鳴沙山・月牙泉
2001年6月13 日〜20日迄8泊9日のシルクロード浪漫の旅をしてきました。
亡くなった父母の法事の度に、松間和尚が、説教の替わりに、(敦煌へ行きましょうょ)
が口癖でしたが、1999年5月、敦煌じゃなく、「まずいきなり敦煌はないでしょう」「中国は広いんだから、順序というものがあるでしょうが・・・」ということで、北京・西安・桂林・上海という実に欲張った旅が、私の中国の旅の始まりでした。
父が同盟通信社の新聞記者でしたので、生まれたのは京城(今のソウル)、多分3歳〜6歳頃まで、というより、車と天蓋列車と上陸用舟艇を乗り継ぎ、引き上げてくるまでは、北京に住んでいました。こういう場合、北京は二度目というんでしょうか?
・・・2000年5月、何故か、雲南に惹かれ、昆明・大理・麗江・石林を旅しました。そして・・・
ついに、ほんの少しは、中文(ジョン・ウェン)がカタコト出来るようになって、待ちに待ったシルクロードが実現しました。
まだまだ、単独旅行すら、自信がなく、というより、一通りは名所巡りはツアーが安上がりなので、その代わり、気に入っても、もう1〜2日というわけにはいかないのが残念だけど、仕方がない。
「ゼッタイ、又来るゾー」そんな感じの旅です。
といっても、一般ツアー客とは違い、出発前に、何処何処と、ドコドコは一日別行動します。食事もいりません。と、申し出てますので、結構、自由にやってます。
今回も、西安、行き1日、帰り2日、上海1日はフリーにしてもらいました。
それでは、記憶をたどりながら、シルクロード浪漫を紹介します。
土地の説明など一部他のホームページより、拝借してるところもあります。
昨夕、西安に着いた。ホテルで陳さんのご両親に会う。 初対面の挨拶を誰が言うか、ひともんちゃく。結局、準備していた言葉も、ヤァやぁ、ニコにこ、ジェスチィアで済ませ、早速,その夜は楽しみのマッサージをしてもらう。
飛び切りのルンルン小姐の到来に相部屋の松間和尚と顔を見合わせ、慌ててしまう。そして、しばし夢心地・・・・・
・・・そして、翌日。
西安から飛行機で約1時間半、敦煌の空港に
着く。・・「暑い」、・・聞いてはいたが、寂しい空港だ。といっても、何処の空港も、似た感じだが、ここは人が少ない。
敦煌は、昔から、中国から中央アジアへの繋ぎの地とされ、トルファン、ウルムチ、カシュガルへの出発点とされてきた。
ちなみに、シルクロードという名はドイツの地理
学者リヒト・ホフマンが1877年の著書「中国」で始めて使ったと言われている。
空港から街までは、結構ある、バスで2時間以上かかる。街は綺麗で、ロータリーの中央にシンボルの反弾琵琶を弾く天女の像が立っている。そういえば、中国西北航空の尾翼にも似たような飛天のマークがついていた。
太陽大酒店が宿である。これまた結構なホテルで満足。今回の旅で唯一夜の外出をしなかった。昼、3人で街をさまよっただけ。夕方といっても、こちらではまだまだ昼のうち。
待望の、月の砂漠のモデル?鳴砂山・月牙泉を訪れる
らくだと月牙泉
初めて鳴沙山を見たときの感動は筆で表すことは出来ない。観光客と、ラクダの大群と、客寄せの声が、なかったら、もし、静寂の中でこの砂漠を見たら、感動は百倍といったら、中国風に言うな、といわれかねない。
それでも、やはり、すばらしかった。
松間氏はラクダの上で「月の砂漠」をどら声で唄っていた。右手に手綱、左手にビデオで
「月の・・・・・砂漠を・・・・・・は・・る・・・ばると・・・・・??のらくだは・・・・・行き・・ました・・・・」、
「砂山のてっぺんから、夕焼けを見よう!」ということになり、上の稜線伝いに砂山登山が始まった。
最初のうちは、くだんの松間和尚、石原裕次郎の「錆びたナイフ」を又、口ずさんでいたが、だんだん、「す・なや・・・まの・・・・・砂・・・・を・・」あえぎなのか、唄なのか分からなくなってきた。後ろから「カオリちゃん」に押してもらいながらの登山でした。
一向に、陽が沈まず、「あと、1時間はかかるヨ」との、近くにいた中国人の学生たちの話で諦めた。 降りは直降下・砂すべりで降りた。女のくせに、カオリおてんば娘も加わった。
おもしろかった。15元だった。もろぶたのようなのに乗ってブレーキもなければ、勿論かじもとれない。途中、転びそうになったが、なんとか下まで降りた。僕の後にすべったカオリが一番上手だった。しゃくだったけどほめてあげた。
月牙泉は、敦煌の町から約5キロぐらいの距離にある。
鳴沙山にはいるには関門があって、切符を買って中に入る。
東西40キロ、南北20キロの砂の世界が目の前にひろがる。
らくだに乗るにはコツがある。らくだは馬と違って初めは座っている。
まず、乗ってこぶをしっかりつかむ。ぬくもりが伝わってくる。思ったより小さいこぶだ。
らくだは、まず後ろ足から立つ、従って、最初、身体を後ろにそっていた方がよい。
前に倒していると、落ちてしまう。(と言われた)。15元だった。
引き手のおばちゃんが「鈴を買え 千円 せんえん」とうるさい。多分これだけしか知らない
日本語でわめく、といった感じである。
大きなマスクを買ったけど、変な匂いがして、はずした。記念にもって帰った。新品のソニーのデジカメ、サイバーショットが砂が入りそうでこわかったけど、「ここで写さず、どこで写す」と、
バチバチやってたら、案の定、スィッチを消しても引っ込まなくなった。「コリャ、ヤバイ」と思った
けど、そのうちに、直った。ホッとした。
敦煌・莫高窟
莫高窟は、敦煌の南東20kの所にあり、
鳴砂山と三危山の合流する断崖に約2キロ
にわたって、窟院が掘られている。
沖縄の守礼の門に似た門をくぐると、正面
にでる。
崖には、幾十もの穴が掘られ、ひとつひとつの
入り口には、アルミサッシがついている。
それぞれのドアには大理石の番号札がついている。
私達の案内人は、ガイドの董さんによれば、
「運がよかったです。この方(小太りの女性)は
有名な方で発掘関係の学術員の中でも幹部のかたで、説明が上手でガイドの中で定評があります。」とのことでした。
名前は忘れたけど、確かに、説明は熱がこもっていた。 もっとも、グループの熱意も高く、皆、学校の授業を聞く生徒のようで、メモをとる人、難しそうな質問を投げる人、・・・・びっくした
かの学術員は、あとで販売所迄ついて来て、土産品の説明にも、熱がこもっていた。
松間さんが、しきりに関心して、「中国はこういうところがスゴイよな、学者が売り子になるんだから。」 といいながら、僕も松間さんも、飛天の掛け軸を買ってしまった。
前世紀末,前漢、西域貿易地として、シルクロードの隊商たちが旅の安全と、砂漠を渡れた感謝を込めて、この石窟に仏像や壁画を奉納したのだろうか。
一説によると、紀元前366年(日本の縄文時代)楽尊和尚が対岸の崖下に立ったとき、向かいの三危山が黄金に輝き何千もの仏の姿が見えたという。和尚はここを聖地と定め、窟を堀り、修行をしたのが始まりだという。
石窟の中は思ったより広く、(狭いのもあったが)ひとつの物語が壁画に描かれたものや、西域にいたる地図もあった。天井には、どの石窟にも20センチ四方ぐらいの仏の画像が描かれている。
1900年に地元の王という道士がここで塑像を彫ろうとして、タバコを一服しようとしたら、煙が壁の割れ目に吸い込まれていくのを見て、不思議に思い、
壁を崩した所、そこから、膨大な文書が発見された、と言う。、
、もっとも、「・・・と言う。」という話は正確がどうか定かでない。
別な本では、(1900年5月26日、と日まで正確に、王道士が雇った男に写経をさせていた所煙草の吸殻をいつもの癖で洞窟の割れ目に差し込むと、何処までも入るので不思議に思いその壁を壊して見ると・・・・・云々。
・・・まァ似てるからどうでもいいか。
敦煌からトルファンへは、列車の旅でした。敦煌駅(と言うのか判りませんが)とてもとても遠い所にあります。中国の広さをバスの中から実感した次第です。
駅に着いてからも2時間位、待ちました。駅近くのお店(土産品店)で、売り子のシャウジョをからかったりして時間をつぶす事でした。
やっと改札があり、ホームへ向かうころは暗くなってました。
なかなかの室内で日本のコンパートメント寝台車といったところでしょうか。
ホームに出てみたら群青色の空の黄色の月がありました。余りの美しさに、しばし呆然・・・・・・(息を呑んでるところ)・・・・。
陽関
元二の安西に使するを送る
王惟
謂城の朝雨軽塵をうるおし
客舎青青として
柳色新たなり
君に勧む
さらに尽くせ一杯の酒
西の方 陽関を出れば
故人無からん。
(西域に赴く友と別れの杯を重ねる寂寞の詩。)
鳴沙山の砂とは違った粗めの砂でした。
なにか、砂にも寂しげな砂というのがあるのでしょうか?それにしても、らくだやろばの「乗らないカ???」のお誘いおばチャン達には、閉口しました。
くだんの松間和尚も付きまとわれ、「イラナイ!イ・ラ・ナ・イ!」「ニホンゴ上手いね。」「ゴヒャクエン。」「イラナイ}・・・・会話が続くのでした。
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青い青い空。(敦煌駅ホームにて)
「月がとっても青いから・・」
というのがうそと判った。平山郁夫氏の絵が本当と判った。
明日はトルファンです。
4492ある窟の中でもシンボルとも言うべき
第96窟。 高さ43Mの赤い大きな建築物で
覆われている。砂漠の中で遠くからでもはっ
きり見ることが出来る。「アァ莫高窟へ来たんだ
」と実感できる。
中央に位置する弥勒菩薩像は、高さ34.5m
幅は12.5m。中国でも5番目に大きな像である。
和尚にまとわりつく月光仮面のおばチャン。
トイッテモ,年は判らない。
王惟の詩の世界を味あってみたくなって、
僕は子供の引くラクダにのって、チョット
遠くへ行きました。結構いい気分でした。