3月2日、早速、僕の日本語教師として
の歓迎会が教室で開かれた。
「サァ!これは夢ではないんだ!」
胸の引き締まる思いだった。
準備していた中国語の挨拶もそこそこ
うけてたようだ。
上下、長沙の街は結構、大都会だった。
食事は南京路の吉野家の日本にはない
「牛丼」を食べた。
徐家匯(Xujiahui)の天橋から見た街。
徐家匯(Xujiahui)の天橋で。
南京東路のソフィティルホテルの28階の
部屋から外湾をのぞむ。
メルトモ李黎は23歳のOL
鹿児島空港を飛び立ったのは2月28日の午後1時30分だった。
20キロをはるかにオーバーするトランク、それに10キロを、ゆうに越すノートパソコンの入ったリュックを、バスで空港まで運ぶのは、チョッと
きついなぁと思っていたら、我が頼りになる婿殿(僕にはとりわけ気遣いがいい)が
「私がくるまで送ります」とのやさしいコトバに一安心。
2日前から喉に違和感、と言っても大げさなものではなく、単に、いが
いがした風邪の前兆らしきものがあったので、熱でも出て上海空港で入国拒否でもされたら大変、と心配していた。
この前の時もそうだったが、又30分出発が遅れて飛び立った。
上海空港に迎えに来てくれてるはずのメルトモ李黎がやきもきする顔が浮かぶ。
空港で先日天文館、のスナック「夢ふたり」で知り合った竹之内氏と出会う。
なんでも上海と寧波に工場を持っているらしく、世界を又に交易をしてるとのこと。よく、お喋りする方で、せっかく見送りに来ていた妻と、ゆっくり、しばしの別れの会話などするまもなく上海へ飛び立った。
きっと、妻はご不満であられたことと思う・・・。
竹之内氏と、飛行中もずっと話し続けた。鶴丸高校の八回卒と言ってたから、もしかしたら、僕と同年輩かもしれない。
家族は大阪においてる。と言ったのに、
「実は、こないだは同級生に見合いをさせられたんよ。」とわけの分らない話をしていた。
寧波には何十人もの中国人の社員がいるそうだが、まあ
「すごいですね、世界を股にして・・・。」と深入りは避けた。
上海は今日は雨だった。
4ヶ月ぶりの上海は霧雨のような雨が降っていた。
いかにも寒そうである。
メールで1号出口で待ってるよ。との李黎の返事だった。
トランクを台車に載せて1号出口をさがす。着いた出口が14位だった。
本当に1号出口なのだろうか?と不安になるほどの距離である。
何も、スター同士のおしのびでもあるまいし、もっと到着出口(多くの人が出迎える場所)でもよさそうなものを、と思いながら台車を走らす。
にっこり笑った李黎の久し振りの笑顔を見た時はほっとした。
しばらく再会の会話を日中交じりで交わし、構内の銀行で3万円を人民元に換えると大きすぎる荷物をタクシーに載せ、まずホテルへ向かう。
外はしとしとと雨が降り、かなり気温も低そうである。
「今天上海下雨了? 昨天又那?」
「そうそう、シャンハイ、ズット アメ・・」
会話が逆である。李黎との会話は電話の時もいつもそうである。
李黎の一番多い日本語は「アア、ワタシ ワカラナイ・・・。」である。
ともかく、この天気は 風邪気味の僕にとって最悪の環境である。
「これでは、明日の水郷めぐりはダメかもしれない。残念・・・・」
ホテルでお互いの土産の交換をした後、とりあえず外へ出かけることにした。
メールでもやりとりしていたあの思い出の新天地に行くことにした。
しかし、 この雨ではあの新天地散歩の雰囲気は望めない。
タクシーを捕まえることすらむずかしかった。
思ったとおり、新天地の人出はまばらだった。外のカフェテラス使えないのでとても新天地らしさがなかった。
それでも歩き回って、例のフランスのムーランルージュ風のカフェレストランで食事をした。
上の李黎のスナップはそこでのものである。
外はとても寒く横殴りに,雨は降っていた。李黎とふたりタクシーを捕まえるのに何分かかっただろうか?
李黎はそれでも嬉しそうだった。
結局、愉しみにしていた上海での一日目はこんな風で終わった。
次の日、もし、天気がよければ朱家角に行こうと話していたが、次の日も朝から今にも降りださんばかりの空模様だった。
結局、この日は僕のこちらで使う携帯電話を探しに、この前行った
徐家匯(Xujiahui)にふたりで出かけた。
徐家匯(Xujiahui)に地下鉄で着いた頃には、やはり雨が降り出してきた。
李黎がお姉さんの誕生日のプレゼントを買いたいというので、デパートを
2軒ほど付き合い。
夕方、デパートの6階から上が映画館になっているところで、フランス映画の面白くない、18世紀ごろのフランス人がなんと、すべて中国語で話をする映画を観た。
映画館は10軒ぐらいがワンフロアにあって売り場は一かl所。今度、中央駅に出来るアミュプラザの映画館もここまでの規模はいかないだ
ろう。と思う。
大きなレストランが下の階にいっぱいあり、日本料理もあれば回転すしも流行っていた。
上海は、もう、日本人にとって、日本の都市となんら変わらない街になってしまったような気がする。
まだ時間があったので、あまり行きたくなさそうだった李黎を連れて
こちらのカラオケ屋をたずねてみた。
ここも、若者で一杯だった。
テレビの画面の上の方に帯状にテロップが流れていた。
・・・外面是下雨清滞在慢慢・・・雨が降ってます。ゆっくりしてください。
そんな、案内コメントだった。
小部屋の中は、日本とほとんど変わりない。衛星カラオケはまだないのか、
でも、リモコンで操作する同じようなタイプでマイクは2本
外の廊下とは透明ガラスで仕切られているので、明るい感じである。
突然、ボーイがとても巧妙に盛り付けたどでかいフルーツをもって入ってきた。20元だという。日本円で300円ぐらい。
折角、作ってきたのだからと、もらうことにした。
帰りに出口の横に同じフルーツがケースの中に6個ぐらいあった。
あまり乗り気でなかった割には李黎はひとりでよく唄っていた。
李黎の唄う歌は若すぎて上手いのか下手なのか分らなかった。
日本の演歌も結構たくさんあったが、こんなところで「細雪」も場違いな感じで、前奏を聴いただけでキャンセルしてしまった。
鹿児島で留学生に習ったテレサテンの「月亮代表我的心」がすっかり僕の十八番になってしまった。そのほか2,3曲唄ったか?
沖縄の「花」は唄っててしっくりきた。
外はまだ雨が降りしきり、タクシーはなかなか拾えず、これは身体にまずいぞ、とちょっと心配になった。
明日はいよいよ待望の長沙入りである。
李黎にもらった中国茶器が大きすぎてとても長沙までもって行けそうにないので、李黎に、今度日本に帰る時もらうね、貴女の家まで、一緒に持って行ってあげよう。とタクシーで出かけた。
李黎の新しい住居は古いビルの3階にあった。
ビルの中におおきな扉があって、そのなかに部屋が3つぐらいあり、それぞれに又、扉があり、そこのひとつが李黎の部屋だった。
とても小さな部屋だったが、お姉さんの家から独立し、ひとりで頑張っていこうとする李黎のたくましさを感じた。
古ぼけたたんすの上にB5サイズの写真立てがあった。
なかに白い犬が二匹遊んでいる写真だった。
「このなかに今度、ケイジサンと写した写真を入れたいです。」
我想限慶二先生一起照片・・・・・・
はにかむような李黎の顔に別れを告げて降りしきる雨の中を僕は
ホテルへ戻った。
2004年3月2日・僕の新しい夢の実現の日だった。
市街地編