中国・時代の変遷と湖南省省都・長沙市と周辺

時代変遷

19111010日、武昌の孫文の支持者たちが主導権をとり、湖北省で清朝に反旗を翻した。いわゆる辛亥革命である。この革命は人民の支持を受けたほか、現地の駐屯部隊から多数の将校が脱走したこともあって、間もなく武昌を占領、2カ月後南京で激戦を展開した末、勝利を収めた。 19121月日、清朝22省のうち16省を制圧した革命同盟会は、南京で臨時国民大会を開き、孫文をアジアで初めての民主共和国、中華民国の臨時大総統に選出した。1912212日、清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)が退位。 孫文は19178月、生れ故郷の広東省へ南下して軍事政府を樹立。1919年、中華革命党を再編成して現在の中国国民党を結成、1921年に広東に新たに樹立された南方政府の総統に就任した。翌年、北部の軍閥との戦争が始まると、孫文は平和的手段による中国再統一を呼びかける声明を発表した。しかしその後も軍閥どうしの散発的な戦闘が続く。そのため孫文とその南方政府は1924年、国民党に忠誠を尽くし、中国統一に献身する軍官を養成するために、軍官学校を設立した。これが黄埔軍校であり、孫文はその校長に蒋介石を任命した。 一方、1919年には反帝国反封建の「五四運動」が巻き起こり、無産階級勢力が表舞台に上りつつあった。1921年、毛沢東、董必武、陳潭秋、何叔衡ら各地の共産主義者が上海で第1回全国代表大会を開き、中国共産党が誕生した。1925312日、孫文が死去。国民党は19257月に国民政府を組織し、11カ月後に蒋介石を国民革命軍の最高司令官に任命。蒋介石はこの資格で北伐を開始、中国の中部および北部で対立し合っているさまざまな軍閥の一掃を図ることになった。北伐は3年かかり、南京の国民政府の下に中国を統一することに成功した。 193777日、日本軍による盧溝橋事件が勃発、これをきっかけに日本の侵略戦争が始まる。1945814日、日本は同年7月のポツダム宣言に基づいて正式降伏を宣言。中国大陸の日本軍は194599日、中華民国政府に降伏した。 一方中国共産党率いる中国共産党は前述の北伐戦争(19241927)、土地革命戦争(19271937)、抗日戦争(19371945)と全国解放戦争(19451449)の4段階を経てついに1949年、蒋介石率いる国民党政府の統治を打倒し、「新民主主義革命」と名付けた一連の国民党や諸外国との戦いに勝利を収めた。

   中華人民共和国                                                1949  

1949101日、約30万の群集が天安門広場に集まり建国式典に臨んだ。中央人民政府毛沢東主席は厳かに「中華人民共和国」の正式宣言をおこなった。建国後は、1950年から1952年の国民経済回復時期と1953年から1956年の農業と手工業、資本主義工商業に関する社会主義改造の時期を経て、新民主主義から社会主義への移行を計った。 1957年から1966年は大規模な社会主義建設の時期で、この10年の間に経済建設の中で重大な失敗もあったが総体的に見ると国民経済は大きく発展した。1966年と1956年を比べると全国の工業資産は3倍になり、国民収入は58%増加した。 19665月から1976年10月の『文化大革命』の10年間は国家と人民にとって建国以来の厳しい挫折と損失の日々となった。197610月、中国共産党は多くの人民群衆の支持のもと江青ら反革命集団を粉砕し、ここに『文化大革命』は終結し、新しい歴史発展の段階に入った。 1978年末の中国共産党113中全回のあと、中国は『文化大革命』およびそれ以前のいわゆる極左政策の誤りを糾弾し、改革開放政策を実施することを決定した。これによって経済活動を中心とした現代化建設を推し進め、ここに中国独特の社会主義市場経済が確立されることとなった。

湖南省概要

ローマ字表記

 Hunan  

略 称

 湘 Xiang

省 都

 長沙 Changsha

位 置

 洞庭湖の南に位置。

面 積

 21万平方キロメートル

気 候

 大陸型中亜熱帯モンスーン湿潤気候に属し、年間平均気温は1618℃、四季の気温の変化が激しく、冬は寒く、夏は蒸し暑い。春と夏は雨が多く、秋と冬は乾燥している。

人 口

 約6392万人、土家、苗、トン、瑶、回、ウイグル、チワン族などの少数民族が住んでいる。

主な都市

 株洲市、湘潭市、衡陽市、邵陽市、岳陽市、常徳市、張家界市、益陽市、永州市など。

概 要

 洞庭湖は養殖漁業の漁場として有名で、その付近は全国有数の『魚米の郷』と呼ばれる富裕な地。米のほかにも茶油、茶、柑橘類、桐油などの生産が盛ん。また非鉄金属の埋蔵量も多い。中国共産党の農民運動と蜂起がここで行われた。毛沢東・劉少奇・胡耀邦はじめ中国共産党の指導者を数多く生んだ地として有名。毛沢東の故郷・韶山は革命の聖地となっている。市内には湘江、資水などの河がある。大きな湖は洞庭湖がある。

観光スポット

 南岳-衡山、張家界、索渓峪、天子山と猛洞河などの景観区を含む武陵源景観区、岳陽楼・洞庭湖、衡陽の石鼓山と回燕峰、韶山、長沙の馬王堆漢墓、岳麓山、愛晩亭、橘子州、岳麓書院、中国共産党湖南区委員会旧跡など。

歴 史

 春秋時代は楚国に属していた。その後秦の始皇帝が中国を統一し、長沙・黔中の2郡を設けた。漢時代は荊州に所属し、『長沙馬王堆漢墓』の発掘により前漢時代に高度な文明が築かれていたことが証明された。湖南という名称が使われ始めたのは唐代に入ってから。宋代には両路、元・明代には湖廣行省に所属し、湖広書省が置かれ、清時代の初期に湖南省が設置された。1972年、長沙近郊の『馬王堆(まおうたい)古墳』で2000年前の大公夫人のミイラと副葬品が発見され、世界を驚かせた。

長沙市の概況

長沙は湖南省の省都。湖南省は中国の中南部。洞庭湖の南にあるため湖南と名付けられた。湖南の名が付けられたのは唐の時代からである。略称は湘。省の東部を南北に貫く湘江にちなむ。湘江は、洞庭湖に注ぐ。
 春秋・戦国時代、黄河流域の中原の諸国とは違う文化・気質をもって現在の湖北省に栄えた楚の国から大量の楚人の流入があり、南楚と呼ばれた。

湖南省博物館(こなんしょうはくぶつかん)
 建物面積10,000平方メートル、所蔵品12万点を誇る。大きく、「湖南歴史文物陳列」と「馬王堆漢墓陳列」の二つの部分に分かれる。前者は、殷・周時代の青銅器と楚の漆木器に特徴がある。
 この博物館で見逃せないのが、馬王堆漢墓から発掘された前漢時代の女性のミイラと、副葬品。
 女性は、前漢初期の長沙国の丞相の妻とされるが、世界を驚かせたのは、2100年以上前のものにもかかわらず、完全な形で保存された遺体であった。少しも腐乱したところがなく、顔も目・耳・鼻・口・頭髪がほぼそのままに残されていた。
 皮膚には弾力があり、指で押すと、くぼんだのちまた元に戻る状態であった。内臓器官も残って、解剖の結果、死因についての推測も下されている。
「カルテ」が発表されているがなかなか興味深い。
 氏名・性別・年齢:辛追・女性・50歳
 血液型:A型 病歴:動脈硬化、胆石症、肺結核、腰椎間板ヘルニア、蟯虫、鞭虫、吸血虫
 死因:胆石症の痛みからくる心臓発作
 胃、食道、腸から138粒のマクワ瓜の種が出てきた。そのことより、6月から8月にかけて、マクワ瓜を食べた直後に死亡したと見られる。
 また、体内から水銀が抽出される。これは、道教の長寿の薬とされた仙丹(水銀を原料に使う)を飲んでいたためであろうとされる。
 この水銀と、遺体が以上に完全な形で残ったこととが関係があるのかどうか、研究中とのこと。
 もうひとつ、展示品のなかで注目をされるのが、二枚の絹製の「素沙単衣」と呼ばれる服である。この服は、48グラムと49グラムの重さしかない。野生の蚕の繭から取った絹で作ったためとされる。現在では、野生の蚕がいないため作ることはできない。

馬王堆漢墓(まおうたいかんぽ)
 湖南省博物館に展示されている「馬王堆漢墓」のミイラや副葬品が発掘された場所。
、 長沙市の東へ8キロの郊外。高さ1Oメートル、直径30メートルの馬鞍形の土丘で、もともとは五代の楚王の馬殷(852-930)の墓と考えられていて馬王堆と呼ばれていたが、1971年、病院の工事により偶然に入り口が発見され、大規模な発掘が始まった。
 三つの墓が発見され、前漢初期の長沙国の宰相利蒼の墓であることが判明。一号墓は妻の辛追、二号墓は利蒼、三号墓は息子がそれぞれ埋葬されたものである。
 現在、三号墓をアーチ形の覆いで保護し、一般の見学に公開している。

開福寺(かいふくじ)
 五代十国の時代の楚王の馬殷(在位907-930)が創建。
 唐の滅亡(907)から宋の建国(960)、または宋による統一(979)までの間にうちたてられた諸王朝を一括して五代十国とよぶが、こので言う楚は、その十国のうちのひとつ。
 馬殷は避暑のために建てたものであったが、その子の馬希範は深く仏教に帰依しており、建物を寺院に改造をして千人の僧を擁する臨済禅の寺とした。
 宋、明、清と興廃をくりかえしながら、現在では、三聖殿、大雄宝殿、毘盧殿、山門を擁する大きな規模を誇っている。

岳麓山(がくろくさん)
 長沙市内、湘江の西岸にある。衡山(南岳)の麓にあるということで岳麓山という。南朝の劉宋代(420-479)の書した『南岳記』という本に、「南岳は周囲八百里、回雁を首と為し,岳麓を足と為す」という言葉が見られという。
 標高は296メートル。樹木の生い茂る山々の重なりと渓谷美をもってしられ、古来多くの文人墨客が訪れている。

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岳麓書院(がくろくしょいん)
 岳麓山の東麓にある。南宋の時代には朱熹が講義をし、千人を超える学問の徒が受講したという。
 開設は北宋時代の976年、潭州太守の朱洞によって建てられた。最盛期は南宋であるが、その後盛衰を経て、清代1903年に高等学堂に改められ、のちに高等師範、湖南高等工業専門学校、湖南大学とと、学問の場としての命脈を今日なお保っている。
 講堂、文昌閣、六君子堂など、現存する多くの建物は清代のものである。
 朱熹の筆による「忠孝廉節」四文字の石刻、乾隆帝の扁額「道南正脈」などが残されている。

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愛晩亭(あいばんてい
 岳麓山の岳麓書院の後ろ側、清風峡の小さな山の中にある。晩秋の楓の紅葉で知られる。それ故、紅葉亭とも愛楓亭とも言う。
 それぞれ、唐代の詩人・杜牧(803852)の「山行」(やまあるき)と言う詩による。
 遠く寒山にのぼれば石径は斜なり
 白雲の生ずるところ人家有り
 車を停めてそぞろに愛す楓林の晩
 霜葉は二月の花よりも紅なり

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麓山寺(ろくさんじ)
岳麓山の中腹、愛晩亭の少し登ったところにある。晋代、268年の創建。湖南省最古の仏教寺院である。破壊と再建を繰り返してきたが、現在残るのは後殿と大門だけである。

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麓山寺碑(ろくさんじひ
 唐代の著名な書道家・李ヨウの筆による石碑である。筆力の雄健さで広く知られる。
 石碑の大きさは高さ4メートル、幅1.35メートル。文字数は1400余り。内容は、麓山寺建立の経緯などである。
 裏面には宋代・元代の書道家の題字が刻されている。最も有名なのは北宋の米フツのもの。

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橘子洲(きつししゅう
 湘江のなかの中州。長さは5キロほどある。橘子とはミカンのこと。古書に「時に大水有り、諸洲皆没し、ただ橘洲独り浮かび、上に美橘多し、故に名となす」、とある。
 毛沢東は、青年時代、よくここに来ては水泳や読書に時を過ごしたという。

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天心閣(てんしんかく
 旧城にある。高さ30メートルの城郭の上に建つ。湘江をあいだに挟みはるか岳麓山と相対す。登ると長沙の街と湘江の流れを一望できる。
 創建の年代は不明。太平天国の乱の時には太平天国軍の西王・蕭朝貴の率いる部隊と清朝の大軍の激戦が舞台になった。また、辛亥革命の時代には同盟軍が長沙分会を設けた場所でもある。1930年。紅軍が長沙に進行したときに彭徳懐は、ここに司令部を置いた。近代史の様々な戦いの歴史が刻まれている。

岳陽は洞庭湖東岸の河港都市。長江と洞庭湖が接する地点に位置する。古来、水運、陸運の要地として知られる。 洞庭湖はかつて中国一の広さをもつ湖であったが、長江から運ばれる土砂などにより面積は狭まり江西省のハ陽湖にその地位を譲っている。

岳陽楼(がくようろう)
 日本人には杜甫の詩で知られる。
 昔聞く洞庭の水
 今上る岳陽楼
 呉楚東南に裂け
 乾坤日夜浮かぶ
 親朋一字だになく
 老病孤舟あるのみ
 戎馬関山の北
 軒に憑れば涕泗流る

 洞庭湖は琵琶湖の七倍も八倍もある大きな湖である。「呉楚の大地が東西に裂けて湖となったという。天地をその上に浮かべているかのような大きなスケールだ。この大きな自然になかで、私と言えば、親しい者からの便りもなく、病み、そして老い、わずか一艘の小舟があるだけだ。北方には戦乱が続いて故郷に帰る術もなく、欄干にもたれると涙が落ちる」、と。
 岳陽楼は、洞庭湖の湖畔に建つ。岳陽市の西門の城楼であった。創建は、三国時代、呉の魯粛(172-217)が水軍を訓練するために築いた閲兵台と伝える。岳陽楼と呼ばれるようになったのは唐の時代から。
 現在の建物は清代、1880年の再建。主楼は間口17.24メートル、奥行14.54メートル。高さは、19.72メートル。三層の屋根をもつ。
 楼内に範仲淹の「岳陽楼記」が掲げられている。範仲淹は宋代の政治家にして文学者。1045年、当時の巴陵郡太守・藤子京が岳陽楼を大改修した際の依頼により撰したもの。古今の名文とされる。
 特に日本で知られるのは、そのなかの「天下の憂いに先だちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」という一節。岡山や東京・小石川の「後楽園」の名はここから取ったという。

文廟(ぶんびょう)
 文廟は孔子廟のこと。記録によれば、宋代、1046年の創建。間口柱間5間、奥行柱間3間の重槍入母屋造り。明、清に改修が加えられており、それぞれの時代の手法を図案や彩色にみることができる。

魯粛墓(ろしゅくぼ)
 岳陽楼から300メートル西に行ったところにある。周囲に石造りの欄干をめぐらした立派なお墓で、墓前には「呉大夫魯公粛墓」と陰刻した墓碑が建つ。清の光緒年間のもの。
 魯粛(172-217)は字を子敬といい、呉の孫権に仕える。周瑜が赤壁の戦いで曹操の大軍を破るの時にも、大きた役を演じた。

慈氏塔(じしとう)
 街の西南部、洞庭湖に面して建つ。唐の開元年間の建立。現存する塔は宋代の再建と思われる。煉瓦で造られた八角七層の塔。高さは39メートル。
 言い伝えによると、昔洞庭湖には魔物が住んでいて風波を荒げては人々の命を奪っていた。そこにやってきた高僧が、魔物を鎮めるために塔を建てねばと言い、寄付を募って工事を始めた。完成前に資金が尽きたが、魔物のために家族全員が犠牲になっていた寡婦の慈氏が全財産をなげうって塔を完成させた。そのことから、塔には彼女の名が付いた、という。

君山(くんざん)
 洞庭湖に浮かぶ最大の島。洞庭山ともいう。岳陽楼からは15キロの沖合になる。面積は一平方キロメートル。竹と茶で名高い。
 斑竹、羅漢竹、実竹、方竹、紫竹、毛竹などの珍しい竹が群生する。また、茶としては「君山銀針」が有名である。細長い茶葉とほんのりとした甘さが特徴である。

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二妃墓(にひぽ)
 堯は中国の古伝説上の聖王。暦を作り、治水に舜を起用しのち位を彼に譲った、とされる。その堯に二人の娘がいた。名を蛾皇と女英といった。堯は、舜の徳行の優れたのを高く評価し自分の息子にではなく堯に帝位を譲り、あわせて蛾皇と女英嫁がせた。
 舜は河川の巡視、治水工事のために留守がちであった。 蛾皇と女英は舜が心配で探し尋ね、君山までくると、舜が蒼梧山で死んだことを聞き、悲嘆のあまり二人この地に卒した、という。その墓が二妃墓である、と。
 辺りには斑竹が茂る。斑竹の葉の斑は、二人の妃が悲嘆の余りに流した涙の跡である、という。 

衡山(こうざん)
 中国の山岳信仰の中心にある五つの山を五岳という。衡山はそのひとつ。南岳ともいう。北岳は山西省の恒山、西岳は陝西省の崋山、東岳は山東省の泰山、中岳は河南省の嵩山。
 もともとは道教の聖地であったが、仏教伝来以降、多くの仏教寺院もこの地を選び建てられている。
 大小七十二の峰からなるという。最高峰は祝融峰の1290メートル。

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岳大廟((なんがくたいびょう)
 衡山の麓の町は南岳鎮。その南岳鎮にある。五岳にはそれぞれ廟がある。廟には歴代の皇帝が詣で、天を崇め地を祀ってきた。中国の山岳信仰は、秩序の論理であり、王朝支配の正当性の論理でもあった。廟の建造はそのことの象徴でもあったわけである。南岳大廟は規模こそ一位の地位は東岳泰山の岱廟に譲るが全体の完成度は最も優れていると言われる。
 総面積は98千平方メートル。南向きにレイ星門、盤竜亭、正川門、御碑亭、嘉応門、御書楼、正殿、寝宮、後門と建築群が並ぶ。
 現在の建物は清代の再建。

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祝聖寺(しゅくしょうじ
 南岳大廟から南へ250メートル。唐代の創建。関聖殿、大仏殿、薬師殿、説法堂、方丈室、観岸堂、羅漢堂などの建物が並ぶ。現在の建物は清代の再建。高い。

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祝融殿((しゅくゆうでん)
 祝融峰の頂上に建つ。祝融峰は南岳・衡山七十二峰の最高峰で、海抜は1290メートル。
 祝融を葬ったと伝える。祝融は、中国の古伝説上の帝王。火の神、夏の神、南方の神とされる。人類に火を教えた神ともされる。我が国でも、火災のことを「祝融の災」などという。
 祝融殿からすぐのところに「望日台」がある。ここから眺める日の出は、その荘厳さで広く知られる。

 

毛沢東故居(もうたくとうこきょ)
 湘潭県の県城の西方40キロ、詔山の山麓に毛沢東(18931976)の故居がある。毛沢東はここで生まれた。
 毛沢東の曾祖父が小さな藁葺きの家を買い取り、その後三代の努力で部屋数十三の家屋にした。親夫婦の部屋、毛沢東をはじめとする三人の兄弟の部屋などが復元されている。

 故居から五百メートルほどの、龍盤山と虎踞山に抱かれた中腹に韶山毛沢東同志記念紀念館がある。「滴水洞」と名付けられた毛沢東の別荘を増築したものである。

 滴水洞の建設は196264年。第三次世界大戦に備えて山腹をくりぬいて核シェルターが付設されている。
 毛沢東が、革命の成功後、韶山に帰ってきたのは二度である。それぞれ、中国現代史を決定づけるような重要な決定を毛沢東が下す直前のことである。

 一回目は、1959年、廬山会議の直前。毛沢東は、この会議で、人民公社の成否を巡り、同郷の同志・彭徳懐国防部長を解任する。

 二回目は、1966年、文化大革命の構想を実行に移し始めた時期である。「私は今、西方のひとつの山洞にいます」という手紙を妻・江青に書いている。その「山洞」が滴水洞であった。ここから北京に戻り、同郷の同志・劉少奇を「反党分子、修正主義者」として追い落としていくことになる。

 近くに韶山駅ができている。もともとはなかったが、文革の時期、全国から多くの紅衛兵が毛沢東の生家を訪れた。長沙からバスで一日がかりであった。やがて、紅衛兵は、線路を敷き、駅舎も作った。「汽車が韶山に向かって走っている」という歌が流行った。1968年頃のことである。

 一つの時代を映す鏡でもある。