- 2004/03/11
- 靴を買いに黄興路の歩行者天国に行って来た。
「黄興路」とは鹿児島に例をとれば、さしずめ「西郷隆盛通り」とでも言おうか。
彼の長沙出身の辛亥革命の志士「黄興」を讃えて付けた道路である。交差する長沙一の大通り「五一大路」はさしずめ「毛沢東路」といったところか。
近、現代の中国の二大英雄を生んだ湖南、長沙の風土とはどんなものだったのだろう?
若者や家族連れで賑わう歩行者天国「黄興路」を初めて訪れ、今からおよそ100年前、ここ長沙で生まれ、活躍した一人の男を想う。
身長は160センチ小太りで西郷を小ぶりにした感じから、中国の西郷隆盛と呼ばれていたという。
・・・(中村 義氏・資料より)すなわち湖南省系出版組織の一つに「湖南編訳社」がある。・・湖南は尚武を好み、薩摩の風がある。日本建国は薩摩に依存した。将来の支那も湖南に頼らんとするものである。日本は小
さく、また薩摩は湖南にくらべて小さい。しかし、日本は変わってしまった。
中国は大邦であり、故に湖南は大薩摩である湖南には屈原、王船山等の人物が排出している。湖南が変われば中国はこれに続くと信じる。それ故、同士は団結してたちあがろう。・・・
湖南出身の当時の日本留学生たちの意気は高い。
・・・中村先生講演より・・・
2000年続いた中国の王朝体制を倒した辛亥(1911年)革命の指導者を一人上げれば孫文「孫中山」です。
こんにちでも中国革命の先駆者と呼ばれています。
台湾では国父です。
確かにそれは、彼の三民主義つまり、彼の政治思想といいましょうか、理念といいましょうか、それは、中国の誇るべき、いや、アジアの誇るべきものでしょう。
そういう孫文の輝かしいことは、言うまでもありませんが、同時に、辛亥革命は孫文ひとりでなし得たことではありません。一心同体といいましょうか、かけがえのない盟友、
そういう存在が黄興でありましょう。
まぎれもなくナンバーー2です。お国柄と言いましょうか、二番目というと、影が薄くなってしまいます。
又、孫文はいろいろな文書を残しています。それに対し、黄興のほうは 大変少しです。
しかし、最近の研究と資料によれば、孫文は黄興に
「2年間自分に任せ、あなたは静養し、もし私が失敗したら、次はあなたがやって欲しい」と頼んだ。と言われている。
・・・講演:「辛亥革命の志士・黄興と西郷南洲」
中村 義東京学芸大学名誉教授
2002/12kagoshima/reimeikan
先日、こちらに来る前に中村先生に頂いた、湖南師範大学の「黄興」研究者・李主任宛の僕への紹介状と共に、去る1月に黄興の生存しておられた最後のご子息が亡くなられ、北京の革命墓地に埋葬された記されてあった。
ゆうべ、約束していた王俊クンに案内されての街ぶらぶら(中国語でガンガン ジェ)だった。
こちらに来て初めてマクドナルド(平和堂1F)でハンバーグを食べた。日本製に比べやはり辛い。長沙バージョンというのだろう。
歩行者天国の端にはドデカイモニュメントが置いてあった。帰りはタクシーで10元でした。
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