中村 義先生講演会へ
鹿児島日中友好協会へ
鹿児島大学日中学生部企画串木野市徐福記念館へ  2003・1・19
明治十年(1877)九月一日の深夜、西郷等は城山にたどりつく、城山は六万の政府軍に包囲されていた。この洞窟(間口3m、奥行き5m)にこもる、九月二十四日午前四時政府軍の総攻撃はじまる。集中砲火にあい桐野利秋・村田新八・辺見十郎太ら斃れる。
西郷は洞窟をでて坂道を下り始めた。島津応吉邸の門前まで来た時、一発の弾丸が腹と股を貫き
西郷は歩けなくなった。端座した西郷はいった。「晋ドン、もうここらでよか」別府晋介の介錯のもと最後をとげた。午前七時を少し過ぎた時刻であった。
2003/3/9南日本新聞・朝刊の「読者のひろば」欄に次のような投稿がありました。
西郷南洲に関する記事でしたので紹介させて戴きます。


   南洲の戦死地守ってほしい
                     郷土史家  平田信芳(71)

 「西南記伝」「薩南血涙史」「鹿児島県史」は西南の役を調べる際の基本文献で
ある。これらは一致して南洲翁が自刃されたのは島津応吉(通称応吉、実名久能
邸門前とする。
 鹿児島市指定史跡「南洲翁終焉之地」は、島津応吉邸跡ではない。
「南洲翁終焉之地の碑がある所は、南洲翁の首を隠したと言う折田正助邸跡だと
みられる。
 碑を建てた当時は薩軍最後の地、岩崎谷全体を記念する為だったと思われるが
どうしたことか後の人々はその場所を南洲翁終焉之地と思い込んでしまった。
 その地にいま城山団地へのトンネルが出来たり、マンションが建とうとしている
 14階建てを墓標代わりにするとは、さすがに大物と思うが、そんなことでよいの
だろうか?歴史史家から見れば情けない話である。関係当局の善処をお願いしたい。
南洲翁終焉之地
鹿児島市日中友好協会会長 海江田順三郎
黎明館 講堂