永谷元宏の「長沙日語学院 友好の輪
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福島顕二郎の長沙教師録〜未来への道が完成(文字クリック)

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長沙日語教師録  
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2009/05/16

日系企業の面接試験資料


704クラスの生徒はこの5月末に2年間の勉強を終えて卒業を迎える。このクラスは特に仲がよく纏まりもいい。

しかし会話力がいま一つの生徒も多く彼等の望む日系企業の入社試験が心配だ。少しでも力になればと思い街の本屋でこの種の参考書を探し1冊見つけた。早速入手し要約資料を作ってみた。


通訳の条件は日本語能力試験1級、会話堪能、性格明朗・協調性等が併記され厳しい。面接試験の手順、服装・礼儀、言葉づかい、面接問答集などを取りまとめて生徒達に説明する。


面接練習では歩きながら挨拶をする者、机に肘を突いて答える者、ちぐはぐな事柄を話す者等々・・・


練習の度に私の不安は募るばかり。大らかな性格の彼等にとって日本の文化・習慣は繊細だ。

日本企業はハイテクでみな金のなる社に映るらしく、その眩しさが現実の輪郭をぼかすようだ。少ない時間でポイントをどう伝えるかが問題だ。


ただ面接試験官に彼等の「誠実と努力」がいち早く見出されることを第1番に祈らずにはいられない。

2009/05/13

あくびと昼寝


時々教室で生徒が大あくびをする。

うら若い娘がはしたないと思うのは我々日本人だけだろうか。中国の小中学校では先生は「あくび」を注意しないらしい。

これは生理的現象であり「あくび」を止める方が不自然行為であるとの理屈も成り立つ。

先生「出てしまうものは仕方がないですよ」という生徒の方が素直であるかもしれない。でも「口元をそっと手で隠したら」と言いたくなるが・・・。

「あくび」をされると「授業が面白くない意思表示だ」と教師は感じて落ち込んでしまうが、どうやらそうでもないらしい。


エチケットというものは各国共通の普遍的なものではないらしい。

中国の学校では午後の授業が2時から始まるようだ。正午の休憩が2時間たっぷりあるので1時間は昼寝ができる。

昼食を摂るとみな眠気顔になり昼寝タイムとなる。日本では保育園児の習慣だが中国では誰もが行う習慣になっており真に羨ましい文化である。


日本では午後一番の授業や会議は睡魔との闘いである。日本の生活は昼と夜の2区分だが
中国では午前、午後、夜の3区分になるので一日が歯切れよく進み、頭と体の切り替えもすっきりするにちがいない。

いつか日本もこの習慣を導入すればストレスが解消し犯罪の大幅減少も達成できる・・・なんて眠気顔で考えていたら始業のベルが鳴った。

2009/05/10

青春群像(2)


陳さんと初めて言葉を交わしたのは早朝の学校の入口だった。

朝食の肉饅頭の袋を下げて階段を登る彼に「どうしたの」と聞くと「朝食を買ってきてあげたんです。私たち友達ですから」と答えた。


学校の6階に女子寮がある。毎日そこの女生徒に届けているようだ。彼のゆったりした口調からほとばしる優しさは誰もが認める。

彼は広東省の広州から来た。


ここに来る前は日系の自動車会社で3年ほど働いた。高校を出て入社した時には20人いた同期生も1年で半数になり2年後には数名になった。

それでも3年目には係長になり部下を持った。日本人の上司は良くしてくれたが何か会社生活に馴染めないものが残った。


新境地を開くため思い切って会社を辞めて広東省から脱出した。あえて友達の誰もいない湖南省の日本語学校を選んだ。


1年研修コースで学んだが日本語に興味が湧きもう1年やることにした。

1年コースの同級生は殆ど卒業したが陳さんと女性の姚さんだけが2年コースに編入した。

2人はとても仲が良いのでてっきり相愛関係と思ったが、彼等にはそれぞれ恋人がいた。

(後で各々お会いしたが)。姚さんも日系の電機会社で財務の仕事をしていた。

日本人の部長には通訳者がついていたので仕事に不自由はなかったが何かもどかしかった。

たまたま現場で係長の欠員ができたので代行をしたところ、現場の活気と日系会社の人事管理に魅せられた。日本語をきちんと習って再出発しようと退社して日本語学校に来た。


彼女は小柄だがきっぷのいい大陸的な性格で陳さんとは好対照だがそれだけに仲がいいのだろう。

今、彼等は日本語能力試験1級を目指して猛勉強中である。

将来、彼は通訳者に彼女は現場の管理者を目指している。

2009/05/8

通訳者への道


日本語修得の「聞く(聴解)」「読む(読解)」を基礎能力とすると「話す(会話)」「書く(作文)」は応用能力ともいえる。

応用はなかなか難しいが通訳を目指す生徒たちには必須の能力である。日記や作文を書くことをみんなに奨めた。

卒業を目前にした704クラスでは「私の夢」をテーマにした作文が提出されたので今日はこれを添削した。

みんなの思いが文面に強くでている。学校へ入った動機や経歴はさまざまだが日本への憧憬は共通して強い。

「仮名文字の稚拙」「文体の不揃い」「助詞・副詞の間違い」など問題も多いが、それらを自覚することがスタートラインだ。

各自の目標は分かっているので、努力の成果は出るだろう。・・・午後から804クラスの生徒が宿舎へ会話練習にやって来た。

二人とも熱心で前回より随分良くなってきた。日本の会社では友達言葉でなく丁寧体の言葉が重要だと理解するに随分かかった。

MP3などで視る日本の青春ドラマなどの会話から友達言葉が浸透してしまったようだ。

彼らの目標である日系企業における通訳者は競争が激しくその道はとても厳しいそうだ。

僅かな期間に援助できることは多くないが共に頑張ってみたい。

2009/05/4

日本事情レッスン


家内と息子を伴って学校に出かける。

息子に同世代の中国の若者と交流させたかった。


家内は以前Skypeで生徒と交信しているので直接対面だ。生徒達も興味深々で他のクラスからも覗きにきた。

一番目のクラスではパンダの折り紙づくり、二番目の教室は茶道の実技を三番目のクラスはフリートークと様々な試みをした。

みんな日本に行きたい夢を持っている。でも国境の壁は意外に厚く個人の往来はまだ自由でない。

日本に対する沢山の質問が出る中でトップはやはり「給料はいくらですか」と息子に聞く。

「まあ大学を出て3年ぐらいで○○万円ぐらいかな」と聞くと皆からため息がでる。

「でも仕事は結構きついよ」「そーかー」「流行っている歌は何?」「・・・・」、家内はみんなに「中国へ来て一番感じたことは女性が強いということです」と言うと皆「そう」と笑って頷く女生徒達。


圧倒的多数の女性の質疑や行動が積極的なのに対し男性は終始一歩控えてニコニコと静か。


二番目の授業では班長さんの音頭で「中国の童謡」を合唱してくれ、最後に全員で「さくらさくら」を歌ったことがとても印象的で心に残った。

2009/05/2

張家界の旅(2)


賑わう人出を考えて朝早くホテルを出発した。

入場ゲートでチケット(245元)を購入し周遊バスで袁家界景区に向かう。

300mの絶壁に造られた百龍エレベータで一気に標高を稼ぎ出口を一歩踏み出すと目前に奇岩のそそり立つ袁家界の景観が広がった。

そこは連なる断崖とそこに根を張る低木の世界で鳥のみが行き着けるところだった。ここから山道を楽しみながら歩くが、この絶壁の小道がすべて石畳になっているのに驚いた。

さすが万里の長城を造った民族の発想とエネルギーだと感心する。この先に天下第1橋があった。

自然が架けた石の橋で世界に類をみないものであろう。それにしても観光客の多いこと、狭い山道は人人であふれ静かな筈の山々も話好きな中国の人の声でざわめいている。

ここから山頂沿いの道を周回バスで天子山に向かう。御筆峰は天に向かって伸びる細筆のような岩山が林立して美しい。

西遊記の孫悟空がこれらの岩山の頂を八艘飛びに活躍しそうだ。頂上からは長い階段を下りて十字画廊沿いに歩き渓流の新緑を楽しんだ。


夜は少数民族の舞踊ショウに出かけた。日本人に似た小柄の美人ぞろいで若者は皆目が輝き昼間の疲れも吹っ飛んだようだ。

歌姫の天にも届くような澄みきった高音の歌声は美しい笑顔とともに若者の心を溶かしてしまっていた。

2009/05/1

張家界の旅(1)


5月の連休に湖南省の北西部にある張家界へ行くことにした。

張家界は武陵源地区が世界遺産になって一躍世界的に有名になった。日本語学校の生徒のなかにここの出身者が数人いた。

幸い受持ちクラスの莫さんが案内を申し出てくれたので計画は整った。

休暇を利用して訪中した妻と息子それに案内の莫さん陳さんの5人で朝早くしバス西ターミナルに向かった。

ここから大型バスで高速道路を約4時間、さらに小型バスに乗り継ぎ目的の武陵源に到着したのは午後2時。

長沙では幾分陽射しも見られたが、こちらは本格的な雨降りで心配が的中した。しかし「今日は鍾乳洞の見物のため問題ないです」と莫さんは言う。

その黄龍洞は大変な賑わいで雨天の中を長蛇の列が続いている。

押し合いながら待つこと1時間半ほどでやっと洞の入口に辿り着いた。しかし黄龍洞の中は全く別世界があった。

怪奇で大規模な石灰岩の洞窟が広がっている。野球場のドームほどもある天蓋から幾条もの滝が流れ落ちる、棚田のように幾重にも重なる滑り岩に地下水が漂う、何万年もの侵食により形づくられた怪奇な棒状の乳岩が乱立する、色とりどりのライトや人々のざわめきが神秘感を醸し出す。


まるでSFの地下大帝国のようだ。洞窟内を流れる川の船下りは圧巻でまるで冥府の世界へ旅立つような心地さえ覚える。

3時間ほどの黄龍洞の旅を終えた頃には雨も小降りになり夕方の武陵源の街並みに明かりが灯っていた。

2009/04/26

湘江の中国語勉強塾


今日は日曜日なので生徒の姚さんと朝6時半から湘江に出かけた。

昨日、彼女に中国語を教えてもらう約束をしていた。そこで彼女は覚えの悪い生徒のために虎の巻をつくって準備してきてくれた。

朝の湘江の畔は太極拳やダンス、ジョギングの人たちでもう賑わっている。

我々もジョギング姿で歩きながら、さっそく中国語塾が始まった。

まず自分の名前の発音練習(永谷元宏は中国発音でヨン・グー・ユアン・ホン)から始まった。

「先生それから お早う、こんにちは、今晩は・・朝食は昼食は夕食は・・さっきパンを食べたでしょう。

それは何と言いましたか。・・・単語から熟語、会話へと展開していく。」湘江の朝ののんびりした風景も私の周りだけは何故か緊張感が漂い行き交う人が不思議そうに眺めていく。

「先生その発音はおかしいですよ。私の唇を見ていてください」と言われ、ドギマギしてしまう。枯れ木と言えどもうら若き女性の口元など凝視できるものではないのに。

間もなく上流の橋が見えてきた「あの橋を渡ってみたいねえと」と言えば「我想過橋」と中国語が木霊のように返ってくる。

バスが通れば乗り方を中国語で・・・と。真に風景が生きた教科書で面白いが・・「帰りはその復習ですよ」と告げられひや汗が出てくる。

「先生なかなか覚えがいいですね」と言われば年甲斐もなく心が弾みウキウキとする。

しかし最後に彼女はこう言って私を現実の世界に戻したのです。
・・先生、あの人達はきっと娘とおじいちゃんが仲良く歩いているなと思ってるよ・・・・

2009/04/23

日本料理レストラン


範先生ご夫妻に日本料理レストランに招待して頂いた。

市の中心部にあるそのレストランはなかなか格調のあるお店で割烹姿のウエイトレスさんや着物姿の女将も見え本国さながらの雰囲気である。

先生が日頃お付き合いされている方々にもそこで紹介された。

長沙市対外友好協会副会長の雷先生をはじめ鹿児島に縁の深い方々で、広い視野と見識をお持ちの人ばかりなのでいささか気遅れしたが親切にしていただき胸が和む。

日本や中国のことなど話が飛び交うが話題の弾むごとにお猪口の乾杯をみんなで繰り返す。

初めての中国式乾杯だったが話が円滑に流れてとてもいい雰囲気だ。鹿児島から研究生として派遣されている柿木さんにもお会いした。

中国語も堪能な上に日本女性らしい上品な雰囲気をもった方で嬉しい出会いであった。

日本料理についてはここが内陸なので日本とは味が少し異なるが流石に食の国だけあってどれも工夫がされていて美味しい。


とにかく中国の人は話好きだ。中国語の解らない自分でも引き込まれる話術に感心した。みんなで楽しむことこそ、パーティーの醍醐味だと生来皆が心得ているようだ。

2009/04/21

長沙の花市場


長沙では園芸を楽しむという習慣があまりないらしい。

日本では街角の花屋さんやスーパーなどで売っている花の苗を扱っている店を見かけない。

花好きの私は日本から種を取り寄せて屋上のコーナーに蒔いてみた。

そんな折、劉先生から花市場のことを教えてもらった。早速生徒と一緒に烈士公園の東にある市場を覗いてみた。

温室ハウスのような店が20軒ばかり連なり店頭には色彩りどりの花が咲き誇りまさに花の楽園であった。

マリーゴールド、ナデシコ、ベゴニア、ペチュニアなど日本で見かける花が多かったが開花時期が全体的に早いようだ。なかでも梅雨に咲くはずのアジサイが一足早く咲いており驚いた。

手に持てるだけの花鉢を購入しウキウキしながら帰宅しあれこれと考えた。

長沙の土は粘土質が多いので乾くとカチカチになるが湘江の川岸からこれを少々貰ってきて植木鉢に移し鉢の下には水受け皿を置き乾燥を防ぐようにした。


殺風景だった宿舎の屋上はにわかに明るく華やぎミツバチとともに我が学校の女生徒の訪れる楽園になるはずである。

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