崎元 雄厚
マリでは、送ってくれた玉竜高の会誌・住所録を楽しく読んだ。マリの3年間はとても楽しかった。現地語で国名の“マリ”、首都の“パマコ”とはそれぞれ動物の“かば”、“わに”を意味する。マリには日本大使館、JICA事務所はなく、公的日本人は小職1人、民間人は25年の長期滞在者が1人いるだけであった。この他、マリにくる日本人は、日本政府の各種援助のため、1月〜3月の短期滞在者は年間30人〜50人、短期訪問者は、ミッション関係50人〜60人、観光客100人〜200人である。マリの文化基盤は農耕民族的であり、明るく、とても人柄が良い。かつ、美人が多い。
マリは、世界210ヶ国で下から10位に入る貧乏国。1人当たりのGDPは、年間250ドル。人口1100万人、85%は農民。主な産業は、金と木綿。田舎では、マンゴーは1個1〜2円。
あちらでは、酋長を名乗っていた。イスラム教がマリに押し寄せてきた時、イスラム文化の受け入れに最後まで抵抗した種族に“ボボ族”がいる。オイのカウンターパートは、立派な男でボボ族である。それで、ボボ族の酋長を名乗ることにしたのである。なんとまー、あちらの言葉では酋長は“マンジユウ”である。事務所では、小職は“ボボ族の酋長、サキモト”と呼ばれていたが、50m四方にばっちり届くような女の子のカン高い黄色い大声で、毎度“マンジュウ、ボボ、サーキーモートー”と呼びかけられた。
我々、地質技師のような職業に従事している場合は、人里離れた“瘴癘地”での仕事が少なくない。マラリア、デング熱、軟骨の解ける風土病、寄生虫病にやられるケースもある。小職はカラハリ砂漠では、テックフィーバにやられ、マダガスカルでは、足の指4ヶ所に卵を生みつけられたことがある。慶応大皮膚科、寄生虫の検査センターでもついに何の卵か不明のまま。小職の2人前を歩いている仲間が足の間をニシキヘビに通過されたこともある。可哀想にそれは即、人夫に首をはねられ、焼肉となったが(味は、蛙、トカゲ、鶏と同じ。肉は硬く噛み切れない)。夜になると、人家の周りを咆哮して獲物を捜しまわる虎、虎の犠牲になった村人、人食い虎の住みかと村人が呼んでいる山での調査。蛭の多い処では、蛭にやられて両足の指の間8ヶ所から鮮血を垂らしながらビーチサンダルで山を踏査する人夫、チンポの先をかまれた人、或いは肛門に入られた人もいる。
睡眠中、蛭に白目をやられた人もいる(黒目をやられると失明する。また、睡眠中、耳に入られると鼓膜を破り、頭の中に入るので注意しろと先輩にアドバイスを受けた事もある)。蛭の多い熱帯ジャングルでは、人が通ると無数の蛭が一斉に立ち上がり、地面の枯葉がカサカサ音を立てる。しかも、頭上からは蛭がぽたぽた人を目掛けて落ちてくる。蛭にかまれたら、3、4日は出血が止まらず、かつ、とても痒い。治るまで10〜14日をようする。毒蛇の話になるときりがない。テント内まで入ってきたケース。水浴びのすのこの下にコブラが潜んでいたケース。小職でも毒蛇に関して、天の神様が譲ってくれたとしか思えない経験を4回している。
生えている。踏み潰したら、緑の体液がぐにゅっと出るような、殆ど生の状態。彼等のおいしい、貴重な蛋白源らしい。信州の蜂の子も蛆虫みたいで気持ち悪く、食べたことのないひ弱な日本男児。To eat, or not to eat, That is the ultimate question. まさに、ハムレットの心境。
砂漠、サバンナ、熱帯ジャングル、そして一歩歩くにも息が切れ、頭のガンガンする高度4500〜5000mでの調査。あるいは、水面下5000〜6000mの海底資源の調査。かくして、地下資源は開発される。調査から生産に至るまで約10〜12年を要す。しかも、成功する確率は大変低い。
最後にマリでは、マラリアは日常的に見られる。しかし、「マリ人の場合、子供の時にふるいにかかり、それに打ち勝ったものが生きているのである。日本人の場合、条件が違う。ひどいマラリアの場合、“時間との勝負”」という医務官のアドバイスをお忘れなく。
人様に教えられ、お世話になるばかりの毎日を送っているが、人生とは実に楽しいものだ。では又。
ヤァ・ヤァ・ヤァ」
浜崎 隆
JICAの仕事で、アフリカのマリ共和国に行ったまま、猛獣の餌になったか、マラリヤで斃れて彼の地の土となりはてたか。ここ3年程、音信不通だった。崎元雄厚君(旧姓:宮元)から久しぶりの便りがありました。紙面の都合で削るのが惜しい面白い手紙です。まあ、彼のアフリカ談義、お笑い下さい。
編集部注:最近の顔写真を送るよう宮元くんに電話したところ、送って来たのがこの写真だそうです。彼の現地妻だろうか?と語ることでした。
それにしても、美しい形をした***です。
貴方はヒルを捕るか?それとも**を獲るか?
ハムレットの心境です。
「桜島一週の予定が錦江湾奥一周のサイクリング 昔々のノンフィクション」
柴田 英紀
忘れもしない1980年6月12日(木)新宿ハルクにて・・・
それは、草野大悟の出版記念(同志!!僕に冷たいビールをくれ)パーティに端を発した訳で、その彼も逝って(1991年、51歳)、早いもので11年が経過。その記念イベントには八期生も多数参加していたようです。と言うのは、関東において八期生の男女が一同に会するのは初めてだったと記憶している。それ故、特に女性は誰が誰やら・・・??歓談しているうちに少しずつ、雪解けの如く固まった記憶が融けはじめ、何しろ卒業以来22年振りの再会でしたから頭はパニック状態。よもや、女性がこんなに可愛く美しく・・・?変わるとは、今、浦島の心境でした。歓談している同席に宮下トシエ、大津昌子両女史を発見、恐る恐る訊いた。「3年生の時にサイクリングで一緒ではなかった?」「エッ!」と、びっくりしたのが大津女史。「貴男だったの、トシエちゃん、あの時の男の人はこの人だって・・・。」話の中には、東川君の他にもう1人男の人がいたよねと、話題になったらしいが、小生の事など全然、覚えていないこのご両人、内心、それはないだろうと複雑な心境でしたが、かなり影が薄かったのは事実でしょう。高校3年生に話が戻り、いとこの宮下道子女史が昭和32年11月末頃、長田町の家に訪ねてきて、いきなり、お願いがあるときりだされ、絶句した。受験を控えている小生にサイクリングに用心棒として参加してとの事。誰々が行くのと聞いたら、女4人(梶原女史)男1人(東川君)のメンバーだった。もう1人男の人が必要なの、というので余儀なく参加する事にしたわけです。とにかく、このサイクリングは大変でした。現在と違って、全員がボロ自転車に等しいものでサイクルするのですから。行程は桜島1週。当時の溶岩道路は、未舗装のデコボコ。感心したのは、東川君が絆創膏を携帯していた事だ。溶岩道路ではパンク続出、応急手当で絆創膏が威力を発揮し、その応急処置で鹿児島市内まで無事全員帰り着いた。しかし、桜島1週のつもりが、古里温泉を通過してまもなく大隅半島との分岐点で間違えて、福山の方向に進行してしまい、青春の思い出のサイクリングへ結びついていくわけで、いまだに思うことは、何故か同行の4人の女性とは一言も喋らずじまい。純情?恥ずかしいだけの小心者。しかし、小生はその後日が大変でした。軍人上がりの父に昨日は、終日何処に行っていたと詰問され、嘘はつけず、事実を白状。受験を控えている分際で何していると一括され、がっくり反省したり、楽しかったと思ったり・・。
時代は大きく流れ、ある日、大津女史からサイクリングの時の梶原女史が上京するので、日本橋で食事でも如何ですかとお誘い頂き、おかげ様で全員と再会でき、当時の事を現在も彷彿としている昨今です。因みに東川君とは、大津女史宅で再会してから20年以上会っていませんが元気でしょうか。昨年12月八期会の忘年会に帰鹿した折り、梶原女史と久しぶりに再会できて、「ほらほらサイクリングの時の僕ですよ」とサインを送れば、即座に東京で再会した時の話が飛び出し、盛況の八期会忘年会でした。色々の出会いが大津女史宅にてありましたが、心に残るは、もう故人になってしまった小手川女史、山岡君、時田君達とも昔話に花が咲いて、会えた事でした。有難う。合掌。この歳になり、特に同期生の良さが身に沁みる今日このごろです。
女性の同期生は旧姓で通しました。悪しからず。
「“目の輝き”を持ち続ける“老中”でありたい!」
村上 久幸
大石さんの活き活きした老中を見て、そして刺激され、小生も“老中”を努力中です。
又、定年後、「日本百名山」登山に挑戦している古市さん(柔道部)と意気投合、去年は鬼怒沼、今年は日光白根山に登り、運良く、遠く南アルプス連峰を眺められました。
小生は、中国からの引揚者なので、定年後は“中国との関わり”の中から「生きがい」を見つけたい・・・という思いを50才頃より思い続け、60才が「第二の人生のスタート」と定年に近づくのを楽しみにしてきました。
思いより1年遅れ、平成12年3月末(満61才)で定年退職しました。早速、日中友好協会の支部会員になり、中国友好都市からの研修員や在留中国人大学生などとの友好活動に参加するようになりました。
去年、6才まで過ごした河北省張家口市出身の宇都宮大学生と知り合い、その人の世話で、運良く「日本語の先生」をしながら、4ヶ月滞在のチャンスを得ることができ、今年3月より6月まで、河北省のシンタイ市「第三中学」に行って来ました。
市街地人口、60万人(田舎町)のシンタイ市でさえも「文明開化」の波は押し寄せていて、特に教育改革に全土が力を入れていることが日々のTVから感じ取れます。市内には、インターネットカフェが20ヶ所も有るのに驚きました。
第三中学では毎年、半年(1月〜6月)米国人と英国人の先生を招へいして、英語教育に力をいれています。中高合わせて、30人の英語の先生(中国人)がいます。私も最低半年と頼まれたのですが、4ヶ月ならOKという条件を出したら、たまたま運良く話がまとまりました。又、パソコン教育にも熱心で、200台のPCを使い、生徒は週一の授業を受けています。
日本語を独学で勉強している先生が15人前後いたのには驚きました。私の授業は、課外授業(18:00〜20:30)で、自由参加・・・昼間は暇なので、毎朝、太極拳と足部反射区按摩で過ごし、足部按摩は北京で試験を受け、修了書をもらいました。
中国は、「共産党」一党支配なので、校長先生は共産党の支部幹部だそうです。大きな企業集団の社長も皆、共産党員だそうです。もちろん、一党支配の長短はありますが、今は「一気果敢」に「文明開化」を推進し、文明世界の仲間入りをし、数年後の「オリンピック」を成功させたい!!一党支配が良い方向に作用していると見受けられます。又、歴史教育にも熱心で、特に「満州事変」と「第二次世界大戦」を忘れるな!と言って、中学生に教えています。歴史認識は、日本と同じで人それぞれですが・
日本人の中には、「中国人は信用できない」「約束を守らない」「不潔だ」・・・だから「中国はキライ!」などなど、批判する人を見受けますが・・・又、日本人は「戦争好き」「侵略者だ」などという中国人を見ましたが・・・いずれにせよ、お互いごく一部しか知らずに「好き嫌い」を論ずるのは、いかがかと思います。良い人もいれば、悪い人もいるのが「世の中」・・・微力ながらお互いの誤解を説明していきたい・・・平和維持のためにも・・・という思いです。