黄興
黄興 1874〜1916
1874/10/4〜1916/10/31(42歳)
1874年 湖南省善化県(現在の長沙市)生まれ。
名は軫、字は董、後に興と改名。号は克強。父は塾を開き 子供を教える。比較的、裕福な家庭であった、
6歳のとき、「論語」続いて唐、宋の文を学んだ。学習のかた
わら、農耕に励む、
1891年 17歳で廖淡と結婚、翌年善化県試に失敗、長男一欧生まれる 。
1893年 城南書院入り、県試に合格
1897年 張りの洞の武昌,両湖書院に入り、5年間そこで学ぶ。
こうして伝統的な教育を受けていたが
1900年 夏、唐才常に自立軍挙兵には同情を寄せたと言う。
1902年 31人中ただ一人湖南人として選ばれて日本に留学。嘉納
治五郎が創設した宏文書院で学ぶ。そこで黄は法律、政治、歴史、教育等を学んでいたが、いっぽうでは軍事に味をもち、軍事訓練に熱心であり、とくにピストルの射撃は得意であったと言う。
また、楊篤生、蔡鍔など湖南出身の同志とともに「遊学訳編」を編集、出版し、日本や欧米の政治、経済、教育、軍事等ついで紹介しつつ清朝の批判を展開した。黄も「学校行政法論」(山田邦彦)を翻訳、掲載している。
1903年 宏文書院内に、湖南出身の留学生による土曜会を組織して、現状の改革をめざした。この組織に参加した留学生はちょうど、このころ満州に勢力を拡大に狂奔するロシヤに反対していたが、真の目的は清朝を打倒することであったこうして黄は、日本留学中、湖南を中心とする反清の革新的青年の指導者となった。
6月4日黄興は、中国に帰ったところ。胡元淡から長沙の明徳学堂で教えてくれるよう求められた。彼はそこで学生達に歴史や体育を教えるとともに、革命を宣伝した。
この明徳学堂を活動の場として、 11月 劉揆一、陳天華、宋教仁等とともに華興会を結成し、会長に進された。
また会党(秘密結社)と共同のため有力な指導者馬福益に働きかけ、同仇会を結成し、その会長になった。
1904年 10月、西太后70才の誕生日を期して、長沙で挙兵を図った。しかし、未然に事が漏れて失敗し、日本に亡命する。
1905年 夏、孫文と会い(この出会いは宮崎滔天の紹介によるという説が有力である)中国同盟会を結成した。黄興は庶務を担当しナンバー2の位置を占めた。
1907年ー1908年 欽州、防城、鎮南関、雲南河口などで挙兵の指揮に当たった。また、同盟会内の対立では、孫文を支持し、革命派の団結に努力した。日本人の同志は彼の人柄と風貌から中国の西郷隆盛と称した。
1909年 1月には宮崎滔天とともに鹿児島に西郷の墓参りをして、次の詩を詠んでいる。
“八千子弟甘同塚、世事唯争一局棋。悔鋳当年九州錯、勤王師不撲王師。”
1909年 秋、孫文の委託を受けて、香港に同盟会南方支部をつくり広州新軍の起義を計った。
1911年 4月27日黄花崗挙兵で、決死隊百余人で、総鑑署を攻撃したが、失敗し、多くの優れた青年を失った。彼など死者を「 黄花崗七十二烈士」を呼ぶ。自らも手に重傷を負い、香港に逃れた。この時、看護に当たった徐宗漢と結婚する。.
1911年 10月10日、武昌挙兵による辛亥革命が爆発すると、黄興 は上海を経て、10月28日には武漢にゆき、戦時総司令と なり、革命軍を指揮して、20日か余り、清軍と戦った。この 時。萱野長知は軍事顧問として参加した。
しかし、革命側 の作戦の失敗、袁世凱軍の精鋭と兵力に比べて、急増新参加の革命軍の弱さも暴露し、ついに漢陽を失った。黄興 は武昌をしばらく放棄して、南京を攻撃しそのあと兵をまとめて再び武昌にもどり革命の回復を図ろうとしたが、武昌地区の革命党人の反対にあい、上海に戻った。
この一連の敗北から、一時は黄を「常敗将軍」と呼んだ。しかし、戦いに敗れ、また戦うというのが黄の生涯であった。各省都督の代表会議で、黄を大元師におそうとしたが、彼は任に着かなかった。
1912年 1月、南京臨時政府が成立すると、孫文臨時大総統のもとで、陸軍総長兼参謀総長になった。
しかし、武昌挙兵とともに膨れあがった兵士を養う財政が極度に不足し、臨時政府は困難な立場となった。こうした事情から三井物産から30万元の借款を結び急場をしのごうとした。
南北和議に当たって、袁世凱が共和制に賛成ならば、袁を大総統におすすことを認め、みずからは臨時政府が北京に移った後は、南京留守府留守となり、南方の各軍の整備につとめたが、財政窮迫のため、大量の裁兵と兵変のため、留守府は終わりをむかえかえた。
1912年 8月、同盟会は国民党に改組し、黄はおされて理事となった。12月袁世凱から川粤鉄路督弁に任じられたが、12月には辞職する。これより先の10月、黄は故郷長沙に帰り、、そこで「国家の発展は教育による他発展はない」と講演している。
「学校行政法論」の翻訳、軍国民教育のけいもうの提唱と、そしてしばしば国民教育に関する講演などを見ると、彼の政治思想の中核には教育問題があったといえよう。
1913年 3月、宋教仁が暗殺されたことから、反袁世凱の気運がまると、黄は法律的手段での解決を主張し、速やかな 実力行使を主張する孫文などと対立した。
結局第二革命となり、黄は7月、南京で挙兵したが、敗れて、日本に亡命した。
日本政府筋は敗北の孫や黄にたいして、冷やかであった。とくに黄には、西郷ならば腹を切れとさえ言ったと伝えられる。
これに対して犬養毅、頭山満、宮崎滔、梅谷庄吉などは支援を惜しまなかった。
1914年 7月、孫文が日本で、中華革命党を組織したが、入党に
際して、拇印をすること、孫文に絶対服従することという 規約に反対して、参加を拒否した。
この経過から、黄を右派あるいは反孫文として、否定的にとらえていたが、最近の研究と資料によれば、孫文は黄興に「2年間自分に任せ、あなたは静養し、もし私が失敗したら、次はあなたがやって欲しい」と頼んでおり、黄もそれを受けて、中華革命党と別の欧事研究会には名をつらねたが、実際には滞米中には、孫文の批判をせず、ひたすら、反袁世凱の宣伝をして、アメリカ各地をまわり、華僑やアメリカ国民の支援を理解を求めた。
雲南護国軍がおこるとそれに呼應するため、1916年 6月、日本を経て帰国した。途中の船上で、「何の土産もないが、民権と自由は沢山詰み込んで来た」との詩を詠んで、反袁の決意をうったえた。
帰国間もなく、6月に政敵袁は悶死した。黄自 身も、病は進行し、ついに、 10月31日、上海で病死した。墓は長沙岳麓山にある。
宮崎滔天
孫文