている。


湖畔の欄干には杜甫と屈原の詩画が幾十と掲げられている。「国破れて山河あり・・・」その昔、学校で習った杜甫の唐詩を見つけた。そうかここは屈原と杜甫の晩年の地であったのだ。時は流れる。

2009/04/6

朝のジョギング、日本人教師と会う


朝6時過ぎに楊さん魏さんと湘江の畔にジョギングに出かける。公園の周りは好天のせいか早朝からジョギングや体操、太極拳の人達で賑やかだ。


下流の橋に向かって少しずつ体を馴らしながら走るうちに途中で満開の八重咲き桜を見つけた。日本ではあまり見かけない桜だ。湘江の流れを楽しみながら20分ほどで橋のたもとに着く。


帰りには太極拳風の体操している年配グループに入れてもらい体を休めた。ゆったりとした音楽の運動だ。久しぶりの汗に体中のストレスが発散し爽快な気分が戻ってきた。


昼前に、転校した葉さんが転校先の日本人の先生を連れて訪ねてきた。大阪外語大の学生で葛西さんという青年だ。1年の予定で休学して来られたそうだ。


長沙には日本語学校が数か所あるようだが彼の学校は長沙の南にあり日本人先生も数人おられるという。滞在僅かながら日本人との会話が妙に懐かしい。



みんなで食事をしながら歓談する。先生は久しぶりの味噌汁とワラビの卵とじを美味しそうに食べておられた。

2009/04/5

湖南省博物館を訪ねる


生徒の陳さん、姚さんと長沙市の中央部にある湖南省博物館を訪ねた。

開館は9時というのに8時半にはもう長蛇の列が続いている。昨年から無料になったそうだ。大学生など若い人が圧倒的に多い。入口では身分証明書の提示が必要で外国人はパスポートの提示が要求された。


この博物館の目玉は何といっても世界的に有名な「馬王堆」の遺物展示だ。小一時間待ってようやく入館ができた。

「馬王堆」は全漢時代というから2100年も前の稜墓であり、この遺跡から収集された装飾品など文物を見ると信じがたいほどに多様で高度な造作のものも多い。古代中国のこの時代に日本民族の生活様式はどうだったのか等と想像しつつ広い館内を見てまわる。


館の中央部には長沙国宰相の婦人辛追の遺体(ミイラ)が展示されている。3階ぶち抜きのガラス張りの部屋は夫人が収められた巨大な彩棺の現物が設置され上からその内部構造もよく見える。


その横には夫人のミイラが納められ顔かたちの生々しい様相を真上から覗き込むと、何とも不思議な気分になってくる。展示物の中には楽器を演奏している音楽隊の塑像もあり華やかな音楽が古代から聞こえてくるようだ。


多くの陳列物を見て歩くともうお昼を過ぎていた。圧倒された古代遊泳の3時間であった。

2009/04/4

清明節の暖かい食卓


長沙市の東の郊外に黄興鎮という村がある。

804教室の生徒、方さん(女性)の実家がここにある。今日は清明節である。日本のお彼岸とよく似て先祖を祀る日のようだ。

今日から月曜まで連休になり生徒も半数は実家へ帰り供養する。

彼女の友達と共に8人で早朝のバスに乗り東のバスターミナルに着く。

ここから定員20名ほどの小型の田舎行きバスに乗り換える。帰省客も多くバスは満員。

小雨ふる狭い田舎道を田畑の景色を配してバスは進む。40分ほどで終点の黄興鎮に到着した。

バス停の広場には立派な石像が立っている。黄興という名前に聞き覚えがあった。


石像は果たして20世紀の初期に孫文に協力し中華民国成立の立役者となった歴史の人であった。

日本にも留学し反清運動の指導者となり仲間から中国の西郷隆盛と慕われたと言う。(鹿児島市日中友好協会のHPにも詳述されていた)

このバス停から40分ほどの所に黄興の生家があるそうだ。この地の名前の由来であろう。

方さんの実家はバス停から5分ほど歩いた所にあった。「私の家は農民です」と方さんは胸をはって言う。

家は土づくりの頑丈な構えだが中は質素・清潔であった。新しいTVが簡素な室内を占領している。

みんなでひまわりの種や落花生を食べながら彼女の少女時代の写真を眺めて話に花が咲く。台所の丸テーブルを囲んで昼食を御馳走になった。

近所に住む彼女のおじいさんはテーブルの中央に座り私にこちらの地酒を進める。優しい微笑みで迎えてくれた顔の皺には80年の歴史が刻まれている。

日本人と話すのは初めてだと言ってフランスに留学した孫娘のことなどを話し笑みがこぼれる。

方さんのお母さんは働き者で料理上手だ。ご主人とは見合結婚し遠方から嫁いで来たという。

今の若い人は自由恋愛ですよと付け加えた。

たたき造りの床の部屋は昔の日本の農家のように幾分薄暗く寒そうであったが、快くみんなを迎えて下さったご家族の心づかいがとても暖かかった。

2009/03/31

真面目な泥棒


学校近くの郵便局で人を待っていた。

そこへ一人のおばさんが興奮して入ってきた。

「大変だ、大変だ、泥棒に携帯電話を盗まれた!」

、局員は少しも騒がず「もう一度バッグを見てみたら」興奮鎮めてよくよくみればバッグの底にそれは健在。

そしておばさんは「ここにあったか!」と恥ずかし気な気色もなく堂々と帰っていく。

実に逞しい。この辺りは名うての不安全地帯で一名「泥棒通り」と言うらしい。

5mほどの幅の狭い通りの両側には食堂、八百屋、肉屋、豆腐屋、色々な食材店や露店が立ち並ぶ。

その中で多くの人や車・バイクが行き交う。門前街の縁日のようだ。

「泥棒はどんなふうの人ですか」と尋ねると一緒にいた魏君は「泥棒はみんなが油断するようにサラリーマンのような立派な格好をしていますよ。

[先生気をつけてくださいね」と何度も念を押す。先日も生徒が携帯電話を盗まれたと悔やんでいたのを思い出した。

「そうか“紳士を見たら泥棒と思え”ということだね」と私はつぶやいた。

「去年こんな面白いことがありましたよ」と彼はこんな話をしてくれた。

先輩の彭さんが彼女と話していた時、横に置いておい た彼女のバッグが盗まれた。

バッグには現金、携帯電話、身分証明書、IDカード、など大切なものが入っている。

青ざめる彼女を慰めながら彭さんはもしやと思って彼女の携帯番号に電話をかけてみた。

すると、受話器の向こうに人が出て言った。

「初めて盗みをやってしまいました。ほんの出来心です」

それで彭さんは続けた。

「身分証明書などの大切なものを返してくれれば500元やるがどうだ・・・」

沈黙後に電話は切れた。数日後、彭さんのところに小包が届いた。そこには現金と携帯電話以外の身分証明書やIDカードなどが入っていた。もちろん彭さんは500元送っていない。

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