私の中国
2001年6月13 日〜20日迄8泊9日のシルクロード浪漫の旅をしてきました。
亡くなった父母の法事の度に、松間和尚が、説教の替わりに、(敦煌へ行きましょうょ)
が口癖でしたが、1999年5月、敦煌じゃなく、「まずいきなり敦煌はないでしょう」「中国は広いんだから、順序というものがあるでしょうが・・・」ということで、北京・西安・桂林・上海という実に欲張った旅が、私の中国の旅の始まりでした。
父が同盟通信社の新聞記者でしたので、生まれたのは京城(今のソウル)、多分3歳〜6歳頃まで、というより、車と天蓋列車と上陸用舟艇を乗り継ぎ、引き上げてくるまでは、北京に住んでいました。こういう場合、北京は二度目というんでしょうか?
・・・2000年5月、何故か、雲南に惹かれ、昆明・大理・麗江・石林を旅しました。そして・・・
ついに、ほんの少しは、中文(ジョン・ウェン)がカタコト出来るようになって、待ちに待ったシルクロードが実現しました。
まだまだ、単独旅行すら、自信がなく、というより、一通りは名所巡りはツアーが安上がりなので、その代わり、気に入っても、もう1〜2日というわけにはいかないのが残念だけど、仕方がない。
「ゼッタイ、又来るゾー」そんな感じの旅です。
といっても、一般ツアー客とは違い、出発前に、何処何処と、ドコドコは一日別行動します。食事もいりません。と、申し出てますので、結構、自由にやってます。
今回も、西安、行き1日、帰り2日、上海1日はフリーにしてもらいました。
それでは、記憶をたどりながら、シルクロード浪漫を紹介します。
土地の説明など一部他のホームページより、拝借してるところもあります。
敦煌・莫高窟
昨夕、西安に着いた。ホテルで陳さんのご両親に会う。 初対面の挨拶を誰が言うか、ひともんちゃく。結局、準備していた言葉も、ヤァやぁ、ニコにこ、ジェスチィアで済ませ、早速,その夜は楽しみのマッサージをしてもらう。飛び切りのルンルン小姐の到来に相部屋の松間和尚と顔を見合わせ、慌ててしまう。そして、しばし夢心地・・・・・
・・・そして、翌日。
西安から飛行機で約1時間半、敦煌の空港に
着く。・・「暑い」、・・聞いてはいたが、寂しい空港だ。といっても、何処の空港も、似た感じだが、ここは人が少ない。
敦煌は、昔から、中国から中央アジアへの繋ぎの地とされ、トルファン、ウルムチ、カシュガルへの出発点とされてきた。
ちなみに、シルクロードという名はドイツの地理
学者リヒト・ホフマンが1877年の著書「中国」で始めて使ったと言われている。
空港から街までは、結構ある、バスで2時間以上かかる。街は綺麗で、ロータリーの中央にシンボルの反弾琵琶を弾く天女の像が立っている。そういえば、中国西北航空の尾翼にも似たような飛天のマークがついていた。
太陽大酒店が宿である。これまた結構なホテルで満足。今回の旅で唯一夜の外出をしなかった。昼、3人で街をさまよっただけ。夕方といっても、こちらではまだまだ昼のうち。
待望の、月の砂漠のモデル?鳴砂山・月牙泉を訪れる
初めて鳴沙山を見たときの感動は筆で表すことは出来ない。観光客と、ラクダの大群と、客寄せの声が、なかったら、もし、静寂の中でこの砂漠を見たら、感動は百倍といったら、中国風に言うな、といわれかねない。
それでも、やはり、すばらしかった。
松間氏はラクダの上で「月の砂漠」をどら声で唄っていた。右手に手綱、左手にビデオで
「月の・・・・・砂漠を・・・・・・は・・る・・・ばると・・・・・??のらくだは・・・・・行き・・ました・・・・」、
「砂山のてっぺんから、夕焼けを見よう!」ということになり、上の稜線伝いに砂山登山が始まった。
最初のうちは、くだんの松間和尚、石原裕次郎の「錆びたナイフ」を又、口ずさんでいたが、だんだん、「す・なや・・・まの・・・・・砂・・・・を・・」あえぎなのか、唄なのか分からなくなってきた。後ろから「カオリちゃん」に押してもらいながらの登山でした。
一向に、陽が沈まず、「あと、1時間はかかるヨ」との、近くにいた中国人の学生たちの話で諦めた。 降りは直降下・砂すべりで降りた。女のくせに、カオリおてんば娘も加わった。
おもしろかった。15元だった。もろぶたのようなのに乗ってブレーキもなければ、勿論かじもとれない。途中、転びそうになったが、なんとか下まで降りた。僕の後にすべったカオリが一番上手だった。しゃくだったけどほめてあげた。
鳴沙山のシーンをサムネイルで紹介しょう。
ゆっくりみてください。
鳴沙山・月牙泉
らくだと月牙泉
月牙泉は、敦煌の町から約5キロぐらいの距離にある。
鳴沙山にはいるには関門があって、切符を買って中に入る。
東西40キロ、南北20キロの砂の世界が目の前にひろがる。
らくだに乗るにはコツがある。らくだは馬と違って初めは座っている。
まず、乗ってこぶをしっかりつかむ。ぬくもりが伝わってくる。思ったより小さいこぶだ。
らくだは、まず後ろ足から立つ、従って、最初、身体を後ろにそっていた方がよい。
前に倒していると、落ちてしまう。(と言われた)。15元だった。
引き手のおばちゃんが「鈴を買え 千円 せんえん」とうるさい。多分これだけしか知らない
日本語でわめく、といった感じである。
大きなマスクを買ったけど、変な匂いがして、はずした。記念にもって帰った。新品のソニーの
デジカメ、サイバーショットが砂が入りそうでこわかったけど、「ここで写さず、どこで写す」と、
バチバチやってたら、案の定、スィッチを消しても引っ込まなくなった。「コリャ、ヤバイ」と思った
けど、そのうちに、直った。ホッとした。
莫高窟の中は撮影禁止である。
莫高窟は、敦煌の南東20kの所にあり、
鳴砂山と三危山の合流する断崖に約2キロ
にわたって、窟院が掘られている。
沖縄の守礼の門に似た門をくぐると、正面
にでる。
崖には、幾十もの穴が掘られ、ひとつひとつの
入り口には、アルミサッシがついている。
それぞれのドアには大理石の番号札がついている。
私達の案内人は、ガイドの董さんによれば、
「運がよかったです。この方(小太りの女性)は
有名な方で発掘関係の学術員の中でも幹部のかたで、説明が上手でガイドの中で定評があります。」とのことでした。 名前は忘れたけど、確かに、説明は熱がこもっていた。 もっとも、グループの熱意も高く、皆、学校の授業を聞く生徒のようで、メモをとる人、難しそうな質問を投げる人、・・・・びっくした
かの学術員は、あとで販売所迄ついて来て、土産品の説明にも、熱がこもっていた。松間さんが、しきりに関心して、「中国はこういうところがスゴイよな、学者が売り子になるんだから。」 といいながら、僕も松間さんも、飛天の掛け軸を買ってしまった。
前世紀末,前漢、西域貿易地として、シルクロードの隊商たちが旅の安全と、砂漠を渡れた感謝を込めて、この石窟に仏像や壁画を奉納したのだろうか。一説によると、紀元前366年(日本の縄文時代)楽尊和尚が対岸の崖下に立ったとき、向かいの三危山が黄金に輝き何千もの仏の姿が見えたという。和尚はここを聖地と定め、窟を堀り、修行をしたのが始まりだという。
石窟の中は思ったより広く、(狭いのもあったが)ひとつの物語が壁画に描かれたものや、西域にいたる地図もあった。天井には、どの石窟にも20センチ四方ぐらいの仏の画像が描かれている。
1900年に地元の王という道士がここで塑像を彫ろうとして、タバコを一服しようとしたら、煙が壁の割れ目に吸い込まれていくのを見て、不思議に思い、
壁を崩した所、そこから、膨大な文書が発見された、と言う。、
、もっとも、「・・・と言う。」という話は正確がどうか定かでない。別な本では、(1900年5月26日、と日まで正確に、王道士が雇った男に写経をさせていた所煙草の吸殻をいつもの癖で洞窟の割れ目に差し込むと、何処までも入るので不思議に思いその壁を壊して見ると・・・・・云々。
・・・まァ似てるからどうでもいいか。
敦煌からトルファンへは、列車の旅でした。敦煌駅(と言うのか判りませんが)とてもとても遠い所にあります。中国の広さをバスの中から実感した次第です。
駅に着いてからも2時間位、待ちました。駅近くのお店(土産品店)で、売り子のシャウジョをからかったりして時間をつぶす事でした。
やっと改札があり、ホームへ向かうころは暗くなってました。
なかなかの室内で日本のコンパートメント寝台車といったところでしょうか。
ホームに出てみたら群青色の空の黄色の月がありました。余りの美しさに、しばし呆然・・・・・・(息を呑んでるところ)・・・・。
4492ある窟の中でもシンボルとも言うべき
第96窟。 高さ43Mの赤い大きな建築物で
覆われている。砂漠の中で遠くからでもはっ
きり見ることが出来る。「アァ莫高窟へ来たんだ
」と実感できる。
中央に位置する弥勒菩薩像は、高さ34.5m
幅は12.5m。中国でも5番目に大きな像である。
泊まったホテル
3人極楽トンボ
案内人・董さん
陽関
元二の安西に使するを送る
王惟
謂城の朝雨軽塵をうるおし
客舎青青として
柳色新たなり
君に勧む
さらに尽くせ一杯の酒
西の方 陽関を出れば
故人無からん。
(西域に赴く友と別れの杯を重ねる寂寞の詩。)
鳴沙山の砂とは違った粗めの砂でした。
なにか、砂にも寂しげな砂というのがあるのでしょうか?それにしても、らくだやろばの「乗らないカ???」のお誘いおばチャン達には、閉口しました。
くだんの松間和尚も付きまとわれ、「イラナイ!イ・ラ・ナ・イ!」「ニホンゴ上手いね。」「ゴヒャクエン。」「イラナイ}・・・・会話が続くのでした。
王惟の詩の世界を味あってみたくなって、僕は子供の引くラクダにのって、チョット遠くへ行きました。結構いい気分でした。
和尚にまとわりつく月光仮面のおばチャン。トイッテモ,年は判らない。
結局、和尚達もロバ500円に乗らされました。
敦煌の町のスナップ
敦煌駅横の小店
青い青い空。(敦煌駅ホームにて)
「月がとっても青いから・・」
というのがうそと判った。
平山郁夫氏の絵が本当と判った。
トルファンへの車中で見た。砂漠へ沈む夕日。
・・確かに沈んでいくのだけど,そのとき僕は、何故だろう、今、地球が回っているんだ。「太陽は動いていないのかも、」そんな実感がした。
吐魯番・高昌故城
トルファンは新疆ウイグル自治区の東方に位置する。天山山脈の東がわにすり鉢状に落ち込んだトルファン盆地は、南北60キロ、東西120キロあり、昔から「火の州」ト呼ばれた程の灼熱の地である。
トルファンは中国で最も海抜の低い一帯で、盆地の底にあるアイディン湖は海抜−154mで、中東の死海に次いで世界で2番目の低さである。 夏の平均気温は40℃を超え、夜になっても30℃をくだらない。一方、冬は−20度前後で、時には−40度を超える寒さである。
年間の降雨量はわずか16mmという、極度の乾燥地帯である。
ガイドの董さんの説明によると、敦煌の降雨量は「カラスのなみだ」で、トルファンは 「雀の涙」というらしい。
5世紀には、漢族の王朝である高昌国が築かれ、640年に唐に降伏するまで栄華を誇った。
ウイグル族はトルファンの人口の8割を占める
伝統的な舞踊を今でも保持している。
17人を一つの組として踊る。きらびやかな衣装
を身に付けて葡萄棚の下で踊る姿は、独特で、
私達の泊まった緑州賓館(オアシスホテル)の隣
に劇場があり50元で、踊りを堪能した。といえば
、品がいいが、実際は踊りよりウイグル美女の顔
とボディに目をとられていた。という方が正しい。
ゾクッとするような美女たちだった。
トルファン市街の南東45km、火焔山のすぐ
南に位置するアスターナ古墳群からさらに4km
ほど南に行くと周囲5kmという壮大な故城に着く。 高昌故城である。
499年に漢民族の趨文泰が興した高昌国の時代は、最も栄えた時代だった。
経典を求めて天竺への旅を続けていた玄奘三蔵が、高昌王に懇願され、この地に滞在し、一ヶ月に渡って仏教の講義をしたことは余りにも有名。
高昌王から、黄金100両と銀3万枚、馬30頭,法服30具など 20年分の旅費を与えられて天竺へと向かった玄奘だったが、10年後に帰国の報告をする為に立ち寄った時には、高昌国はすでに唐に滅ぼされた後。町はただ荒れ果てた無残な姿をさらしていただけだった。
私たちが訪れた時は35度以上はあったと思う猛暑で、写真のようなロバ馬車に乗って行った。
何と、肩から刺繍の袋バッグを20から30ぐらい下げた女の子(10歳〜15歳ぐらいか)が馬車について走ってくる。
「5枚、せんえん。・・5枚、せんえん・・」とわめきながら。皆、なかなかの美人だ、一番年上の少女は特に日本語が上手い。ひとなつっこくて、それが手なのか、商売も上手い。遺跡の見学、説明聞くどころじゃない。「アナタ、クニ、博多?
ソレトモ名古屋?」ときたときには、一瞬、感動?してしまった。
結局、10枚千円で、20枚買った。相棒たちもつられて買った。全部で60袋は買ったのかナ
私達の高昌国めぐりの思い出は,酷暑と物売り少女たちと刺繍袋だった。
。
この少女が(名古屋?)娘。
名古屋娘の妹妹とか。
このロバ馬車に15人ぐらい乗る。
火焔山 サムネイル画像です。
西遊記の中で、孫悟空が鉄扇公
主と戦った場所としても有名。
こちらでは(赤い山)と呼ばれる。
はるか天山山脈を望む。
独り、西瓜を買って食べる。冷えてないのでまずかった。
こちらでは、西瓜は単に水分の補給と考えられる。
半分切ってもらい、3元(50円)だった。
ベセクリク千仏洞
窟の数は57有、南北約400mに渡ってかいさくされている。ムルトク河の両側は、緑豊かなオアシスの
雰囲気。松間和尚がとてもこの地を感動してました。僕は砂山登山で来てないので、後で、ビデオと和尚の感嘆を聞き、とても後悔・残念の思い強し。次回は必ず来たいもの。左端の初登場女史は独り旅常習者
この写真は千仏洞です。
トルファンの街・バザールでござーる。
シルクロードの夜のいろいろ。
烏魯木斉
シルクロード天山北路に位置する「民族の十字路」
トルファンの街歩きは長距離バスターミナル前のバザールから、というこでいざ出発!
古いビルを壊した後のような砂ぼこりの中を歩いていくと古びたモスク風の建物が現れる。
色とりどりの衣類や絨毯やウイグル族の帽子、カザフ族の刺繍などの店が続く でも何かおかしい 、「いつも見慣れた中国の屋台街とは何か違う」と思ったら、人の顔が中国の顔じゃない。
ウイグル人の顔を初めて見た。こういう顔をイスラム系というのか、美男美女といえばそうとも言えるし、彫りの深い、目が魅力的、そんな感じですか。
しばらくの間、店に並んでいる品より、周囲の人の顔をビデオやデジカメにおさめるのに熱中した。品揃えはバリ島のテンパザールのバザールに似てる感じカナ。
違うと言えば干し葡萄を売ってる店が多いこと。僕はハニ瓜なるものを買った。乾燥果物なんだろうが、甘くて美味しかった。
実は、日本に帰ってから判ったのだけど、ハニ瓜が原因であの後お腹をこわして、激しい腹痛と下痢に見舞われた。黄色い半乾燥のあんず、といった感じで、売り子のおじさんに試食を勧められて1個食べただけなので、まさか、これが原因とは、判らなかった。 干し葡萄を6袋とハニ瓜を2袋、ここで買って帰った。 店のスタッフに上げたところ、皆、気味悪がって食べないので、「これは、トルフアン名物のハニ瓜といって、有名なものなんだよ。」と自分で1個食べて見せた。それでも誰も食べなかった。そして、
僕のお腹はあの時と同じ状態におちいったのである。
ついでに翌日のウルムチのバザールでのことをひとつ。
左の写真だけど、店員同士の喧嘩が始まった。自分の客を取ったの、とらなかったのが原因らしいが、このエリアはナイフや刀剣類が何軒も並んでいた。最初は、取っ組み合いの喧嘩だったが、突然、上から下げて陳列してた。サーベルを抜いて相手に切りかかろうとした。二人とも激情してたので「ヤバイ!」と一瞬思ったが、後ろから誰かがパッと止めて惨事にならずに済んだ。 抜いた瞬間のチャリーンという金属音がしばらく耳に残った。
運命のハニ瓜を食べるところ。
喧嘩のシーン
ウルムチ・バザール
夜のいろいろといえばワクワク話しと思われるかも
知れませんが、実はその通りです。
一度はエキゾチックなローラン王国の美女にスキンシップ
を体験したいとの夢と憧れを抱いておりました。
ガイドの董さんがニヤニヤしながら、「今夜、案内しましょうか?」
「ホント?」ということで、ワクワクドキドキ出かけました。
「まず、足つぼマッサージから始めましょう。」
「夕べも良子(中国の健全エステ)でしましたヨ」と答える。
9時頃だろうか、葡萄棚の延々と続く床はカラータイルの道
を董サンのあとを続く。「良子より少し落ちるけど、変な所では
有ません」董さんが応える。 20分ぐらい歩いただろうか、
8階建ぐらいの建物に案内された。「ここはホテルです」董さん。
もう、かなり かなり薄暗い。董さんがいなければ、ゼッタイ
行きたくないところ。恐さと好奇心が階段を押しやる。
ドアを開ける。なんてことはない普通の現地人用マッサージ室
10台ほどベッドが並び5人ほど客がマッサージ中。
皆で靴下を脱いで足つぼをしてもらう、結構上手い。値段は
良子の半額位、それでも、日本人料金だと思う。50元(750円)
は高い。麗江の街のマッサージが90分80元だったから、
そんなものかも知れない。
「気に入らなかったら止めてもいいです」
足つぼマッサージが終わり、靴を履いてると、董さんのニヤニヤ
顔があつた。どうしょう。周りと顔を見回す。「まあ、見るだけ見て
みるか」案内された個室のドアを開ける。
ローラン王国の美女が6人ほど、我々の目と彼女らの目と一瞬
ぶつかる。しばし、時間がとまる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々、眼でスキンシップしあう。そして、ゆっくり首を横に・・・・
だまってドアを閉める。
「よし!カラオケに行こう。」董さん、ニヤニヤ人ナッッコイ顔で
われわれを案内。歩くこと20分、とあるビルの地下に案内する。
誰も客のいないうら淋しい場末のカラオケ屋でウイグル美女ならぬ
??族の小姐たちと訳のわからる歌を唄ってトルファンの夜は更ける
のでした。
緑州賓館はトルファン一の高級ホテルでした。
ここのカラオケルームのほうがよほどよかった。
明日もウルムチでウイグル美女とスキンシップできるかも知れない。
そんな夢でも見ることにします。
ホテルのカラオケルーム
ホテルのロビー
地下のカラオケスナック(高昌路の北)
ローラン美女の踊り
1階エレベーター横でおじさん(自称 有名_画家)がTシャツに
シルクロードの絵をかいて売っていた。1枚10元とのこと、安かったので
20枚買った。
いつも旅に出る前は、しっかり予習をしてから出かけることにしているのだけど、今回のシルクロードの場合は何故か、行く先の観光地リサーチを殆どしなかった。その結果が昨日のペセグリク千仏洞のキャンセルだったりで後悔しきりである。
ウルムチの場合もしかり、可愛いガイドの馬さんの案内(といっても、一生懸命説明してるのだが、バスの中でもこの4人、何も聞いていない。4人だけの会話に熱中している。何の会話なら、そんなに夢中になるの?聞かれても返事に窮するのだが・・・・)バスがどんどん上に登っていく、スキーリフトみたいなのが見えてきて砂漠を過ぎてきたのが嘘のような
霧島の妙見を数倍高級にした、スケールのでかい観光地に来た。
雪解け水のような渓流と言うか、川があり、河原には大きなレジャー用のテントがいくつか群落を形成し、しばらく登っていくとまた同じよう_光景にぶつかる。てっきり、高級ハイカー達のレジャーだと思っていたが帰ってから本をみてたら・・族の生活集落らしかった。まじめに馬さんの話を聞いてたら多分説明があったに違いない。
大きな湖に出た。初めてここが天地だと知った。
具体的に説明すると、途中でバスは止めて、電気自動車(歩くのと大差ない、何故?)に幾らかお金を払って乗る。そして、天地に着くのである。
はるか(東西南北)のかなたに雪を戴いた天山山脈が尾根を連ねている。巨大な絵をみているようだ。
タダの記念写真ではつまらないので、変装(コスプレ)をして馬上写真を撮ることにした。僕はウイグル娘の衣装を着た。和尚に隣の健さんが「松間さん、立たないね」と訊いた、答えは「イヤダヨー」だった。
4人の中でサングラスをしたウイグルの首領に変身した松間先生が一番受けた。実は僕の写真にするか先生ののにするか迷った。
ここで馬さんと写真を沢山撮った。天地をバックに良く映える被写体だった。カオリ姫は何処に行ったのかナ。そろそろ、左に奇妙な魚が登場してきた。
なまずの仲間だろう。目と口をあけているので、とても食べる気にならない。
よくよく話題の主になる松間先生がついに言った。
「わたしはもうイスラム料理は食べない。胃が受け付けないと言ってる。弟さん、さっき、どこやらに寿司屋があるって、言ったよネ。そこへ行こう。馬さん 知らないだろうか?」腕組みをしたまま料理を見ようともしなくなったのである。
寿司屋行きが決まったら皆もたべなくなった。
大体ツアーの時は、8人掛けのテーブルで、同席のときは年配の方が多いので我々4人がテーブルのほとんどを平らげる。 だから 4人が食べないと結構凄い光景になる。
おまけにイスラム料理の量の多いこと、 皿が減らないから店の女たちも遠巻きにしたままお互い顔を見合わせている。 なにやら調理場の方からは 次の料理が来てるらしい雰囲気。 歓迎してくれてるのか こんな時に限ってメイドの数がやたら多い。
腕組みをしたまま、そっぽを向く先生。箸は持ってるがフリーズしたまま動かない健さん。デジカメの何やらを始めた孝ちゃん、・・・現場から、お送りしています。
ウルムチの日本料理屋「平政」はなかなかの本格日本料理店だった。馬さんに案内され、ウルムチの目抜き通りを歩くこと15分ぐらいで平政に着いた。玄関入り口といい、よく外国であるジャパニーズレストランとは違い、ここなら美味いかも・・・そんな、予感を感じる店だった。素敵なオカミ村山さんと楽しい会話の中で食べたすしも予想を裏切らなかった。冷奴、焼き魚、納豆、刺身、味噌汁、すべてグーでした。
馬さんは「うどん」を食べた。・・・・満足のディナーでした。
天地
平政の玄関 寿司(上海直とか) 女将の村山さん 馬さんと孝幸くん 街の風景
西安
西安の街は広い。鐘楼(チョンロウ)を中心に東西3.8km、南北2.8km、一周約14km。旧市街なら、たいがい歩いて回れる。しかも、タクシーが中国一安い。余りいい車ではないが、安くて安全、たいていの所なら5元から10元の範囲でOKだ。
繁華街で一番賑やかなのは駅から南下する解放路と鐘楼を中心に東門へ抜ける東大街、南にむけての南大街も大きなデパートやショッピング街が連なるオシャレな通りだ。
キャッスルホテル(全日空系)に泊まると、南門城外の超広い公園広場から南門をくぐると、なかなか車が多くて渡りにくいロータリーがある。右に向かうと古文化街がある。なかなか面白いところだ。筆、印鑑、数珠、掛け軸骨とう品と古い時代の品が軒を連ねている。どんどん小道を歩いていくと、中国最古の博物館、碑林(ペイリン)博物館にでる。陝西歴史博物館はよくツアーコースに入っているが碑林は入ってない場合が多いらしい。
もともと孔子廟だったところで、漢代から清代までの3000あまりの石碑が保存されており、拓本の販売もある。
とても美しく静かな庭園博物館で、どちらかといえば、こじんまりした感じだけど、きっと又来たくなる場所(僕自身の好みかもしれないけど)だ。横にある孔子の廟?は撮影禁止になっている。(知らずに写して怒られた)ご注意!
鐘楼の鐘を突いて見たい。・・・2年前の願いを果すべく、陳さんご両親に案内されて、鐘楼へ急いだ。
歩道から地下道をくぐっていくと切符売り場がある。今回は陳夫妻に奢られっ放しで申し訳ない。入場料金は分からなかった。
丁度時間がよかったのか古典音楽のライブ5人で演奏
を見学できた。東西南北の各門をバックに記念写真やムービーを回した。そして、一人一人想いを込めて鐘を突いた。西安の街に鳴り響いたことだろう。いい気持ちだった。
カオリさん記念の似顔絵モデルとてもかわ
描けていた。見物もいっぱいだった。
イスラム料理とは違う。松間先生の微笑んだ顔が
そのあかしである。これは、昼ごはんです。 陳ご夫妻と。
写真は全てサムネイルです。お好きなのはクリックしてみてください。2枚目と3枚目は、香茶を買いに陳ご夫妻に連れて行ってもらった店で、店の小姐に一服また一服と・・計10回ぐらいの試飲を楽しみました。下左の5人のピャオレン小姐たちは私たちを窓越しに覗いていたのを逆キャッチしました。2年前は日本と同じかかとの高い底上げシューズでしたが、今はみなローシューズです。4番目は、東大街の路上スナップです。この日は、この路を4,5回往復しました。この付近から右へ、夕方になるとスケールの大きい、長い屋台街になります。
鐘を突く孝幸くん。 たしか南門をバックに記念写真と思う。僕一人の写真は西門、シルクロードへの出発点、を望みながらの一枚。どうぞ、大きい写真で見てください。
掛け軸、印鑑、鳥かご、印肉、筆・・・みやげ物をご夫妻に選んでもらう。半日かかりいました。主に・古文化街で買いました。すべてが極安・それはもうビックリねだんです。ちなみに、掛け軸、高いので1000円、文字だけだと800円ぐらい、友誼商店だと、おそらく、1万から2万だろうか? 筆も印も右に倣えでした。
この写真群は説明が面倒。左は急速2接近した二人。意気投合。次は陳さんのお父様の書かれた書に、お母様の挿絵。プレゼントされました。中の子供は間違って入ってしまった孫娘MIU。その隣は鐘楼のすぐ近くにある有名なギョーザ専門レストラン徳発長の入り口の水槽にいたカエルさん。とテーブル席。
あとがき
まだまだいろいろ書きたいこと、載せたい写真、声入りのムービー、など、発射不満(意味は分かるでしょうか)一杯のシルクロード浪漫紀行でした。
特に中国語がというか文字が勉強不足で挿入できず。もっと楽しい文が書けたのに、断念しました。又、くだけた、ナンパものも、書きたかったけど自尊心と他に迷惑がかかっては、と遠慮しました。その辺は別章の中国的朋友の方で書いてみたいと思います。
2001・11・20(火)am2:15
大石けいじ
大理空港
大理故城
崇聖寺三塔
蒼山を背に三本の塔が天にそびえる大理のシンボル
大塔は方形で13層、高さ69・13メートル。
典型的な唐代様式の仏塔で9世紀初頭の建築とわれるが詳しくは不明。小塔は八角10層」、高さは42.19メートル。こちらは五代の建立といわれる。
素晴らしい景色をサムネイル画像で大きくして見て下さい
南北の長さ41kmの人間の耳の形をした湖。
湖中の小島には小普陀と呼ばれる寺院が建っている。
小普陀
雲南へ行こうと思い立ったのには三つの理由があった。
まず,世界花博覧会が昆明という所(その頃は未だそんな程度の認識だった)であり・昆明は別名を春都と言われるぐらい美しい街だということ。二番目にNHKが五日間連続で雲南地方の特集番組を組んだこと,勿論VTRで数回見た。「よぅし、少数民族に逢いに行こう」と。最後に高校の仲間の新聞「八期通信」に上山絢子さんからの寄稿に「玉龍雪山」を読んで決まったと言ってよい。
抜粋紹介しましょう・・・・・訪れたのが玉龍雪山だった。雪をかぶった連峰が空から見ると龍の形をしている。前人未踏の最高峰は5994m。中腹の雲杉坪(3400m)までリフトで上がり近々と雪山を見た時,素晴らしさに息を呑んだ。そして、「私はこの山に呼ばれたのかもしれない」と思った。
街は五十年前の鹿児島を思い出すような感じで荷車をひいた驢馬や自転車・豚の親子と同じ道を観光バスは走った。・・・・・・・・
雲南の春を行く。
大理
白族が客人をもてなす際に供されるのが三道茶。苦味から始まり、甘味、軽くしびれるあじわいへと、三種類のお茶で一通りになっている。
すこぶる美人ぞろいで踊りの合間に我々に回ってきてお茶を振舞ってくれる、ニコッとほほえみながら、こちらもついニコッと返したくなる。
男も一緒に踊るが目はいかない。
屑今
白族(ペー族)の村
湖蝶泉
こちょうせん
幅7〜10メートルの大理石の欄干をめぐらした泉
湖蝶泉の近くで古くからある白族の村、藍の絞り染が盛んで女たちが集まって仕事をしている。
現地のガイドをしてくれた小姐?さんが屑今を降りた近くにある自分の住んでいる部落を案内してくれた。狭いところに石造りの家がある。殆ど人は見かけなかった。
聞いたら田植えに行ってるとのことだった。月収は日本円で大体1000円から3000円位だそうだ。
真ん中に見慣れたおじさんが写っている。本人の名誉の為に弁解しとくと無理矢理とのことだった。
文字は郭沫若氏によるものと聞いた。
リー ジェン
大理のホテルの部屋から見た大理石の工場
ビルの屋上に緑色の丸いもの、多分,想像するに
貯水槽のようなものと思われるが、異様に見えた。
麗江を一語で表すと、私は水と言いたい。
ナシ族もキーワードのひとつ。
大理の概要
市中心の標高は・・・1976メートル
人口は・・・・・・・・・・42万
内ペー族が・・・・65%
年間平均気温/・・・15度
1月の気温・・・・・・9℃
7月の気温・・・・・19.4℃
738年・・・・・・・・南詔国
937年・・・・・・・・大理国
1253年・・・・・・・10万ノモンゴ
ル軍が雲南の地 に入り大理を
攻め滅ぼした。
元の王朝は行政の中心地を大
理から昆明に移したため大理
の栄華は500有余年で終わ った。
左にいるペー族の衣装を着た女性は私たちのガイドで、名前は忘れた。ペー族にしては色が黒かった。けど、とても優しかった。
ペー族の部落があり、中の藍染の家、というより工場兼販売所に連れて行かれた。
相棒の二人は娘や、奥様のみやげに、といって懸命に選んでいた。
多分ペー族の民家と思われるなかなか立派な建物である。福の文字が良く目に付いた。
もしかしたら、店かもしれない。
ペー族の村
大理古城から北へ24キロ行った雲弄山の麓にある方形の泉
若い男女の悲恋の伝説があると聞いた。今でも旧暦の四月十五日に二人を偲んで祭りが
ひらかれるらしい。
とても可愛い娘たちだったのでシャッターが止まらなかった。ペーもどきかもしれない。
ホテル(格欄大酒店)より南に5分ぐらいの所にある。このあたりから格好のブラブラ散歩道が続く。
納西古樂
ナシ族の伝統的な音楽を、古代の象形文字や神様の絵を施した内装の会場にて鑑賞できる。演奏は老トンパガヤクの角を持ってお経を唱えてのち、厳かに始まります。琵琶や低胡琴や、古代ペルシャの楽器、モンゴル族の弦楽器・蘇古篤(そくど)などを用い、独特の雰囲気をかもしだす。
僕と兄はガイドの小姐がなにやら、老トンパの親戚とかで、それこそ一番前の席で見させてもらった。右から二番目の楽師が亡き父・実るさんに似ていて、兄と「アレッこんな所に生まれ変わったんだろうか」と笑いながら語ることだった。ちなみに、老トンパは左から二番目
の人。
兄はいたく気に入った様子だった。僕は少し眠たかったけど、何しろ。一番前だったので
楽師等と目が合うことしばしばで、我慢していた。目の保養になりそうな可愛い小姐の出番はなく殆どが年配だったことも原因してたかも知れない。
サムネイル画像です。
玉泉公園
1737年に造られた。橋の向こうに天気の良い日には雪をいただいた玉龍雪山がそびえ、それが湖面に映り、素晴らしい光景となる。左上写真、頂上が雲に覆われているのが、玉龍雪山。
街のごく自然な生活、人々、市場、屋台・・・・人々の営みの風景です。
大理から麗江へはバスで行った。約3時間ぐらいだったか。こちらの田園風景と殆ど代わりがない。途中、田植えの光景に出会った。バスを止めると,気づいて、おばさんが手を振ってくれた。よくあるシーンなのだろう。走っているとどんどん高く上っていくのが分かる多分、標高3000メートル近くだろう。桜島の3倍の高さと思うと驚く。でも、山の中腹のゴルフ場にでも行く途中のような気がしないでもない。
何回か部落(村)に出くわす。家々の造りで「アッ今雲南地方を走っているのだ」と思う。建物が専門の第一工大の田良島教授なら。「部落の建物」をデジカメでせっせと写されていたにちがいない。
教授のためというわけではないが麗江の建物について言うと、当地は、木造建築を良く見かけた。
中国を毎年歩いていると建物の工事現場に良く出くわすが、殆どが鉄筋かブロックかまだレンガ造りにもお目にかかる。ところが、麗江では木造を良く見かけた。なぜかは分からない。1996年の大震災で木造家屋の方が壊れにくかったのかも知れない。
もっとも、麗江の街の歴史が、木造家屋と石畳で成り立っている。その昔、麗江を支配していた、木?と言う名前の人が、自分の名前が「木」だから街を城壁で囲むと「困」になってしまうので城壁も造らなかったらしい、それから考えると建物も木造を推奨したのかもしれない。ともかく、麗江の街が何故かしら、しっとり落ち着いて居心地がよいのは、木造家屋・石畳・綺麗な水があふれるように流れている水路・暖かい気候・そのハーモニーが絶妙に旅人を和ませてくれるからではないか。まあ今流に言うと「癒し」の街といったところか。
東大街をまっすぐ行き橋を渡ると、そこは世界文化遺産・四方街だ、納西族の部落が広がる。
二軒ほど、ガイドに案内してもらって、屋敷内を案内してもらった。こちらで言うと、知覧の武家屋敷で
住まいながら、観光客に開放している、と言った感じかもしれない。真ん中の写真もそうだが、住人が近所の
友達と麻雀に興じていた。私たちが覗いても、殆ど無関心な所を見ると、日常茶飯事に見学されているのかもしれない
。
四方街
新華街と東大街は水路を挟んである。
左写真は東大街・下は新華街である。
半日ぐらいの滞在で、後はあちこちの観光地
めぐりだった。出来ることならせめて、二、三日
は逗留してこの付近に馴染んでみたいと心から
思った。
今まで回ってきた中国のどの界隈にもない雰囲気をもった街だった。
例によって、松間和尚が真鋳のなべ釜・急須・薬缶・箸もろもろに目がテンになって30分は値段の交渉にかかった。・
いつもの光景だが、これもまた私たちの旅の楽しみと言える。
生きた中国語会話の最高の現場なのかも知れない。
清流の横に4人掛けのイスとテーブルを置き食べ物を食べたり、アイスクリームなめたり、はてはマージャンに興じたり、呑気に土岐を愉しんでいるように見える
。
玉泉公園の中にある**楼で双腕のない若き日の陸上選手が口で書を書いていた。
又、トンパ博物館では,老トンパがトンパ文字で客の希望の文字を書き販売していた。
編集後記
2002年1月14日成人の日が過ぎてから大理・麗江紀行「雲南の春を行くはスタートしました。
1月13日は近辺商店街の合同イベント「ゆめの市」がありそれのホームページ作り、そして又、15日には新しい超低床電車「ユートラム」の出発式のホームページ作成。と続きとても忙しい1週間でした。
百枚以上のデジカメ写真と、ムービーからとったスチル写真をどう組み入れていくか、楽しみと苦しみの1週間でもありました。
出来れば、もっとゆっくり文章を打ち込みたかったのですが、毎度のことで写真の説明文で終わっています。フン切りの悪い文章で、そのうち形態を変えなければと思っています。例えば、文章をメモ書きして、その文章を打ち込み、修正しながら写真を選ぶ・・とか。
このあと、石林や昆明などを作って記録に残していきたいと思っています。
2002・1・19・ おおいしけいじ
石林 昆明
シーリン クンミン
ちょうど石林の、今から公園の中に入ろうかと言う時でした。太陽の周りに円い虹
が架かっているのです。
案内の高牧女史が「コレッテ、スゴーク珍しい現象なんですヨー」と大声で皆に教
えてくれた。どういういいことがあるのかは聞きそこなったけど、あわててカメラを向けた。
結構綺麗に写っていた。
昆明市から120km 車で約1時間30分で石林に着く。ガイドをしてくれるのはサニ族の女性。
小石林区」と大石林区そして外石林区とある。
見渡す限りの岩峰はかなりの迫力で迫ってくる。
岩と岩との間をぬうように小道が続く。観光客の流れが切れ間なく続く。 言葉は中国語のようだけど聞きなれた中国語とは少し違う。台湾語か広東語かもしれない。
とても賑やかで、まるで、花見にでもきてるよう
だ。
最初はビックリしたけど人の目は不思議なもので段々慣れてくると、疲れだけが気になって、素晴らしい筈の奇岩を見ていないのに気づく。
天を突くような、鋭くとがった剣が連なったような光景が延々と続く。
左の写真の岩を見たとき、一瞬、屋久島の宮之浦岳の頂上付近の岩を思い出した。綺麗にスライスされた状態がとても似ていた。
どういう現象なのか分からないけど・・・・・
・・・と、考えながら歩いていたら、またまた同じような岩に出くわした。
ガイドに聞いてみたら蓮花峰とかで、いただきに
蓮の花のような巨岩が寝てるように見えるから名が付いているとのことだった。
巨大な屋外ステージがあって、そこではサニ族の
美男?美女の若者たちが民族踊りを披露してくれる。観客の旅行者も勝手にステージ近くまで来て記念写真をとる。一人が撮ると必ずドド^ッと連鎖反応が起こる。
約2億8000年前まで、ココは深い海の底だった。
海底の石灰岩層が海水や炭酸ガスによって侵食
されさらに地殻変動によって露出したあと、長い時
間をかけ風化していき鋭く尖った剣が無数に大地か
ら突き出たような景観になったと考えられる。
右端の写真は円い階段、球場のようになっている。見学してる観光客、良く見ると兄がいる。
昆明の街の風景
街の雰囲気、スケールは博多と言った感じ、とても綺麗な街である。中国特有の雰囲気が感じられない街である。舗道が実に良く整備されてる感じ、交通ルールも良く、信号でしっかり人が待っている、そんな当たり前の我々の感覚がそのまま通用している。
東風東路から東風西路の約5キロ四方の街なので徒歩とタクシーで回れる。
ホテルの外にあるテラスでコーヒーを飲んでいる僕ら。
昆明は年平均気温が15度と言う穏やかな気候に恵まれ、年間を通して花と緑が絶えないため「花の都」とも言われている。
昆明には今でも20以上もの少数民族が暮らしている。
14世紀ごろの元の時代に省都を大理から移って以来、雲南省の中心地として栄えている。
西南地方とも雲南とも又その昔紀元230年頃は蜀の国、あの劉備と諸葛孔明の地であった。
そのあたりをひとまず旅してきた。記憶に留めておく程度の旅といえる。
何時の日か、それほど遠くない頃必ず訪れるつもりである。そのときは、文の内容も
、きっと変わっていることと思う。
固有名詞がいっぱい出てきてることと思う。物語が生まれ、路地裏の人々との会話が
増えることを期待している。願わくば、可愛い小姐(シヤゥジョ)の友達でも出来て、
もしかしたら、友達以上の関係になっていたり・・・・
そんな夢を見ながら僕の雲南の春は終わる。
2002年1月23日 おおいしけいじ
西安観光1999
とりあえず写真のみ貼ってあります。コピーはおいおい入れていく予定です。
兵馬俑坑博物館
華清池
玄宗皇帝が楊貴妃との日々を送った。
大雁塔
慈恩寺境内にある。高さ74メートル7層
インドより経典を持ち帰った玄奘三蔵が翻訳した仏教経典600部あまりを収めるために建立された。
西安碑林博物館
書院門
日林博物館に隣接する古文化街通りには書画や骨とう品、筆・掛け軸小鳥、印鑑など,500メートルにわたって軒を連ねている。舗装工事中でこの年はゆっくり歩けなかったが2年後行った時は
すっかり綺麗になっており、いろいろな買い物をした。
別棟にある孔子廟宋の時代のいろいろな遺品が
陳列してある。撮影禁止らしく知らずにムービーを回
していたら係りのおばちゃんが飛んできた。
知らなかったと謝った。
西安屋台村散策
西安・南大路〜東大街の夕暮れから・・・ブラブラと。
左〜右、左〜右とゆっくり、ゆっくり眺めてください。
古の都・長安の面影を偲びながら・・・
南門にある長安城堡大酒店
(全日空系)こちらではキャッスルホテルで
タクシーの運転手は通じる。
ライトで縁取りした南門
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疲れ果てて、部屋でマッサージをしてもらった。ミニスカートの可愛い女だった。
気に入ったので次の日も頼んだ。
2500円だった。1時間たっぷり。
ホテルで頼むと、大体、こんな相場らしい
外ですると、1500円ぐらい。連れがコーヒー飲みに行ってて、ウッカリ外に出たら中からカギが掛かってしまい中へ40分ぐらい入れず、ユカタのままで30階位の中廊下から下を眺めていた。左端に見えるピアノから「北国の春」が悲しく聞こえてきた。遠くにボーイが見えたので、大きく手招きしたのだが、勘違いをしたのか、笑い顔で手を振って返した。悲しかった。
折角按摩でほぐれた筋肉が又固まって行くような気がした。
、
番外編
西安で見かけたチョットナイスぎゃる。右端は美容室。
体形が日本人?
埒革梨壓型寂阻!!
ヤオシー ワン ザイ ファンジェン ラ
(部屋にカギをわすれた!!)
美容室はとても多い。
西安に行ったらツアーから離れて単独行動をとりたい、と
旅行社側に申し込み段階で言って置いた。
大雁等〜陝西博物館と市内タクシーに乗り単独ツアーは始まった。 未だまともな中国語は使ったこともなく、通じると思っていた多少銭(ドーシャオチェン)これ幾らですか?も北京の朝の公園で売ってたパンを買うとき、言ってみたら、全く通用せずじまいで、すっかり自信をなくしていた。
後で分かったのだが四声つまり中国語独特のイントネーションが全くなってなかった。 そんなわけでタクシーに乗ったはいいが行き先を到と去ををうまく発音できるか心配だった。
なんてことはなく通じたので喜んでいたけど、考えてみればタクシーだと地名さえ通じればあとは言わなくてもいいことがわかった。
助手席に乗っててビデオムービーを右や左や向けながら時々後ろの仲間に声を掛けて、うるさい客だと思ったことだろう。夕方5時前に城外コースを終わり、ひとまず長城/全日空ホテルで服装を変え碑林から古文化街へ向かった。
安物と言ってもなかなか上等に見える筆をみやげに買ったり、博物館では玄奘三蔵の馬に乗った拓本を買う仲間もいて
結構楽しい時を過ごした。
晩御飯はなるべくこちらの人たちが普段食べてるような所で食べてみよう、と路地裏を選んで歩いた。店前に大きな釜を出し、ゆげがモウモウと立ってる店があった。
宮尾さんが「僕、こんなシーンテレビで見たことあります」ということで「よし、ここにするか。」と中に入ることにした。1時間ぐらい筆談まじえで、店の従業員に加え近所の店からもギャラリー会話の助っ人がきてもうムチャクチャなシチュエィションとなった。
まあ出てくるものは、食べられさえ出来れば何でも良かったし、結構美味しかった。「ハオチー」を連発して店を出た。ちなみに料金は4人でビールを3本ほど飲み40元位だったような気がする。日本円で600円位かな。
三峡下りと三国志の世界を訪ねる旅。
2002年3月29日より八日間
コース:成都・・大足・・重慶・・三峡・・武漢・・上海・・
青海チベット高原のタンダラ山脈に源を発し、全長6380キロの
長江は、中国第一、世界第三位の長さを誇る大河です。
日本では明治以来『揚子江』の名で親しまれてきました。
重慶から武漢まで、上流から瞿塘峡・巫峡・西陵峡と続く全長189キロが三峡遊覧船のコースで、遊覧船は閤魔大王伝説が残る『鬼城」がある豊都、「三国志」に登場する張飛の霊廟、白帝城で知られる奉節をめぐります。
しかし、2009年完成予定のダム建設で三峡の景観の殆どが失われてしまうと言われています。
三峡ダムとは現在の葛州覇ダムの少し上流に185メートル幅2キロの堰堤を築いて洪水調整機能と1820万kwの発電能力を有する水力発電所を設置する世紀の大プロジェクトです。
1820万キロとは日本の最新原発18基分に相当します。
三峡ダムが出来ることによりダム地点で水位が185m高くなり、この影響で600km上流の重慶市まで及ぶと言うことで当然のことながら途中の三峡の地点でも100〜150m前後の水位上昇となって流れもなくなり峡谷美が失われることとなります。
沿岸の人々120万人が立ち退き、多くの史跡も水没することとなり惜しまれます。
一部を
http://www.sakai.zap.ne/// 参照・引用。
写真は撮影禁止になっていました従ってここに載せてある写真はdvムービーで撮影した(隠して)
ものを、スチルにしてあります。中国では禁止を犯すことにまだ共産軍のイメージが強く、没収されかねないので怖い所がある。実際は多分それほどでもない、と思うけど。
まだまだ現在発掘中です。下の写真などバラバラになっています。八
大雁等の最上階の窓、といっても穴が空いてるだけだが
はるか西域を望む。
カタコトの中国語は殆ど通じないので
結局は筆談と相成った次第。
右の小姐が英語が少し出来たので
英。中・日三ヶ国語での料理の説明となり、
それはそれで、結構楽しい時間でもあった。
三峡クルーズ・三国志の旅は新しいサイトで紹介します。クリックしたらジャンプします。
大雁塔は、西安に残る最大の唐代の遺物である。
高さ64メートルの塔は648年に高宗が亡き母のために建立した慈恩寺の中にある。
三蔵法師がインドから持ち帰った経典を保存する為に石と青レンガで作ったと言われている。
螺旋階段を上がると北側には西安の市内が見える。
下のほうには新羅の円測・窺基の舎利塔が見える。パリのエッフル塔のように、西安市内のどこからでもよく見える。まさに、シンボルと言える。
最初の西安訪問時に4人で、最上階まで登った。
日本の城、長野の松本城や大阪城など、上に行くに従い段々狭くなっていく、あの体感はいずこも同じであった。
ただ、さすがに頂きより西の方を眺めると、果てしなく続く一直線の道路の地平線の遥かかなたはシルクロードへ続いているのか・・と、つかのま、感傷にに浸った。
新しいページが出来ました。内容は自信ありませんが、紹介程度にゼンモヤン?