中村 義 先生 講演会 U
日本人が見た黄興像・・
中国側から見た西郷隆盛像
1909年(明治42年)1月、宮崎滔天の案内で、黄興は鹿児島を訪れた時、西郷の墓参りをしてます。
その時、次のような詩を読んでいます。
八千子弟甘同塚 世事唯争一局棋
悔鋳当年九州錯 勤王師不撲王帥
黄興は囲碁が大好きで、しばしば日本の友人を相手にお手合わせをしていたようである。
したがって、囲碁の勝敗に西南戦争の懐いを託するのは如何にも黄興らしく思われる。
こうした黄興の西郷への追慕ともいうべき心情は、同時代の日本人、とりわけ所謂,対外硬派の有力者と共鳴する面が多かった。 確かに、身長160センチメートル,体重75キロという容姿,風貌そのものが西郷を彷彿させるものがあったにちがいない。
そうした点を同時代の日本人の黄興観から紹介してみたい。
池亮吉は「(黄興は)28歳の時、長沙の郷里に帰り、単独にて私立学校を開いた。その目的は言うまでもなく、革命党を湖南の青年子弟に教え,以って今日の用に供へんとした者である。一寸西郷南洲翁の私学校といった様な格である。」と書いてある。
もちろん、明徳学堂は黄興が開いたわけではありません。彼はそこで教師として、歴史や体育などを教えていました。
ともあれ、黄興と交友のあった日本人はおしなべて黄興を中国の西郷隆盛と言っています。
頭山 満 第一革命時代の革命党志士野中でもっとも傑出していたのは何と言っても黄興と宋教仁でした。共に湖南の出でした。
黄興は沈毅重厚にして任侠の風に富み、日本の同志からも支那の西郷隆盛と称せられたほどだった。
孫逸仙が欧米文化の影響を多く受けるところが多かったのに反して、黄は純然たる東洋風の風格を持し、その点において民国未来の大統領として最も適任の人物と期待されていたが、志未充分に報いず、僅か44歳で病死した。
・・・・・(白岩龍平・日本人で初めて、湖南に行った人物。その他、芥川龍之介「湖南の扇」からの話などがありました。)
次に、中国側から見た西郷隆盛像について述べてみたいと思います。
まず最初に左宗棠(1812〜1885)一番最初に西郷に言及した人ではなかろうか?と私は思います。
「不世出の英雄(西郷)をこのようにして亡き者にする日本という国は哀れな国だ」。
・・・実は、このことは司馬遼太郎さんが書かれていたので、私、司馬さんにお手紙を差し上げ、「文献をよろしかったらお教え願えないか?」お尋ね申し上げたところ、ご丁寧に、お返事が参りました。「いろいろと手を尽くして探しましたが、どうしても見つかりませんでした。申し訳ありません。・・と、忙しい司馬さんにこちらこそ申し訳ないことをした。と、私、お手紙を我が家の宝にしております。
次に同盟会の領袖の一人であった章炳麟(1869〜1936)が西郷に言及していることを紹介します。
章は次のように述べています。
日本は維新以来、国勢がようやくおこり、法律も次第に備わると、臣民はその軌跡の中におさまってしまい、多くの高官の中に西郷隆盛のような剛厳直大な人物を求めてももはや見ることは出来ない。
以前は軽侠自善であったが、士人には奔放自由なものがしばしばいた。中江篤介、福沢諭吉などは、まさに東方の師表と仰ぐべきである。 今、日本の学術は以前より優れているが、政府の御用を策すものばかりだ。 日本は維新から僅か四十年で、善もこんなに進んだが、悪もこんなに進んだのである。
日本の維新以後の歩みを文明開化、近代化という善の側面のみを強調する論調に対して、章は開花、進歩の過程にも、悪があり、善と悪、楽と苦はいっしょになって展開するものであるという。
これには一個の西郷論というより、日本近代の歩みに対する厳しい批判であるといえます。
西郷については「、この西郷を「もはや見ることは出来ない」の一言には、章炳麟の日本近代への批判がこめられているといえましょう。
以下、お手元にお配りした資料にありますように、何如璋(1858〜1891)は初代の中日公使です。
康有為(1858〜19279)など、西郷隆盛に言及しています。
陳独秀(1879〜1942)
「新青年」を発刊し、五・四運動時期の文化運動の中心となり活躍。 中国共産党創立期の指導者。
日本留学時代、西郷隆盛の「狩りの絵」を観て、西郷に心をよせ、以下の詩を作った。
勤王革命皆形迹 勤王革命、皆形迹は、
有逆吾心罔不鳴 吾心に逆らい、鳴かざるはなし。
直尺不遺身後恨 尺を直して、身に後恨を遺さず。
枉尋徒屈自由身 尋を枉(ま)げ徒に自由の身を屈するのみ。
馳駆甘入棘荊地 馳駆して、甘んじて棘荊の地に入る。
願吩莫非羊豕群 願吩するも羊豕群に非ざるなし。
男立身惟一剣 男子の立身するは惟一剣のみ。.
不知身敗与功成 知らず身の敗れることと功の成ることを。
(意訳)維新革命の歩みは、私の気持ちと反対で、皆泣かせるばかりである。
足りない所を直して、後の身に恨みを遺さないようにし、
長所を枉(ま)げて、徒に自由の身を屈している。甘んじて棘荊の地に
馳せていて願吩(かたろう)としても、羊豕ばかりである。
男子の立身はただ一剣にあるのみ、敗北か、成功かは分からないが。
・・・・・・このあと、中村先生の講演は続きますが、今、述べた以外の人から見た西郷像について、
また、明治維新に対する考え方などは、先生の論文がより詳しく述べられているので、
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