終 章
上海に着いたのは予定の時刻を過ぎていたように思う。
上海はたびたび来ているというより中国旅行のたびに立ち寄る街なのであまり書きたいことは無い。でも、いつかじっくり上海の魅力を味わってみたいと思う。
今回は「三峡・二度と見ることの出来ない風景を訪ねる旅」ということで綴って見た。
最初のトーンからすれば武漢編はかなり硬派の文章になり、泊まった五つ星ホテル・シャングリラでのシャウジョ按摩との中文会話ストーリーもカットしてしまったけど、会話レッスンは健在だったことは報告しておこう。
旅は連れというか、相棒(今回はピーカン氏)との共有する思い出、それに自分自身の秘めた想い(肌でどう感じるか)、の二つである。といつも思う。
今回の旅も、ただの一度として、嫌な思い、心の波の騒いだこと、思い出したくないこと、・・・それら、すべての負の思いがなかった。 楽しい旅だった。
さて、A4紙にすると40ページからなる、だらだら書き綴った「三峡クルーズ紀行」の最後に8日間僕達に同行してくれたガイドの蔡さんの説明してくれたこれからの
「三峡・長江の未来」を記して終わりとしたい。
・・・・・・杜甫が二年近く住み、李白が三度訪れた三峡の未来(7年先)は・・・・・・
下流から船でさかのぼってくれば、白雲たなびく万山のなかに、コンクリートの大ダムがたちはだかるだろう。峰峰が屏風のように並び、広大な水面は何処までも青い。今までに無い湖の島々や岬があらわれるだろう。
初夏には百花咲き乱れ、岸辺は緑の木々で美しい。観光客のための多くの竜船が浮かび、人々は湖辺のホテルに泊まり、湖の夜景をながめる。西の空が赤く染まり、さざなみがきらめき、素晴らしい眺めとなるだろう。夏が来ると、ここは絶好の避暑地となる。湖辺には水泳場が出来、湖面には遊覧船、岸辺には花々が咲き乱れるだろう。
車を駆って発電所を見学するなら、高速エレベーターが人々を水面下の「竜宮」にいざなうだろう。水位が高まった為、湖面が開けた感じで、雲のかかった神女峰は百メートル以上ある石段を降りて観光客を迎えに来たかのようである。
雄・険・奇・幽の四文字でだいひょうされる三峡の風光は更に美しくなり、世界の人々の憧れの地となるだろう・・・・・・・・と。 再見!!!
東 湖はピーカン氏が
いみじくも言ったように湖と言うより
海に見えた。はるか向こうに桜島の
ような山がかすんで見えた。
暇があるとマイボートで釣りに出
かけるピーカン氏が
「これは錦江湾だ」と言ったのがよ
く分る。
東湖を見ていると、今から35年前の、
あの武漢事件を思い出す。文化大革命の嵐の真っ只中だった。
1967年7月14日未明、毛沢東を乗せた専用列車は武漢駅へ向かっていた。
武漢では、毛沢東の文化大革命を担う「真の革命派」をめぐって二つの勢力が流血の対決を続けていた。六日後、武漢一帯はこの二つの組織の内乱状態に陥った。7:20事件と呼ばれる武漢事件の勃発である。
8201部隊と林彪派の「工人総部」との銃撃戦となり血で血を洗う衝突が夜を徹して展開された。という。戦闘は毛主席の滞在している東湖賓館に迫った。
急遽、周恩来は毛沢東を救い出す為に飛行機で武漢へ飛んだ。・・・・・とまあ、こんなノンフィクション小説・産経新聞社の出した「毛沢東秘録」を思い出した。
何故か.この地は僕の歴史好きを駆り立ててくれる地である。
およそ90年前に遡るとこの地はこんな歴史のターニングポイントでもあった。
1911年(辛亥)10月10日、武昌に司令部をおく清朝の新軍の下士官や兵士が決起した武昌蜂起が発端となった辛亥事件により、翌12年一月一日に孫文を臨時大統領とする中華民国が成立、清朝の崩壊につながった。
そんな歴史の世界を思い出しながら僕等は恐らく今回の旅では最後の箱物見学となる「湖北省博物館」をたづねた。
黄鶴楼の正面には大きな鶴の彫像が羽を広げて
観光客を迎える。
伝説を聞き終えた僕は、鶴に向かって三度、手を
たたいてみた。勿論、鶴の舞は拝めなかった。
かわりに、二人の見習いガイドが横で微笑んでくれた。
李白の時代に思いを馳せるため、あえてエレベーターには乗らず、階段を上ることにした。
実の所は、エレベーターが故障だったことも幸いしたが、足に自信のない方には残念だったに違いない。一気にてっぺんまでというわけにはいかず、途中のフロアの李白の詩(額に納められてある)などを読みながらビルの立ち並ぶ外の風景を眺める。
時代の大きな流れを一瞬のうちに変えたような錯覚に襲われた。
楼閣の一番高い所まで上ると市内を一望でき、北側のまわると長江が緩やかに流れていた。 現地案内人の蔡さんが、「黄鶴楼」にまつわる次のような伝説を披露してくれた。
昔々、長江のほとりに貧しい一人の青年が、酒場を開き、細々と暮らしていた。
その酒場はほとんど客もなく、一日に一人か二人の客があれば上々で、清貧を絵に書いたような毎日を送っていた。
と、ある日、ボロボロの衣服をまとった老人が現れ、「自分は、全く金を持ち合わせていない。お腹が空いているので、一杯のお酒と,食物を恵んで欲しい。」と頼んだところ、気のいい青年は快くお酒を提供し、料理を作って老人にふるまった。
老人は,さも美味そうに料理を味わい、青年のすすめる酒を飲み干し、満足して帰っていった。 ところが、翌日も、その翌日も「お金が全くない、酒と食事を恵んで欲しい」と頼んだ。 青年は請われるままに、毎日毎日、酒と食物を提供し続けた。
やがて一年が過ぎる頃、いつものように酒と食物を食べ終えると、老人は言った。
[永い間大変お世話になりました。このたび遠くへ行くことになったので、そのお礼に、ささやかな物を差し上げたい。」そう言うと、やおら他の客が捨てたゴミ袋の中からミカンを拾い、その汁で壁に鶴の絵を描いた。そして言った。
「もし貴方が、何か困ったことがあったら、この鶴に三度手をたたきなさい。」「この鶴がきっと貴方を助けてくれるだろう。」そう言って老人は立ち去った。
青年は、ときどき壁に落書きされた鶴をながめながら、老人の話など、さして気にもせず、相変わらず、ほそぼそと、少ない客を相手に酒場を続ける日々が続いた。
ある雨の降る夕暮れ、全く客もなく沈んでいたとき、ふと壁に描いた鶴のことを思い出した。青年は鶴に向かって三度手をたたいてみた。するとどうだろう、
金色の鶴が壁から抜け出して、羽を広げて見事に舞をはじめ、しばらく舞うとまた壁の落書きに収まった。 驚いた青年は
「あの老人はやはり只者ではない,仙人かもしれない。」「よし、これからこの鶴を使って酒場を繁盛させよう」と思った。
やがて、このことは大評判になり、青年は巨万の富を築いてしまった。
ある日、老人が再びやってきて「あのときのお礼は十分した。もういいだろう。私は天に戻らなければならない。」そう言うと、金色の鶴に乗って飛び去ってしまった。
青年はこれを記念して、出来るだけ仙人に近づけるよう小高い蛇山に「黄鶴楼」を築いたという。
黄鶴楼については、同行した菊地氏から詳しいエッセイが届いた。若干の訂正を勝手に加えさせてもらい紹介させて頂く。
黄鶴楼伝説
武漢(ウーハン)は長江と、そこに注ぎ込む漢水の二つの川の合流地点に開けた湖北省の省都である。もともとは武昌、漢口、漢陽の三つの街、いわゆる武漢三鎮であり、現在の市の中心は漢口になる。
武漢市は古くから交通の要衡として栄え、そのためたびたび戦場となった歴史がある。三国時代に建設されたと言われ唐代の詩人・李白をはじめ多くの詩人に詠われた黄鶴楼は
武漢市の長江を望む丘の上に五層の威容を誇っている。李白の詩「故人西のかた・・・・」
にも詠まれた名高い楼閣で、南昌の膝王閣
岳陽の岳陽楼と並び「江南三大名楼」と呼ばれて、訪れる観光客の絶え間がない。
三国時代に呉の孫権に創建されたと言われているこの楼閣も、度重なる戦火に焼失し、現代のものは宗代の姿をモデルに1985年に再建された。鉄筋コンクリート(エレベーター付き)になってしまった。
ホァン ホゥ ロゥ
黄 鶴 楼
頌
やっと,苦労の末
下の字を見つけま
した。ソフトを使って
字が読めないもので
今度は挿入に苦労。、、
阮
屈原(約紀元前340年〜278年ごろ)は中国で最も早くあらわれた偉大な愛国詩人である。
彼は楚の国、(戦国時代)において太夫(役員)を勤めていたけど、権奸の排斥をうけて放逐されてしまった。
晋(韓・趙・魏)を手中におさめた秦は、つづいて南方に矛先を向け、春秋時代(孔子・孟子・荘子・老子の活躍したいわゆる「百家争鳴の時代」)には、中原を脅かしたこともある楚を攻めた。
ほどなく楚の都が秦の兵に攻め落とされたとき、彼は身をもって国に殉じ、汨羅江に身を投じた。
彼の「離騒」「九章」「九歌」などは、古今に伝わり、世界の文化史上高い地位をうけている。
さて、毎年五月五日の端午節には、中国各地ではチマキを食べ、竜船のレースの習わしがある。屈原の古里には面白い物語が伝わっている。
屈原が汨羅江に身を投げてからの ある夜のことだった。
屈原の故里の人々は、屈原が戻って来たのを夢の中で見た。
屈原は冠を被り、帯をしめ、生前のままの姿で、ただ、 表情だけが、やや憂いをおび、やつれて見えた。 人々は喜び、かけよって屈原におじぎをした。
屈原も礼を返しながら、笑って言った。
「あなたがたの心ざしはありがたい。楚の人たちは愛すべきものを愛し、憎むべきものを憎み、私を忘れては居なかった。死んでも心残りは無い」
人々は屈原の身体が以前のように丈夫でないのに気づき
「屈大夫、わたしたちがとどけたご飯は、食べられましたか?」と聞いた。
屈原はため息をついていった。
「残念ながら、魚やエビに食べられてしまった。」
人々はそれを聞いてたづねた。
「どのようにしたら魚たちに食べられなくてすむでしょうか?」屈原はいった。
「ご飯を葉に包んでとがった角のある形にすれば、魚達はそれを見て菱の実だとおもい、食べることはないとおもう」 翌年の端午節に、ひとびとはご飯をそのとおりにして河に投げた。しかし、端午節が過ぎてから、屈原が又、夢に現れていった。
「かなり食べることが出来たけど、魚達にも随分食べられてしまった。」と
「何か良い方法はありませんか?」と人々はたづねた。
「ある。チマキを投げ込む船に竜の印をつけておけばいい。魚たちは竜の手下だから、そのときに鼓を鳴らし角笛を吹き、櫂を動かせば、竜王が送ってよこしたものだろうと、思って横取りはしないだろう」。
この時から端午節にちまきを作り、竜船をこぐ習しが生まれ、これが屈原の故里・楽平里から、全国に、古代から今日に伝わっている。
屈原は楚においては、鹿児島人が西郷隆盛に抱くような人物であろうか。従って
多くの伝説が他にも残っている。屈原が誕生した阮帰に伝わる伝説をもう一つ紹介しよう。屈原が汨羅江に身をなげると、一匹の大魚が洞庭湖をでて河をさかのぼり、屈原死体を阮帰に背負い帰った。又、阮帰の名前も屈原に由来するとの伝説もある。
屈原は讒言により楚王に放逐されたが、その時、屈原の阮がわざわざ屈原に会いにきたので阮帰という名前がついた、と
憂国の詩人・屈原の詩とはどんな詩なんだろう?李白や杜甫の詩はよく書面でもお馴染みだけど、屈原の詩は余り見ない。詩自体を紹介しても、難しくて字体から意味がわかり難いので意訳した有名な詩を紹介したい。
九章の中の「橘頌」について。「橘頌」は強い思想性を備えているだけでなく、その擬人化した芸術的手法は新鮮であり、中国における詠物詩中の範といわれている。
・・・・・・橘は葉が緑で、花が白い、実は丸く香しい。
形は美しく、人々に恵みをもたらす。しかし、枝には棘があり、頑強な気性をもっている。侮ることを許さず。 他人の言いなりにはならない。
楚は今にも秦に滅ぼされようとしている。
今、楚が必要なのは、純真なこと柑橘のごとき新風である。
徳を重んじ,無私になり、寄せる荒波に押し流されず。秦と最後まで戦う精神こそ必要である。と その憤りをこめて「橘頌」を書いた。
三峡クルーズの旅
三国志の舞台を訪ねる8日間
〜成都・重慶・武漢・上海 の旅も、アッというまに過ぎてしまった。
、昨日で6日目の宿泊が終わった。今日で7日目ということになる。
今夕は空路・上海に飛ぶ。明日の朝は上海を発ち、日本へ戻る。8日目はないのだ。
成都に着いた時と同じ感慨に一瞬、浸る。正直言って、未だ帰りたくない。
・・・といつも思う。ゆっくり、中国を歩けるのは今日一日か、と思うと気が滅入る、否、
入る思いである。
白帝城も行けなかったし、荊州も物足りなかった。欲をいえばきりがない。
しかし、いろんなことを思い出してみると今回のグローバル深栖企画は他のツアーとは
一味も二味も違ったグッドツアーだった。と思う。mr・深栖に早々とお礼を申し上げておく。
武漢編でどうしても書いておきたいことが三つ。二つは伝説である。そのひとつ、
屈原伝説から、お話しよう。
長い移動の足として
活躍してくれたバス
冷 査
・・「逃げ切れません趙雲様。せめて、阿斗様だけでも。後は私が守ります。見ると、王安だった。張飛の妻の董香もいる。
・・・・・・・・・・趙雲は阿斗の身体を包み込んだ。敵。趙雲の部下と王安たちを合わせて二百足らず。切り抜けられるのか。「円陣を組め、奥方を中心に」王安の声を背に、趙雲は一騎で駆け出していた。遮ろうと、十騎ほどがでて来る。
趙雲は雄叫びをあげ、頭上に槍を差しあげた。
駈ける。・・・・・・・・・・・
趙雲の気魄が、馬にも乗り移っていた。敵の馬が怯んでいる。・・・・・・・・
長坂橋。見えている。
しかし、敵が塞いでいた。行くしかなかった。あと一息。力を出せ。力のかぎり駈けろ。趙雲は、馬に呼びかけた。
おまえだけが、頼りだ。
敵が、こちらをむく。胎の底から、趙雲は雄叫びをあげた。槍。構えているだけである。・・・・・・・・
駈けても駈けても、敵の中だ。
不意に、敵が動揺した。敵の身体がいくつか、宙に舞い上がった。
張飛。三十騎ばかりを連れて、敵を断ち割っている。
「趙雲、早く来い。助けてやる。これは貸しだぞ。」
張飛が叫んでいた。駈けた。張飛とすれ違う。
張飛に背後を守られるようにして。長坂橋を渡った。
「劉備軍に、趙雲子竜あり。憶えておけ」・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
三国志・長坂の戦い
を、北方謙三「三国志」
六の巻・陣車の星
橋上262ページより転載
赤兎(せきと)
武将・呂布の愛馬
赤兎は呂布(りょふ)
の意思を読む。
その赤兎の子が
セキトバである。
関羽の愛馬となる。
高さ9m、幅10mの堂々とした城壁が、楕円状に約10kmもはりめぐらされて
いる。城門は、北門、東門など6つあり、城壁の外側は濠がめぐらされている。
石段を上がり終わった先のほうに、石製の白馬が堂々と構築されていた。
Fさんが「あれ、赤兎(セキトバ)じゃないですか?」僕はてっきり本当と思い
、写真撮りに走った。違って、ただの馬像だったけど、赤兎を思い出させてくれ
たFに感謝した。
城壁の上から城外を眺めていたら、見習ガイドの男性が殆ど聞き取りにくい
日本語で先に見える川を指して懸命に何か説明してくれた。
人の固有名詞が理解出来ず困ったけど、やっと書いてもらって分った。
屈原だった。紀元前300年・秦の時代の詩人である。
5月に彼を記念する何か?があることを一生懸命に説明しているのだ。
僕は,さも、「貴方の日本語の説明は理解できましたヨ」とそんな顔で芝居をし
て見せた。実は、屈原その人があまり知っていなかったのだが。
その後も、武漢の黄鶴楼でも屈原は登場した。憂国の詩人・屈原は中国ではと
ても誉れ高き有名人なのであろう。
今回の旅は僕にとって
如何に僕は中国を知らないか。を知らされた旅でもあつた。
そして、僕の中国へのさらへの探求を駆り立ててくれた。
荊州は以前は荊州市と沙市とに分れていた。
1900年に合併して荊沙市になったがまた次に荊州市に戻り、沙市は沙市区になった。
今はもう一つ加わって3つの区から荊州はなりたっている。(会津若松市と姉妹都市)
「三国志」の時代、この付近は江陵とよばれ、魏,呉,蜀の争いの中心であった。
荊州の北西にある当陽市の南にある長坂(チョウハン)での曹操軍と劉備軍との戦いは有名である。
208年、荊州の主劉表が死に、あとを継いだ若年の劉宗は戦わずして降伏し、劉備は呉の孫権と連合すべく江陵に走った。
猛スピードで迫ってくる曹操軍についに追いつかれてしまう。
劉備は妻子を捨てて逃走するが、趙雲が劉備の子、阿斗を抱えて戦い
劉備の妻子を救い、突破する。
張飛は大喝一声、曹操軍を撃退した。
劉備軍はかろうじて江陵に到着、孔明の説得によって戦いを決意した呉と連合、赤壁の戦いに備えた。
短い(2泊3日)割には素晴らしく、充実した「三峡クルーズの旅」であった。
揚子江総統四号・おそらく二度と乗ることはないと思うけど、けっして忘れることもない名前であろう。
船から下りても、ぜんぜん体が揺れないことに気が付いた。
船が揺れていなかった、ということなのか?雨、風のときは揺れるはずだと思う
と、天候に恵まれていた、ということだろう。
荊州は「三国志」ファンの僕にとって、とても思いの深い場所である。
しかし、今夜というか、夕方には武漢に着かなければならないため、ここ、荊州の滞在時間は1時間半ぐらいになのだそうだ。
蜀の武将・関羽の眠っている関陵も当陽市の西3kmにある。(219年、孫権に殺された) とても行ける距離ではなかった。
しかし、関羽が建設し7年もの長い期間、一人で、主人、劉備そして仲間の趙雲・張飛・諸葛孔明たちと離れ、守ってきた 荊州古城はコースとして設定されていた。
沙市港に待っていた現地ガイドとバスに乗り込み荊州ツアーの出発である。
二人の日本語ガイド見習生が同乗研加わった。
荊 州
葛洲覇ダム
貯水池の流域面積・ 百万平方キロ
ダムの頂部の高さ 70m
1981年一月四日 せき止め
6月から発電と船舶の航行始まる。
船はどのようにしてダムを通過するのか?
上流、下流水位の差が二十メートルほどあり、船舶航行のため、両岸に三つの船舶用ロックを作っている。
ロック室の長さ・・・280メートル
広さ・・・・・・・・・・・34メートル。
一万トン級の船が通過できる。
ロック室内は深い大プールのようで、上流y下流の両端にゲートを設け、ロック内にフロチング係船柱が設けてある。
例えば、三峡から来た船が二号ロックを通過するとする
先ず、下流のゲートが自動的に閉まる。ロック室底部の送水バルブが開き、水は縦横に走るカルバートを通り、15分で28万立方mほど入る。
ロック室内の水位が貯水池の水位と同じになった時、閉まっていた上流の水門は自動的に開き、汽船がロック内に入ると自動的に閉まる。
ロック内の水はカルバートから下流に排出され、水位が下がると共に船の高度もさがり、ロック内の水位が下流の水位と同じになると下流のゲートが自動的に開いて
船は下流にすすむ。ダムを通過するのに一時間とかからない。
ロックとバルブの開閉は電気装置でコントロールされている。
小姐たちに別れを
告げて・・再見!
07:00 音楽放送開始
07:20 朝食 二楼食堂
08:00 総統四号・葛洲覇ダム入り(トトカルチョあり。)
10:00 真珠の特別販売 三楼
12:00 午飯 二楼
12:00〜16:00 自由購買時間・全商品10%引き
14:00 トランク類を部屋の入口に出してください。
16:00 沙市到着、惜別再見
総統船船長以及全体船員非常感謝迩乗座我門的船。
終生難忘。衷心祝願旅途中愉快。全家幸福、万事如意
再見了!一路平安!
部屋に戻ると
三日目の予定表が届いていた。
僕の後でピーカン氏は
彼女とチークを踊っていた。
手がお互いETだった。
と教えてくれた。
ジルバを踊った
小陳・ルーシー嬢
工事現場
観光公園
三峡ダム工事を肌で感じる公園ツアーの感想。
船からおりて、オンボロバスに乗り、工事現場を見下ろす観光公園へ向かう。
壮大なダム工事なので、さぞ、スケールのでかいことだろう?そんな程度の思いだったので見終わってからもさほどの感動というか、印象はない。
現場自体がはるか遠方でかつ下の方にあったせいかもしれない。
それとも、自然の壮観に魅了されすぎたせいもあろう。
ただ、ダム関係専用の大型トラック(特殊なナンバープレートをつけている赤枠のついた)のが砂塵を巻き上げながら、次から次へと行き交うのが印象に残る。
資料館の殆どを占めるかのごとくデカイ、ダムの模型を取り囲んで、ガイドたちが、それぞれの案内客の国籍に合わせた言語が飛び交っていた。
結局、俯瞰模型は全然見なかった。
1時間30分ぐらいのツアーだった。一人150元らしいけど、白帝城がキャンセルになったので、料金はいいとのことらしい。(添乗員F氏の説明)
今夜は最後(といっても2日目だけど)のパーティが八時から三楼会場にて、壮大に行われます。との、アナウンスが船に戻ったら入った。
夕食後、お別れパーティは始まった。
楽しい、国際交流の場だったが、ここに載せて紹介しても、場に居なかった人には結構つまらないものである。だから、簡単にプログラムのみ紹介する。と・・・
●主催の船側からの、歓迎の民族踊り。
●カナダ・アメリカ客の「コーラス」全員紙を見て歌っていた。準備はさすが。
●我々、日本人12名・カラオケで「星影のワルツ」を合唱。
本当は、「さくらさくら」にしたい、いや「スキヤキソング」の方が晴れがすると か、他、数曲、候補が上がったが結局こちらでも人気があるということで「北国 の春」かこれか?ということになった
●台湾グループは格好いい夫婦客が「デュェット曲」を絶唱した。
●主催側のコント。爆笑!!
●全員参加の相手の肩に両手をのせ坂本 九ちゃんの歌に合わせて踊る。
●椅子とりゲームではわが日本代表・菊地夫人が優勝!!大和なでしこは伝説 に過ぎなかったことを証明してくれた。
●照明が落ちて「ダンスタイム」になった。
ルーシーこと小陳が目に入ったので、ウインクして誘った。ジルバを踊った。
船の旅は思ったよりずーつと楽しいものだ
。10時頃、ピーカン氏と二人で4楼の按摩室前にある印鑑を作ってくれるコーナーに行く。 朝、頼んでいた刻印をとりに。
チョットしたトラブルが発生した。ピーカン氏が出来上がった印鑑を見て、突然,言ったのである。「ジス イズ シャチハータ!! ノー グッド。」そして、突然、
後ろに下がって、相撲の四股をして見せたのである。
僕もよく経験する、センスのない彫り師なかかると名前が印鑑の中に収まり、
それはまさにシャチハタ印そっくりになるのだ。
相手の言い分はこうだ「書体は聞いたけど、縁に文字が付くことまでは聞いていない。この石は水晶で硬く、6時間彫るのにかかった。」と・・・
・・・結局、彫り直すことで収まった。これが、船の中じゃなかったら、争いの嵐は
しばらく収まらなかったに違いない。思いで多いリングならぬ印鑑はピーカン氏
の話だと「息子へのプレゼント」だとか?
いつか、見せてもらいたいとおもっている。この日の思い出と共に・・・
三峡ダム
サムネイル写真
三峡ダム
三峡ダムプロジェクトの概要
ダム・・・ 建設予定期間 1993年〜2009年
・・ 堤防の高さ 175m(標高185m)
堤防の長さ 2309m
ダム湖 貯水容量 393億立方m
長さ 570キロm
面積 1084平方キロ
発電所 年間発電量 846,8億キロ
発電機の数 26基
経費 総経費 901億元
うち補償費 400億元
その他 水没する市 13市
住民の移転 113万人
水没する歴史的遺産 1208基
左の写真は夜間のダム工事現場。手前は左岸の発電
ブロックに当たる部分で、ここに14基の発電機が設置
される。
右岸の12基と合わせ、計26基の発電機が設置
される。工事現場では、約2万人の労働者が三交代で働
いている。
4時、又回りがあわただしくなった。三峡ダムが見えてきたらしい。
三峡ツアーの本命である。
西陵峡は瀬が多く流れの早いことで知られている。
久々に二人で記念撮影。
最後尾には、中国国旗がはためいていた。
船に戻りしばらく経つと船は西陵峡へは入った。
ピーカン氏と二人、「今度は今度は後部デッキからみて見ようか?」と言うことになって
後へ向かった。随分広い甲板で気持ちが良かった。
私たちのクルーです。
揚子江総統4号
蔡さんの説明によると、「舟をこいでる(引く方が多い)人は4人、他に舵取り、前で進行役など
合計10人ぐらいで、一艘を担当してるそうだ。皆、土家族といい、少数民族だそうである。
ロープで舟を曳いて(底が浅いので)行く。結構、力がいる仕事である。
ロープは竹で編んで作るそうで「濡れてもすぐ乾き、かつ軽いんだ」そうだ。
赤い服の女性ガイドに彼等の報酬を訊いてみた。「大体、40元から50元ぐらいです。あたし
達も同じぐらい」との話だった。中国の平均的労働者報酬が月平均・350元から400元
(日本円で6000円程度)だとしたら、彼等の収入は倍ぐらいで、結構いい仕事じゃないか?
といったら、ピーカン氏曰く「実際に、
一ヶ月に働く日数は10日から15日ぐらいじゃないの?15日掛ける400元だと、600元、
そんな所でしょう、か?」との計算をだしてくれた。商売人は常に、頭は計算機なんだ
、と感心した。
往復だいたい二時間かかる。とのこと、途中、絶壁の中ほどに石棺の置いた穴が見える。
蔡さんの説明が「あそこです。アレは違います。・・・」と結構、しっこい。聞く方がしっっこい
のか、よく分らない
僕にすれば、どれでもいいって感じでした。それより、水や眺めの方が感動。
ビックリしたのは終着点(?)の瀬に、例によって、露天みやげ物屋が30店(机だけだが)は
並んでいた。
ことだった。早速、会話のレッスンと好奇心から、石ころ(川底の)を選び、数個5元で買った。
今、店の金魚ケースの底にある。ピーカン氏も、なにやら、玉のペンダントを買おうとしてたら、
落としてしまって、割れた途端、買うのを止めた。売り子の小姐が、一生懸命であっただけに
可哀想だった。
ピーカン氏も「そう、思ったらしく」小銭を探したが、ポケットに無く、やむなく離れた。
後を小姐が、なにやら叫びながら、声だけがいつまでも追ってきた。
かくて、僕達の新農渓ツアーは終わった。
帰りの小舟の中でガイドの小姐の民謡の披露があった。アカペラで哀愁をあびた声が今も僕
のパソコンの中にある。もし、聞きたい人あれば、メールで送ってさしあげます。
勿論、サービスです。
船は予定より遅れて午前10時過ぎに新農渓に着いた。
揚子江号からホバークラフト?のような船に乗り換えて浅瀬まで行く。そして、そこで
小舟(15人ぐらいの)に乗って河上まであがるツアーである。
蔡サンの話によると、最近は小三峡ツアーより、小さい小舟で行くので、
人気があるそうだ。 僕はこれはこれで満足したけど、小三峡も行きたかった。
というのが本音だった。
「人手のいるツアーなので、雇用促進対策もあるんじゃないか?」と穿った考え方
もしてみた。帰ってからビデオを家族に見せたら「アレッ!!人が引っ張るノ?
かわいそう」と言う声が返ってきた。実際は乗り手と引き手のコミニュケーションが
あったりで、結構お互い楽しんでいたけど、ビデオだけ観てると、
人が牛馬に見えるのかも知れない。
ホバークラフトのシーンから、
サムネイル画像で新農渓川のぼりを体験しましょう。
・・・・・・・・・ 行った人は思い出してください。
巫山十二峰
神女峰
は、幽静秀麗なすがたで知られている。四十五キロにわたるこの峡谷は、三峡のなかでもいちばん長く、一番ととのった姿をもち、大峡と呼ばれている。
ここでとりわけ名高いのは、奇峰が美を競い合う
巫山十二峰である。
なかでも秀麗なのは神女峰だ。
たちこめる霧のなかに浮かぶ山々は淡い色彩の水墨画をみるようだ。
雲の間に姿を見せる切り立つ岩肌は、濃い色彩の油絵をみるようだ。
三峡の中段に位置する
巫 峡
李白三度三峡を訪れる。
「詩仙」と言われる李白は、旅が好きで三峡を三回訪れ、多くの詩を残している。
李白がはじめて三峡を訪れたのは、唐の開元十三年(725年)のことだった。
家はかなり裕福で、詩書を学んだだけでなく、剣戟にも興味を持ち、旅が好きだった。
四川を離れたのは25歳のときで、都に出て大いに活躍したいという抱負を胸に、故郷を旅立ったのだ。こうした気持ちで目にした三峡を歌う李白の詩は明るく弾んでいた。
昨夜巫山の下
猿声夢のうちに長し
桃花緑水に飛び
三月瞿塘を下る
雨色風に吹き去り
南行楚王を払う
高立に宋玉を想い
古を訪れしに裳を沾す
この詩からも,舟を乗り捨てて岸に登り、落花流水をながめ、先哲前賢に思いをはせ
旅を心ゆくまで楽しんでいる李白の姿がおもわれる。
李白の二度目の三峡のたびは759年のことだった。このとき、李白はすでに五十八歳だった。李白は政変に連座して、流刑になる。激しい憤りと悲しみを胸に、再び、三峡を目にした。
巫山青天を夾み、
巴水流れて茲の若し
青天到るとき無し
だが、白帝城に着いた李白は突然赦免の知らせを受ける。
李白は、舟をやとって三峡をくだる。そして、その喜びを詩に綴り
朝に辞す白帝彩雲の間
千里の江陵一日にして還る
両岸の猿声鳴いて住まざるに、
軽舟すでに過ぐ万重の山。
・・・・・・・・と歌う『朝に白帝城を発す」という千古の絶唱を書き上げた。
周恩来氏は、1958年3月のはじめに重慶で、李白の『早に白帝城を発す」を
毛筆で書き写した。現在、北京歴史博物館に保存されている。
長江を愛する周恩来主席は求めに応じて筆をとり、長江を歌った詩の中で、もっ
ともよく知られている李白のこの詩を書いた。
もう一人りの巨人・毛沢東氏が長江を泳いだ時の一首も添えてみる。
長江の水 いま飲みしに 武昌の魚 はや食べぬ
万里の長江泳ぎ渡れば 見わたす限り楚の空ひろがる。
風邪吹き波打つとも、 静けき庭のそぞろ歩きにまさる
きょうの日 寛ぐを得たり。
川のほとりにて、子いわく 逝くものは斯くの如きか。
風邪に帆柱動き、 亀山と蛇山静かにて、
大いなる計画は立ちぬ。
南北に飛ぶが如き橋をかけ 天然の濠を途と変えん。
上流になお石壁築きて、 巫山の雲雨を絶ちきり、
高き山峡に平らなる湖を出さん。
神女恙なからんも、 さぞ世の異なれるに驚くべし。
この写真は船から
船へわたる時の
ステップです。
私は日本人の相客は余り好きじゃないんです。
と、添乗員のF氏が言ってたのはこんなことかナ
と、思ったりした。
6時半に予定の船長主催の
ウェルカム・パーティは1時間
おくれて7時半に始まった。
やはり、こういうパーティには
西洋人は絵になるものである
伝統なのか?歴史なのか?
格好がいい。ファッションも我々アジア人とは違う。
お年のほうは皆、白髪で、アジアの方が若く見えるのに、この華やかさの違いは何なんだろう。
もし、この船が日本人が殆どだったら「ふるさとのお国自慢」が始まることになるところだった。
後ろに見えるのは重慶の街
揚子江総統四号甲板より西陵峡を望む。(船上を擬似体験してください。)
三星堆博物館
異様な仮面、これが3000
年前というのが驚き
18:31分やっと虹橋空港を離陸。 さて、今回の旅のもう一つの楽しみは、実は2年前から留学生の陳小姐に習ってきた中国語会話がどの程度ネイティブな言葉として中国人に通じるか、ということでした。
僕の記念すべき最初の会話は悲惨な結果に終わったのでありました。
・・・・機中が少し寒くなりました。福岡〜上海間は最初からとても立派な膝掛けが用意されてましたが、国内線にはなかったので、意を決して傍に来たスチュワデスに言いました「われ(我)欲す(要)膝掛け(毛布)」ウォ ヤオ マオジン!」
とてもよく理解した。そんな顔でスチュワデスの小姐(中国では若い女性のことは容貌に関係なくこう呼ぶシャゥジョ!!と)が去った。「成功!」とほっとしているところに小姐が持ってきたのは何と、3〜4部の新聞であった。新聞は確か
バオジィと言った筈だ!今更 ブヤオ!(要入らない)とも言えず。シェシェ(謝謝)と言ってしまった。
僕は膝をさすりながら、全然分らない中国語新聞をしばらく見続けるはめになった。隣の席にピーカン氏が居なかったのがせめての救いだった。
上海虹橋国際空港着 13:35(時差1時間なので航行時間は一時間三十分)
空港での待ち時間が2時間もあるので、近くの上海動物園にでも行こうということで、孫悟空のモデルになってる金色の猿を見に行った。入園料は15元でした。
成 都
成都には何年も前から思い入れがあった。今回の旅も計画段階から三峡ツアーということで重慶からスタートしても良かったのだけど、成都をもっと知りたくて2日間の滞在を計画した。
中国国内を旅する場合、成都市は昆明・大理にも、そして西安にも列車で移動出来る。チベットのラサもここから飛び立つことになっている。近くには中国一の人気スポット九寨溝,黄龍があり、峨眉山がある。
そんな訳で楽しみにしていた街である。
人口1億3千万人を抱える四川省の省都である。古来より天府の国と呼ばれてきた。
又、古代から巴(今の重慶)の国と蜀の国に分かれていた。
益州(今の四川省)の劉璋(りゅうしょう)を攻めた蜀の国の劉備が蜀漢を建国し、天下三分の計の一つとして名軍師・諸葛孔明と共に中国統一を目指したのは、今から1800年も前のことであった。
今,成都は市街地人口300万の大都市である。 イメージとして抱いていた空はどんよりとし花曇りのような状態で太陽は見えないけど、その代わり街は緑あふれる、歴史のまち、そんなイメージだったが、実際はとは違っていた。街中、地震の跡のように瓦礫がいっぱいなのに驚いた。
市街地全体がスクラップ and ビルドの最中なのだ。一瞬、「黄砂がここまできてるんだ。」と、思ってしまった。 旅人としては悪い時に来た。と言うのが実感だった。
武漢にもあったけど毛沢東のデカイ
銅像が公園の中心に建っていた。文革後、殆ど取り壊され残っているのが珍しいそうだ。
明日は朝から成都の北約40キロのところにある博物館。三星堆博物館に行くことになっている。
予定としては、武候祠や杜甫草堂にも行くことになっているが、望江楼と竹子公園の竹も見たいし、百花潭公園の蘭も時間があれば行って見たいところである。
ツアーと別行動をとってピーカン氏と二人なら、タクシーを使えば何とかなるかも知れない。
今夜は旅の楽しみの按摩でも・・・とピーカン氏と意が通じた。
早速、5楼の花園(エレベーターの中のカラー案内で見ていた)へ行ってみた。
飛びっきりの小姐按摩たちがニッコリ迎えてくれた。部屋にも来てくれる
(何とか通じた)と言うので「11時にシィ イィ ディェンジョン リャンガァ
二人来て」と言って部屋の戻った。
そもそも僕が本格的に中国語会話を勉強しょうと思い立ったのは実は按摩がきっかけだった。
中国を旅したことのある人はもうご承知の通りツアーから離れない限り、周囲は日本なのだ。
中国人ガイドに始まって、行く先々のみやげ店から昼、晩のレストランまでかかりの給仕が流暢は日本語を話してくる。勿論、営業のためである。
初めての中国の時、僕は20ぐらいの基本的中国会話文を必死で暗記した。
そして初めてネイテぃブ相手に発した言葉は多少銭ドーシャオチェン「これ幾らですか?」だった。
見事に無視されたのだ、北京で早朝に友人二人で公園に太極拳をしに行った時に、露店で売っていたパンを買った時だった。
声が前に出ず四声も全く無視した発音だったのである。
次の旅の時は NHKテレビ中国語を数回見て 四声を少し学んだ。
例によってツアーグループと円いテーブルを囲んでの夕食の時だった。
そろそろ最初のビールがなくなる頃、僕は給仕娘に声をかけた。「シャウジェ!」
今度は声が前に出た。
小姐が笑顔で来る。すかさず次のフレーズが出る「ザイ イービン ビィジョゥ!!」(ビールをもう一本持ってきて!)小姐が短く何か喋る
、この時は大体「ビールは何ビールにしますか?」と銘柄を訊いているのだ。
分った顔ですぐ答えるとよい「チンタオ!青島ビールください。」時にあるケースとして、このあと小姐が「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」とても長い中国語を喋ることがある。
これは一瞬パニックになるケースだが、決して慌てることはない。
僕の経験では80%これはこう訊いているのである。
「お客さん、最初のビールはサービスですけど、今、注文されたビールは有料になります。よろしいですか?」と言っているのだ。だから慌てず、首を立てに振りながら
「トィ 対!」または「ハオ 好」と答えればよい。周りのグループからささやかな羨望の眼差しを感じる瞬間でもある。
そしてこの次は「・・・・・・・・・・・」も分るように勉強しょう。と向学心の湧いてくる瞬間でもある。
・・話が脇にそれてしまった。(僕の悪い癖である)つまり、われわれの実践会話は事ほど左様になかなか巡って来ないのです。
そんな中で最大の会話の必要空間が按摩施術時といえます。
まあ、彼女らのうち99%は日本語が全く分らない、なかには英語を喋れる娘もいる。
そんな小姐はたいていが女子大生按摩である。時には按摩もどきもいるが正真正銘の按摩をしながら昼、大学に通っている小姐も多い。
一番最初にしてもらった西安・長安城堡大酒店の可愛い小姐・ルゥとは、「リーベンレン?(アナタ日本人?)」とにっこり笑顔で言われて、思わずうなずいてしまったが最後、沈黙の世界になってしまった。
何か意思の疎通を図りたいのだが会話が出来ない。ハイと言う言葉に窮してしまったのである。英語ならイェス、フランス語ならウィじゃないか、それなのに中国語で知ってるのはニィハオとシェシェだけ、あとはにわか勉強で覚えてきた言葉も、相手に四声を無視しては通じないのだから、
45分間の沈黙で、あとはときどき眼が合っては微笑み会う。
これはきついことだった。
結局、筆談と相成ったのである。名前も、年齢も、住まいも,そして趣味まで・・・
ところが想像してみてください。相手は腰や、足を揉んでるわけで、僕の書く漢字に返事を書くとするとどうなるのか、こちらは200元(当時3000日本円、今は3300円)の金を払っているのだゾ。
・・・・・僕が会話の勉強を始めた最大の理由は按摩をしながら小姐と会話を愉しむことだったのである。
初めの頃に、やりとりしたメモの公開(先頃、鈴木宗男と外務省で話題になったが)してみると、面白い文字が結構残っている。
「君世界一美女 君傾国美人 君値億万円 我独身 年四十。」{君年齢?」
「我熱愛汝 我欲汝現在」すかさず小姐が書き返す。
「恷是一只大色狼!! 」たまには英語の文も混じる。
「Don’t be afraid .I am not a wolf .I am gentleman ]
さて、話は成都喜来登(シェラトン)飯店の1803号室へ戻る。
11時が2分も過ぎないうちにドアのチャイムが鳴った。
按摩中の写真は差し控えさせてもらうけど2人ともなかなかの美人娘だった。
僕の会話はかなり上達しているのか横で一緒にして貰っていたピーカン氏が 「聞いてると中国人同士で話してるみたいだよ」といってくれた。
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嬉しかった。けど、ヒアリングに欠点がわかるだけに嬉しさ少々。
按摩はとても上手で、隣のピーカン氏は途中の段階でいびきが聞こえてきた。
そのうち、僕の意識も朦朧としてきた。
このまま二人とも眠ったら大変なので、習ってる限りの中文を思い出しては口に出して、通じるか試した。
「ジンティェン ウォ ヘン レイラ (今日はとても疲れたョ)
「スィジャ〜ラ!!(眠い 眠いョ)」
「イィ チィ チュイ スィジャ〜ラ!!(一緒に眠りたいなぁ〜)」
小姐が口を尖らせて「不 好 不 好 ブハォ ブハォ(駄目 駄目)」と答えたのでしっかり通じていたようだ。
こうして、僕の生きた中国語会話第一日目は終わった。
三星堆博物館
広漢市の郊外に昔から3つの巨大黄土堆があり、三星堆と地元で呼ばれていた。
1986年、ここから約3000年前の祭祀跡が発見され、青銅器、玉石器、金製品
象牙など、千点以上の文物が出土した。
縦目の青銅器仮面に代表される様式は、漢民族と系統を異にする古代少数民族がこの地で独自の高度文明の花を咲かせていたことが証明された。
この一風変わった造形の青銅器
は古蜀国の政権構造や社会形態を物語るものとして注目を集めた。三星堆の出土文物は万物には霊が宿ると信じた古蜀国の人々の精神世界と、豊かな世界観を現代人に静かに語りかけている。
武候祠 と三国志(蜀)
関羽は張飛と共に三国志に於けるヒーローである。
西暦200年、劉備が曹操の攻撃を受け,袁紹を頼って落ち延びた時、下ヒの守りを任されていた関羽は、そのため曹操軍に降伏したけど、曹操は関羽を丁重に迎えいれ、「私と共に行動しないか?」と申しいれたが、劉備との「義」を重んじて、これを断った。その上で、曹操と共に白馬の戦いに出陣し、顔良(袁紹軍の大将)を斬り、曹操への「義」を果たして劉備のもとへ帰った。
ここから生まれた「義の人」関羽のイメージが、のちに小説や戯曲によって中国人の人気を集め、神として祀られることになる。
211年、要請を受けて、蜀に向かった劉備は四年後成都の制圧に成功するが
、魏・呉・蜀三国の係争の地・荊州を、関羽は一人で守りぬいた。
張飛とともに「兵一万に相当する」と称されたが、陳寿が「剛勇にすぎて人を見下し、身の破滅を招いた」と評したごとく
、魏・呉側に性格的短所を突かれて、墓穴をほった。
最後は魏の司馬い、呉の呂蒙、陸遜らの策謀によって、息子関平ともども捕らえられ殺された。
一方の張飛は、「暴にして恩なし」と陳寿に評されたごとく、221年、関羽の仇を討つべく呉討抜軍が出撃する間際、部下の張達らに寝首をかかれた。
眼が大きかったので閉じて眠っているのに、未だ開いていて、張達が己の行動を「詫びた」ら返事が無い。よく見たら眠っていた。・・と
ガイドの蔡さんがマイクでしゃべっていた。
武候祠の一番奥まったばしょにある 孔明殿、諸葛孔明像は高さ2メートル
ここは「静遠堂」とも呼ばれている。 右の像は孔明の子
文字は郭沫若の筆
成都市内の武候大街にある。西晋末年,成漢李雄が三国時代の蜀の名宰相諸葛孔明を記念して建てたもの。
唐代にはすでに名所旧跡として広く知られていた。明代初期の改築の際、劉備を祭る「漢昭烈廟の中に移され、君臣二人を一緒に祭る祠となった。
三絶碑と呼ばれる唐碑は特に有名。
武候祠の構成は、大門をはいって第二門までの空間が「柏森森」の森である。
林の間をまっすぐ行くと、第二門があり、第二の空間ななっている。
正面に劉備をまつる劉備殿がある。その左右は廻廊になっている。
劉備と「桃園結義」
字は玄徳、年二十七歳、州郡の城に出て,有士募集の高札を見た。
長歎して去ろうとすると、後ろから大声で声をかけた者がある。 その人、
身の丈八尺、豹頭環眼、燕頑虎鬚、すなわち張飛である、字は翼徳。次いで
関羽、字は雲長があらわれる。身の丈、九尺五寸、鬚の長さ一尺八寸、丹鳳の眼、
臥蚕の眉。
ここで、互いに義兄弟になろうと言い合うが、飛飛の提案であす桃園で行おうと
いうことになった。
飛曰く、吾荘ノ後ニ桃園アリ 花ヒラキテ正ニ盛リナリ、明日 、マサニ園中ニ於イ
テ天地ニ祭告シ、我ガ三人、結ンデ兄弟ト為ルベシ。
{互いに姓を異にするが、兄弟になった以上は、同心協力、救困扶危しょう。同年同月同日に生まれなかったことを、いま望んでも仕方がない。しかし同年同月同日に死のう」と誓い合った。
こうして、三国志物語の三人の主役は誕生した。
三国志の物語は魏の国の曹操とその係累(敢えて部下としないのは曹操死後も魏は続く)、呉の国の孫権とその係累、そして蜀の国の劉備・諸葛孔明とその仲間達、それぞれの登場人物たちの魅力と、三つの国がそれぞれに知恵を絞って、生き残りの競争に鎬をけずる物語である。
我々は日本の作家の解釈で読むわけだけど、その下敷きになっているのは「三国志演義」なのである。いくつかのハイライト・シーンもさることながら作家の主観でとらえた登場人物に我々読者も贔屓や嫌いが生じるのは止む得ないことではある。
僕は次々と登場しては消えていく多くの英傑の中で、異民族の血を引いた騎馬の長・馬超(176〜222)字・孟起にとても惹かれるものがある。
涼州(今の敦煌を中心とした砂漠地帯)の錦馬超のストーリーは、ときに三国志の世界とは別の世界にいるような壮大な気持ちになるのである。
西域という、からっとした大地が舞台のせいか、それとも、主人公が権謀術数の世界から、かけ離れた乾燥した?性格から来るからなのか分らないが、
馬超はぼくにとって、胸のスカットとする豪傑なのである。
絡みの相手漢中の五斗米道の張衛も同じく好きなキャラクターだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
廻廊をめぐって、関羽、張飛、趙雲といった武将や法正など文官の塑像を見て、正面の劉備の金泥の像を見ると、当然のことながら、皇帝の衣服をつけている。
彼の64年の生涯のうち、最後の三年間だけが漢(蜀漢)という短命な帝国の皇帝であった。
かれはその最晩年、関羽の仇をうつということで、みずから大軍をひきいて蜀を出た。
劉備はいくさが上手ではなく、しばしば破れ、ついに長江の峡谷にある白帝城に逃げ込み,ここで病み、やがて没した。
当時、孔明は成都にいた。
病床の劉備は孔明を枕頭に呼び、遺言をした。この遺言は正史である「諸葛亮伝」に出ている。当然、その場に記録係の史官もおり、他の側近もいたろうから劉備としての公式発言であり、事実であったろうと思われる。
「・・・・・君の才能は曹丕の十倍ある。かならず国を安んじ、わが理想であった漢を復興するだろう。我が子の劉禅については、これを補佐するにあたいするならそうしてやってくれ。そうでなければ君が取って代わって蜀漢の皇帝になってもらいたい。
劉備殿を過ぎると、第三の空間に入る。奥の院というべきところに諸葛亮殿が建っている。孔明は文人でありながら武将を兼ねた。しかし戦場にあっても身を甲冑でよろうことはなく、装飾を一切つけない輿に乗っていた。
頭には葛の繊維でつくった葛巾という粗末な頭巾(当時、野人や隠者のかぶるものとされていた)をかぶり、手には指揮のための羽扇一本持っているだけで,身に寸鉄も帯びていない。この塑像も記録のとおりの姿である。
彼の最後の戦いは、四度目の北征であった。五十四歳、五丈原に布陣し、敵と対峙しているうち、その八月に病死した。
杜甫草堂
杜甫(712〜70)はいうまでもなく盛唐の人で、中国に於いては古今第一の詩人とされる。李白は詩仙と呼ばれ、杜甫は詩聖と呼ばれた。
科挙の試験に合格せず、諸所に漂泊した。ついには、妻子をつれて、食を求めて鳥も通いがたいという蜀道の嶮を超えて四川のこの成都に流れてきた。唐の759年の12月、杜甫四十八歳のときである。
彼は成都郊外に小さな草堂を結び、ひさしぶりに垣の内にあんずる暮らしを得た。
杜甫の生涯で、成都時代の数年こそ、もっとも安楽であったといえる。
こんにちは、杜甫は中国最大の詩人であると言う点で評価が確立しているが、在世中一部の玄人筋から高く評価された外は盛名をうるに至らず、死後認められ、特に宗代以後、圧倒的な尊敬を受けるようになった。
杜甫が諸葛孔明の廟を探し訪ねていく詩「蜀相」の詩は有名。
丞相ノ祠堂 何ノ処ニカ尋ネン
錦官城外 柏森森
措ニ映ズ碧草自ズカラ春色
葉ヲ隔ツ黄ウリ空シク好音
三顧頻繁タリ 天下ノ計
両朝開済ス 老臣ノ心
出師 未ダカタザルニ身先ズ死シ
長ニ 英雄ヲシテ涙 襟ニ満タシム
出来れば、あと2ヶ所ほど廻りたいところがあった。、特に望高楼公園の竹公園は是非見たいところだったけど、あいにく「道路が混んでいて、時間がかかる。」との運転手の弁でとりやめた。
「この運転手、もしかして、成都をよく知らないんじゃない。」「同じ所を何回も廻っているよ」記憶力抜群のピーカン氏が言った。時計はやがて5時をさそうとしていた
とりあえずホテルに帰ってゆっくりしてから)皆で夕食に行きましょう。
ということになった。
ピーカン氏と話して「そうだ、昨日の彼女たちと成都の街を案内してもらい、夕食でもご馳走して、そのあと、カラオケなどゼンモヤン!!(如何なもんだろう)」僕が携帯で話をする。ということになった。幸いケイタイ番号は昨夜訊いていた。
・・・・通じるだろうか? 初めての電話会話・・・教材で習った時もっとしっかり勉強しておくのだった。確か「ウェイ!(もしもし)」で始まるんだっけ・・・・(つぶやき)1803号室の電話の前でしばしシュミレーションにふける。そして静かに受話器をとった。
旅,低頁 蛎 弌純 宅?
ウェイ ニシィ チン シャウジェ マ
厘 頁 寄墳。峡 阻 ? 貫 晩云 栖器。
ウォ シィ ダァシィ。 ドン ラ 。 ツォン リベン ライダ。
低 嗤 扮寂 宅,?
ニィ ヨゥ シィジェン マ。
面倒なので後はヘンな翻訳できます。
「ジンティェン ワンシャン ヨウ コン マ?(今夜、暇ないの?)」
書爺 絡貧 嗤 腎 宅
ウォ シャン チン ニ ジャオ チィ ジェ コゥ イィ マ?
我 想 清 ? 材 去 街 可 以 ・?
(よければ、今夜,成都の街、案内して欲しいんだけど。)
イチィ チィハン チュイ ゼンモヤン!
一起 ?飯 去 ???(正式には・・奕 担 劔 )と書く。
ウォ チン クォ・・(僕がおごるよ。) 我 ? 客
・・・・・ とても、とても長い電話だった・・・・・
。
僕の貧しいヒャリングの力によれば、陳 小姐の応えは次のようなことだった。
「アラ!! ゴメンナサイ。ワタシモ トテモ トテモ イキタイ アナタタチ ワタシ ダイ
スキ デモ (真 遺憾!!ジェン イーハン)トテモ ザンネン アリマス。
コンバン ヤクソク アリマス パパ ト ショクジ スル コトワレナイ (僕が断れ、
大事な用が出来た。と言え、と言った) ホーティエン(あさって)アタシ ヒマアリマス
(バカヤロー!!あさってはは川の上だぞ。) イーハン! イーハン!!」
いつの間にか、横に来ていたピーカン氏がニコニコ笑いながら言った。
「なんチよ・・、イーハンって、麻雀をしたいって、と言ってるの?」
かくて、予定が外れてしまったピーカン氏は夕食まで「僕はネルョ」と言ったか言わないうちにもう、いびきをかいていた。
僕はひとり、夕食までの1時間ほど、成都の街の散策に出かけた。
僕等のホテル天府喜来登酒店(成都シェラトンホテル)は成都市のまさにど真ん中、人民中路の一段・市体育中心の横にある。
道幅が広いので大きな歩道橋をわたりデパートの多い在春照路をぶらつき、ほどなく行くと太平洋百貨が目に入った。
以前、どなたかのホームページで、ここの玩具コーナーにとても怪しい(面白い、と言った程度の意味です。)玩具が沢山あった。と書いてあったのを思い出したので、行ってみることにした。エスカレーターで一楼から5楼(階のこと)まで、つぶさに見たつもりだが見つからなかった。
玩具という単語が中国語でどうしても考え付かず(はっきり言えば知らなかった)訊くことが出来なかった。
Tシャツで出てきてしまったので、いつも離さない筆記具もなく、果たさずにデパートを出た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そして、夜になり晩餐会と相成った。・・・・・・・
どこのレストランで食事をしたのか、何故か?覚えていない。 多分、「陳麻婆豆腐本店(ホテルのすぐ近くにあるのだが)」に彼女らと行けなかったのが、悔やまれたからだろう。
結局、この夜は皆さんと一緒に麻婆豆腐の唐辛子にヒィヒィ汗をかきながらそれでも結構楽しい、笑い、笑いの晩餐会でありました。
添乗員のFさんが出される毎に一品一品、菜(中国語で料理のこと)を説明してくれ、一同、頷きながらも、最初の箸つけは、勇気のいることです。
いつのまにか趣向が分かれてきて、グループ化するのは不思議なものです。Fさんは一年ほど北京に留学滞在の経験があるとかで、日常会話はもうチャイナピープルでした。
かくして、2日目の夜はカラオケで日中交換が出来ず、密かに練習してきた「昴」も「北国の春」もおくらでした。
現地テレビを観ながらの静かな夜が更けていきました。
2日間の短い成都だった。多分又、近い未来、この街を訪れると思う。
この街を離れる前に現地ガイドの蔡サンが説明してくれた成都の関連コメントをメモから思い出し書きしてみよう。
なかにはオンボロバスの揺れがひどく。キーワード1個、やっとメモれたのもあり読み返してみても判別困難なのもけっこうあった。
●この街の人々は芙蓉の花がトテモ好きで、7月に満開になる。城を蓉城と呼ぶ。
●本当はシルクはこの街でとれる。西安に集められて加工され、西国に運ばれて 行った。だから昔からこの成都の街を別名 錦市(シルクの町)と呼んでいた。
●中国の漢方薬の70%は四川省でとれる。周囲をやまで囲まれているから、 又、漢方薬専門の大学が五つもある。
●1890年ごろ、この町の安順橋のそばに,姓は陳、愛称が麻婆(あばたのお婆さん という意味)というあだなの婆さんが住んでいた。
彼女は豆腐を作って売っていたが、簡単な惣菜も売っていた。当時、成都の街の 労働者は、昼時になると、麻婆の店で昼飯を食った。その婆さんが発明した豆腐料 理は美味しく評判になり、ごく自然に「麻婆豆腐」と呼ばれるようになった。
大 足
窓からまぶしい陽が差し込んでいた。
「蜀犬、 日に吠ゆ」のことわざが浮かんだ。いい天気だった。
四川の犬は、太陽を見て吠えるんだそうだ。生まれてから、地球のすべてが曇天であると信じて生涯を終える。まれに雲間から太陽がのぞくと怪しんで、吠えるというらしい。
司馬氏の「街道をゆく」によれば、・・・・・すでに唐の中期の文章家「韓愈(768〜824)が使っていることを知った。
見聞や見識のせまい者が優れた言行に接したとき、それが理解できず、疑って怪しみ、攻撃することをいう。韓愈は蜀に来たことがなかった。彼がそういう喩えを使っている以上、蜀の雲霧のはなはだしさが、知識としてひろく知られていたにちがいない。・・・・・・・・・・・・・・・・・
「今回、唯一の世界遺産ですから」とFさんが力説してたが 個人的には仏像はあきあきしている。タイで、ジョグジャカルタで、敦煌で、シルクロードで、西安で観てきた。信心が足りないのか?。
大足の名の由来は、宝頂山の崖の池底にあるとい2mもの足跡から。釈迦が西方浄土に上る時に残したものとか。
石刻が全部で13カ所あり、大仏湾の摩崖物が代表的。南宋の名僧、趙智鳳が1179年から約70年を費やして完成させたと言われ、500メートルに及ぶ岩壁に31の石窟がある。
釈迦涅槃像(31m・上、写真)は有名。六道輪廻像や1000本の手が彫られた千手観音、など仏教説話が系統的に造像されている。
、
ガイドの蔡さん(重慶市)の話だとこの寺は大乗仏教だそうだ。随分長い時間、大乗と小乗仏教についての説明があった。
また、仏教と道教についての、違いなどを延々と語っていた。
はっきりと自信はないが、道教は、現世のうちに長生きしよう。そして、懸命に修行をすると、道士(坊)から仙人になれるのだそうだ 仙人になったら、空をとべ、海の上も歩ける。不老不死となり、死ぬことがなくなる。
・・・・・・・とかなんとか。
大乗・小乗の乗とは乗り物つまり「教え」のことだそうです。
小乗仏教とは「煩悩をなくす」ためには「出家」つまり、妻子、職業、身分すべてをを捨てて、修行の道に入らなければいけない。
(世捨て人になる) 人間は個人的な悟りに満足している小乗の修行の完成者を羅漢(らかん)といいこれは自覚というのだそです。
一方、大乗は他覚で菩薩になりそして死ぬと仏になる・・・チョット意味が不明。坊様に聞かないと・・・・・
ともかく
大乗仏教は「煩悩は持ったままで幸福になれる」という教えです。つまり、世俗の中で生活していなが幸福を得られる。さて、どのような方法でそれは得られるのか?
それは、「空」・・・・・こだわりを捨てること。と、「中道」を極めることである。
さて、それでは大乗仏教の根本精神である「中道」とは一体なんだろう。
ひろさちや氏の仏教百科から引用するとこうなります。
・・・・・・釈迦は入滅の直前、弟子たちに次のように遺言しています。
「わたしが亡くなったあと、あなたがたは自分自身を灯明として、わたしの教えた法(真理)を灯明として、怠らず精進しなさい」と。
これが、有名な 「自灯明・法灯明」・・・の遺言です。
釈迦の生前、釈迦がこの世照らす光明でした。しかし、釈迦の入滅後の暗闇の世界を歩くには、わたしたちには灯明が要ります。
その灯明が「自灯明・法灯明」なのです。釈迦の教えた真理(法)を灯明にするだけではなしに、自分自身を灯明にせよ。と遺言したのです。
換言すれば、それは、各自の「いい加減」を見つけなさい。ということです。
中道とは・・・・いい加減なのです。
中道は・・・・・ゆったりとした真理の大道です。
中道は・・・・・結果にこだわらない歩みです。
私達は悟りをめざして歩みますが、悟りそのものにこだわると、中道は歩めません 登山するのに、頂上にこだわってがむしゃらに登るのは中道ではありません。
本当の登山は、一歩一歩あたりの景色を楽しみつつ登る、登り方です。
仏道(中道)を歩むのも同じで、到達点(頂上)は忘れ去っていいのです。
こだわらずに一歩一歩楽しみながら登ること・・・・それが大乗仏教の生き方です。
自分にふさわしい登り方、それが「中道の精神」だそうです。
21世紀は「こころの時代」といわれている。自灯明とはまさに自分の「こころ」の持ち方が大切だといっているのだろう。
「中道」とは、普通と解釈してもいいのではないか?
「優れず、劣らず」「富裕すぎず、貧すぎず」早すぎでもなく、遅れるでもなく」 生きる、ということは、「がむしゃら」ではつまらない。
せっかく、この世に生を受けたのだから、「たのしみ」ながら生きようではないか。
まあ、こんな風に大乗仏教の根本精神を、自分の都合のいいように解釈したきらいがあるが、これも、年輪を重ねた今,言えることで、若いうちから、「目標、や結果など、こだわらずに、人生、いいかげんに生きるべし」では若者のフリーター志向を増長させるばかりのような気がする。
思うに・・・・中道とは「こころ」の持ち方であって、「自灯明」とは、自分の力で灯をつけて、暗闇(人生と言う荒波を)生きていくこと、他人に頼らないで生きなさい、と言っているのではないだろうか。
そして、その場合でも、それに100%かけるのではなく、「こころ」はいつも、余裕をもちなさい、「きびしさ」も「たのしみ」に思えるように「いいかげん」の気持ちぐらいがいいんじゃないか、と、解釈すればどうだろう。
自分自身を、もっと、客観的に眺められるように、余裕を持って生きなさい。
そんなことではないでしょうか。
僕としては、仏教のコトバや、お釈迦様の教え、そして、歴史上の有名な教祖たち(わが国も含め)の「教えや、遺した言葉」を自分流に解釈して、納得したり、反論したり、それはそれで、結構面白い。
そう思えばアジアの遺跡やお寺を訪れ、ガイドのうんちくを聞くのも、楽しいことである。最も、その場合こそ、「中道」の精神で聞くことを忘れてはならない。
成都〜重慶市ノ間は約400キロある。
先ほど立ち寄ってきた大足は重慶市に入る。400キロというと、鹿児島から九州を出て山口県まで走る距離である。
高速を走るわけだが日本の高速とは訳が違う まあ、信号が無いというのと、制限速度が100キロを超えると言うぐらいで、快適性は保障出来ない。
結構揺れる。冷房でも効かなかったら怖いものがある。
トイレ駐車のドライブインも充実してない。いきおいガソリンスタンド停車になる。
従ってトイレ事情が悪い。
僕らは大足を午後3時に発ち、高速にのった。予定では重慶(チョンチン)着は午後5時ぐらいである。
好事魔多しの譬えは当たった。 交通事故に遭遇したのだ。
大型トラックが見事に反転していた。あたり一面布袋が散乱していた。
大型のクレーン車が横にいたから、道路脇に運んだのだろう。
何とか一車線だけは通れるようになるまで、およそ1時間は待っただろうか延々何キロの渋滞だったのか。まあ、1時間程度で「よかった。よかった」と蔡サンが言ってたから、まだ長い時間停車もあるのだろう。
トイレに行きたい人はどうするのだろう?・・・・ふと、想像してしまった。
重慶に来る前に抱いていたイメージがあった。
「地球の歩き方」他のガイド雑誌から受けたイメージでだったけど。それは、街としてはプラスのそれではなかった。
一つ、山城と別名される狭い、坂の街である。
一つ、人口1500万人の中国一の人口密集地。
一つ、いつもどんよりしてて、空気が悪い
一つ、観光としてみるべき所がない。
一つ、自転車は殆ど無く、足としてはロープウェーである。
・・・・・確かに重慶は坂の街だった。
僕等の泊まるホテル・マリオット(万豪酒店)は重慶一の五つ星ホテルだそうだ。
しかし、部屋がそうなのであって、名物の火鍋はホテル・ホリデー・インがナンバーワンなのだそうだ。「今日はそこの火鍋が夕食です。」と蔡サンが自慢げに話していた。
時計はもう8時近くを指していた。
ホテルの前に「まず、夕食」ということになった。
途中の高速での事故のため予約時間が来てしまったのだろう。
「確かに火鍋は美味しかった。し、トテモ辛かった。特に真ん中の円筒の中は、辛さに弱い僕にとっては,もう絶対無理な味でした。それより、今夜の按摩(会話レッスン)はどうしょうか?時間があれば、夜の街の散策ウォーキングもしたいし、・・・そんなことを考えながら、名物の火鍋に舌鼓を打つことでした。
食事はナンバーワン「火鍋」
ホテル・ホリデーイン。
街歩きはピーカン氏と共に、私達の街づくりのための参考に必要なので、出来る限り二人で繁華街をブラつこう、というのが今回の目的のひとつでもありました。
いまのところは、今度の旅は何故かついていない感じです。
それでも、何とかホテルについたら、荷物だけ片付けて、F氏、K夫妻、ピーカン氏五人で街に出かけた。十時少し前だった。//これは正確である。
実は、中国の古典曲のCDを2,3枚買いたいと、思っていた。眠る前に聴くと、とても気持ちよく眠れる。アルファー波が出るのか、喜多郎のシルクロードより効果がある。
飛び込んだデパートに客が殆どいないので入り口の服務員に訊いてみた。
叱泣 購壇.
湘泣磯 議。
厘勣 酎怛咄赤議 cd, 壓椎隅 辛參 択?
??????
あわてて時計を見たら10時前でした。
それにしても重慶の繁華街にはビックリした。
広い、綺麗、賑やか、華やか、落ち着き,楽しさのすべてを備えた街に見えた。
中央の十字路(シーズールゥコウ)の広さはどうだ。
南京路より広いんじゃないだろうか。
あちこちにモニュメントがあり路上にテーブルでは、若い女性たち、家族連れ、いろいろなグループが、この時間でもいっぱい居た。
特に道路幅の広さ、(ゆとりともとれる、)には天文館と比較して羨ましい限りだ
った。でも、もしかしたら、この感動は本物ではないのかも、と、今、冷静に思い出してみると感じてもいる
。余りにも、先入観がマイナス側だったからじやないだろうか?
思いのほか重慶の街は綺麗で賑やかな街だった。というのが本当かも知れない、しかし、街というのは、どうだろう?住んで楽しい街がいいのか?訪れたとき感動を与える街がいいのか、両方なのか?マァ、ゆっくり考えるとしても、この時間に(10時)この賑やかさはやはり、尋常ではない。
天文館は八時にはもう暗いゾ。
マリオット・ホテルのフロントで案内係りの小姐(シャゥジョ)に訊いた。
「アンモア ザイ ナール ジィ ロウ?」(按摩は何処(何階)ですか?」
「チィロウ(7階)」と言ったようだった。
でも、どの案内板にもエレベーターは1〜3階までと,8階(部屋)からしか書いてなかった。
目指す七階は一体、どこへ消えたのか。一瞬、??魔法学校への
ホームがなかなか見つからないハリーポッターの心境になっていた。
実は、全く別の建物(繋がってはいるけど)にあった。ドアを二つ開けて行くと目指すエレベーターはあった。 七階でエレベーターは止まった。
男の服務員(マネージャーのこと)は言った。
「200元 45分」「アァル バィ クァィ スゥシィ ウゥ フェン」
僕は尋ねた「ファンジェン クォウイィ マ? ドゥシャオ チェン?」
部屋でお願い出来ますか? そして、いくらですか?」とファンジェン 、ウゥバィ クワィ(部屋は500元・8000日本円)
「何ッ!!按摩が8000円!!」今夜は会話レッスンは中止だ。五つ星にしなければよかった。日本でも一緒である。冷蔵庫の中も、ミニバーも高級ホテルは高い。
タイ グィ ラ!!なのだ。
・・・・重慶には名物(重慶火鍋)はあっても、みやげものがない。
人口1,500万人を越す中国一の大都市に観光客の買って帰るみやげものがなにもない。もっとも、成都市にも名物(麻婆豆腐)はあってもみやげとしては、漢方薬しかない。
シェラトンホテルの広い玄関フロアにもルイビトンのショーフロアはあっても他は何も無い。大きなビジネス・チャンスが眠っている。
味の素のテレビ・コマーシャル、和田アキ子の麻婆豆腐の唄が聞こえてきた。
・・・そんな中、重慶で皆が買いたいものがあった。
ガイドの蔡サンが自慢していた井塩である。
井塩は成都と重慶の中間にある町自貢(ズーゴンの名産である。) 白酒と世界の三大恐竜博物館が有名だけど本当は井塩がもっと有名なのである。
自貢ではすでに紀元前250年頃には塩の生産が行われていた。
井塩と呼ばれ、地中にある塩分を多量に含む石灰岩を掘り出し、精製するものだ。
清の時代には年間30万tという井塩を生産し、塩都とも呼ばれていた。現在でも生産量では全国の40%を占めるそうである。
蔡さンが「トテモ美味しい。」と言うのと、石灰岩から精製する。という説明に惹かれ、皆密かに「出来れば買いたい。」と、思っていたらしい。誰かが「蔡さん。塩を買いたい。」とバスの中で言ったから、突然、コーラスになった。
「塩ダ,塩だ、・・・塩を、私しも・・塩ダ!!・」と。
食事が済んで9時が過ぎていた。
坂の途中のスーパーに案内してもらった。客は一組か、二組しかいなかった。
蔡さんがそこのマスターと何やら話していた。「塩は無いそうだ。皆、ガッカリしていた。
しばらく、他の品を見てるうち、店の店員が念願の塩を籠に入れて運んでいた。
たちまち、レジに行列ができた。一個、10元(165円)だそうだ。5個、7個と.、買っていた。当然、僕も3個かった。安いので、もっと買いたかったが、重くなるので我慢した。ピーカン氏は買わなかった。
二人は早めに外へ出た。すると、何人かの女性が例の塩の入った手かごを走りながら向こうから来る所だった。
突然、ピーカン氏が「幾らで売ってるか、僕が見てくる。!」韋駄天のように女達の元店に走った。・・・・しばらくすると、彼が笑いながら、手に例の塩を3個持って帰ってきた。
「幾らだったと思うネ??」「・・・・」「3元(48日本円)だったヨ。」 三倍ふっかけている。という原則はここでも証明された。
沢山買い込んだ皆さんには言えず、バスの後ろで、二人して大笑いだった。
中国東方航空
518便
今回、思い出を共有
する朋友・ピーカン氏
と揚子江3号の後部
デッキにて。
拡大出来ます。
帰らざる三峡の風景を旅する。
縦目(我々は出目金と言う
)の獣面。
何だろう?実は象牙でした。
ピーカン氏がマンモスじゃ
ないですか、と訊いたら
「違う,象だ」との答えだった。