大石ケイジ的長沙日記
岳陽楼に登る。
2004/04/03

 岳陽は古くは巴陵または岳州と呼ばれていました。

面積は84平方キロ。人口は78万、湘江の下流、揚子江が洞庭湖に流れ込むところに位置しています。

 今回、まる2日のコースで一日目を南湖と岳陽楼と田舎(王紅軒君の実家)と市内めぐり。二日目を君山と洞庭湖という、ゆっくりコースで三人で出かけました。

 先にも書きましたが朝6時の広州から岳陽行きの火車です。朝まだ暗い長沙駅で舎絹を待ちます。硬座しかないそうで「まいったナ」と思っていましたが軟座と殆ど変わらない綺麗な車両でした。口の悪いシャケンが
 「馬鹿にしないでよ!」怒ってました。

この後、バスの中の床のメチャ汚れを撮ろうとした時も怒りました。愛国心の強い女性です。

 実は、彼女の実家はここより西にある「常徳市」です。常徳市は第二次世界大戦のさなか、日本陸軍がとても悪いことをした所です。空軍による爆撃の際、細菌を撒いたとされている街です。

 だから、僕はシャケンがどんな悪口を叩いても許します。我々の父の代が彼女の祖父の代を、そして、父の代に与えた悪行は謝罪し切れるものではありませんから。

広州からの車両は、対面4人掛けのほとんどが寝台代わりでした。起きてる人はわずかで思い思いのスタイルです。旅も市内も交通機関をほとんど公共バスと普通汽車を利用しますが、マナーは未だ未だ、と言っていいのか?この先も変わらない国民性?というのか。

 公共性という感覚はなさそうです。嫌煙権などおそらくあと数年はかかりそうです。

 次の三つがどうしても気になります。「散らかす。(床は食べかすを撒き散らす。)まず、譲らない(老,子連れ関係なし)。車内喫煙」 良いのは、叫べば何処でも停めてくれること。(長沙市内は多分無理)


 さて、《岳陽楼》はもともとは城を守る兵士たちの休憩場所でした。三国時代に呉の大将、魯粛がまずここで水軍を訓練する為建て、次に唐の時代、楼閣に建て直し南楼と言う名をつけました。

 宋の1044年藤子京が《岳陽楼》を建て直しました。そして彼の友達であった範仲がここで作った「岳陽楼記」で《岳陽楼》は天下に名を知られました。

 岳陽楼は《武漢市の黄鶴楼》《南昌市の藤王閣》と並んで江南の三大名楼と言われています。

 高さは21メートル構造は柱4つ、三階建て、特徴は屋上のかぶと状建築です。歴代古建築では極めて稀と言われています。現在の楼は清代のものです。

   《岳陽楼に登る    杜甫》

     昔聞く洞庭の水
     今上る岳陽楼
     呉楚東南にさけ
     乾坤日夜浮かぶ   (天と地) 
     親朋一字無く    (一字の便りさえ)
     老病弧船有り
     戎馬関山の北   (軍の馬)(故郷をさす)
     軒に憑れば
     涕泗流る (涙)


王紅軒君のお父さんが作ったご自慢の青蛙(チンワ)20匹のうち3匹を食べました。味はハオ、ダンシ、ブハオカン。見た目はグロテスク)