「山松高き・・」清水小時代
下池 和彦(2組)
昨年号で東川君が勝手に僕の名前を出したので、お鉢が回って駄文を書くハメになりました。内容は読者の方々が好きそうな「鹿児島の昔話」にしました。僕の場合、精神の若返りが進行中で、すでに高校を終え中学も過ぎって今は小学四年ぐらいをやっています。当時の顔には当時の言葉しか出て来ません。よしこの際、鹿児島語ではっちこや。良かけ?
稲荷川ん上ん段の稲荷町、清水町は風水が良して、島津殿な此処け清水城を構えっ鹿児島ん町つ作ったち云もんどん、そん都いあした清水小は品の良か児童ばっかいおいもした。稲荷町ん我家ん鼻ん先きな川原少年がおっ、そん頃はニコニコちお利口さんじゃしたと。夏ちなれば山越えで磯ん浜め水泳びいけ行っごしたどん、そん途中てな神川宅があっせー、トンネルん番のしかた。にたーっ笑るっな。線路ん際ん入佐は美人ママが叱っで遊っもならじ勉強勉強。 「清水小は美女ばっかい」が自慢で、竹之内っのヒーチャンにな今でんから頭が上らんたっち。ヒーチャンに叱らるればヒーリング。 いっきそべな亀山どんがおいもしたどん、詳す書たなら上山ん機嫌っが悪っかろで今日は書かんめかな。稲荷町んま一人のマザコン卒業生、木佐貫も一人立つしっ自信満々、此の頃れな髭どん生やけっ血色か良し、偉か人ちない出けたたっが。同窓会寄付どんズバーッせなよ。川ん向んヒヨドイやら雉っの鳥がケーケ鳴らっ葛山めな上温湯どん方があいもしたどん、まだ其処にきおいやすか?
兎っごろを飼ちょしたけなー。鼓川ん内村フカシはなあ、優いしおした実母に小学っの時っはっ逝かれっ、わがも玉龍い来てや二人で行た桜島
0月末頃には皆様のお手許に届きます。
内容予告
●『山松高き・・・』清水小時代 下池和彦(2組)
●思い違い、勘違い、聞き違い 上山憲一郎(3組)
●リタイヤ前夜 谷川二郎(一組)
八期∞通信
思い違い 勘違い 聞き違い
上山 憲一郎
玉龍八期生の殆どが65歳になったか、もうすぐなる人々である。 弱い65とは法的(?)にも社会的にも高齢者と認知されることである。
従って「おじいさん」「おばあさん」と呼ばれても、決して怒ってはならない。 良い事もある。 公園、美術館等の入場料が安くなったり、シルバーシートにあまり恥かしい顔をしないで座れることなどである。
ゴルフの場合、シニアティから打てるのだが、高齢者とは認めても、老人であるとは認めたがらないので、この権利が行使される事は稀である。 小生の日常の行動意識もそこそこ変化をきたし、景気が良いとか悪いとか、あの会社の戦略はどうだとか、何々は良く売れているとかいったことには、トンと興味がなくなり、まあ、適当にやってくれという気分である。
本屋に行っても厚そうで重そうなものには目がいかないが、優しそうな(易しそうではない)コーナーには、目がいきがちになる。 そうした中でここ数年、唱歌童謡を懐かしく描いたり、解説したりする出版物が目立つようになった。
「愛唱歌ものがたり」「心に残る歌とその時代」「世界の名歌、日本の詩情」「童謡の謎・秘密」など、一覧しただけでも20冊ぐらいの本が並んでいる。 これらの一般的な主張は、文化財ともいえる、唱歌童謡を歌い継ごうというものである。
ある本で、ある大学の先生が、ゼミの学生と協力して「歌い継ぎたい日本の歌」をアンケートしている。 主として、対象者が著名人、知識人、老人ホームの人々となっているので、国民的母集団とは言い難い面はあるが、推薦された上位の曲は次のようなものである。「故郷」「荒城の月」「赤蜻蛉」「花」「朧月夜」。 ちなみに7割の学生がこれらの歌を知らなかったそうである。
前述のような本をたくさん読んだ訳ではないが、「なるほど、そういうことだったのか」と感心するばかりであった。 以下、小生の何とか違いと無知ぶりを二、三、記してみたい。
何事につけても、思い違い、勘違いはあるものだが、こと歌に関しては、沢山あるようだ。 小生の場合、何とか違いというより、バカと言った方が適切のようだ。
明治時代は、まだ童謡運動の起る前に作られた唱歌で「夏は来ぬ」がある。 この詩は、古典への博識があふれるものであり、卯の花と時鳥の組合せは、万葉集以来、夏が来るというイメージで登場し「さみだれの・・・」の一節は、栄華物語を連想させ、さみだれと水鶏の組合せは、源氏物語に見られるとのこと。 大体、唱歌童謡は聞いて憶えたものが多く、文学からのものは少ないのではないかと思われる。
この歌の四番目に「棟(おうち)ちる川辺の宿の」の一節があるが、「おうち」という意味がわからず、おうちちるとは「家が腐って散ること」と思っていたし、「さつきやみ・・・」を「長雨が止んで・・・」と思っていた。 同じような誤解で、「思い出」の一節が「かきに赤い花さく・・・」を柿の花は赤くない筈だが、赤い花が咲くとは不思議だなと思っていた。
その他にも、バカさかげんは山ほどあるが省略する。
唱歌童謡は、昭和20年代に聞き憶えたものがほとんどであるが、同じく大人の歌う歌謡曲も聞き憶えしている。 ところが、不思議なことに、これら焼跡闇市の歌、あるいはアンニュイな失恋の歌などは、割と間違えないで憶えている。
小生小学校では、児童会で決めた「流行歌を歌わない」「廊下を走らない」「学校の帰りに紙芝居を見ない」などを忠実に守る良い子だったので、ますます不思議である。(中学生になってから不良になり、現在に至っている)
聞き違いの傑作として、向田邦子さんは、荒城の月の「巡る盃」を「ねむる盃」と、堀添さんは、赤い靴の「異人さん」を「いいじいさん」(悪いじいさんではない)と憶えていたとのこと。 彼は又、歌の話ではないが、放送の終りのNHKは、「イヌ・アッチ・イケ」に聞こえていた由。
多くの人が、聞き違いの例としてあげてくれるものに、ドングリコロコロドンブリコをドングリコと憶え、故郷を離れる歌では、小百合、撫子、千草が出てくるが、これにウリを加えて憶えていたというのがある。
戦前の歌「新雪」の中で「けがれを知らぬ新雪の」という一節がある。 ここを是石さんが歌うと「けがれを知らぬ是石さんの」に変る。
思い違い、勘違い、聞き違いのどれにも当嵌まらないようで、一体、どう解釈すべきや。今楽しんでいる事
岩切 キヨ(3組)
今夏の猛暑には参りましたが、八期会の皆様、お元気でお過ごしでしょうか。 盛会に終った「卒業四十五周年同窓会」から早一年余り、超特急で過ぎ去りました。
あの日の一コマ一コマを時折大きく心のスクリーンに写し出しては、繰返し楽しんでおります。 参加出来て良かった。と、心から思います。
後述となりましたが、あの同窓会を企画して下さった方々に、本当にご苦労様と、感謝申し上げます。
人生の折り返し点に近づいたころからでしょうか、日に日に物忘れや、物覚えが悪くなり、ほとんど、アレ、コレ、だけで話しているのではと、笑い事では済まなくなりました。 そして、少しの坂道にも息が上がりますし、出来るだけ健やかに、ゆるやかに年をとりたいとの思いから、この頃こんなことを始めて楽しんでおります。
フラとの出会い
知人に誘われ、軽いストレッチのつもりで始めました。 が、始めてみると今まで抱いていたフラダンスの印象は、ガラリと変りました。 先号で木村美子さんが、熱く語っておられましたね。 たおやかで優雅なフラの身のこなしには、まだまだ、程遠いですが、稽古日が楽しくなってきました。 又、発表会のカラフルなドレスは、変身願望も満たすようです。 ゆっくりと続けていこうと思います。
ピアノ
こちらへ越して来て間もなく、お隣りからピアノの音が流れてきました。 少したどたどしい音色から、あの幼稚園生かな、とその時ふっと思ったのです。 私もあの子と一緒に始めてみようと。
早速、娘が使わなくなって久しいピアノに向い、そこにあったバイエルを一頁ずつめくっていきました。 毎日少しずつ続けていく内にある日、聞き覚えのある曲に巡り会ったのです。 その時のほんとうにうれしかった事!「よか調子じゃが」と、乗せてくれる家族の応援もあって、それから一年を過ぎた頃、バイエルの上下巻を終えたのでした。 と言っても、全くの独学なのですが、あれから遅々として進みませんが、気の向いた時にひけそうな曲をみつけては、楽しんでおります。 唯今、ソナチネ十番に取り組み中。 いつの日か、ショパンのノクターンが弾けたらと・・・。
そしてもう一つ、娘が読み終えると置いていってくれる本、寝る前の一時、ハリーポッターを読む事も楽しみの一つです。
今を在る事に感謝して、一日一日を大切に過ごしていきたいと思っています。
八期会の皆様、お身体に充分気をつけてお過ごし下さい。 又お会いする日まで。
鈴木 恵美子
昭和四十二年から住んでいる大田区は、東京の東南に位置し、面積、人口共に多く、川アと県境の多摩川の河口で、東京湾に面して広がる広大な羽田東京国際空港は、まだ沖合いへと伸展中である。
「田園調布に家が建つ」というフレーズまである高級住宅街の一部は、大田区である。 大田区蒲田の町工場の永年の技術の積み上げや工夫は、海外の企業も知るところであり、バブル崩壊で苦境に立つ工場の技術を海外から買収に来るということもあるらしいが、高い技術や経験は、日本産業界の宝のようなものであろうにと、残念がる人々がいる。
アメリカNASAのロケット先端の円錐形部分を作っているのは、ここの町工場である。 円錐の微妙な線が向上の技術でなければならないそうである。
ハワイの山頂に建つ、世界一の天体望遠鏡レンズの厚みのミクロの違いを指先の感覚で感じ取り、修正する父子もやはりこの工場の主である。
大田区のほぼ中央辺りに、小高く広大な岡があり、ここに池上本門寺がどっしりと建っている。 七百二十八年前にこの近くの大坊という寺の井戸端で旅の途中の日蓮上人が亡くなられ、その死をいたみ、上人の教えに帰依なさっていた地元の豪族、池上氏が、この広大な岡を寄贈し、寺が建立されたと聞く。
お陰で池上周辺の住民には、一年を通してこの場所が祈りの場であり、憩いの場であり、花見の場であり、ラジオ体操の場でもある。 十月十二日の日蓮上人の御命日には、御会式といって、盛大な万灯行列が繰り出し、静かな門前町が一変したような人出とお店で賑わい、人々は、寺に詣で、そして祭りを楽しむ。
独特の太鼓のリズムと共に幼い者の脳裏に刻み込まれる。 広い墓所に上人の方円形の墓石が大きく立派に聳えている。 徳川家縁の高貴な方々や、側室の方々の立派な墓は苔むしてはいるが、壮大である。 幸田露伴やその子孫の方々の墓は新しく見える。
この街の一角で、義父のやっいた店を引き継ぎ、二十七年になる。 サラリーマンだった夫は、六十七歳で退き、三人の子も各々成長した。 十四年前に亡くなった義母を数年間、介護したが、店舗住宅だった為に、お店をしながらそれが出来た。
当時は、バブルの影響がまだ強く、それなりに多忙だったので、十分に見れないこともあったが、母もそれは承知で、出来ることは自由に動いていたので、生涯自分の足で歩き、寝たきりにならなかったのは、母にとっても家族にとっても幸せでした。
面倒を見過ぎても本人の自力を奪ってしまうのかもしれない。 厳しかった母が徐々に可愛いおばあちゃんになっていき、幼児が親を慕うように頼りにされていた。
ある夜、子ども返りしていた母は、甘味の袋を持ち、一つ口に入れて味わいながら歩いていたが、その場に声も無く、フワッと倒れてそのままだった。
本人も家族もそのまま逝ってしまう等と誰も思わず、八十八歳の日常が続くとばかり思っていた。 今にして思えば、好物の甘味を味わいつつ、美味しいなと思いつつ、逝ったのであろうか。 何という、いい往生だったかと思う。
何年も薬は飲まず、医師に診てもらう必要もなく、穏やかに過ごしていた。 病院は、ベッドが自分の居場所だったが、自宅なら歩ける範囲全て、見るもの聞くもの全てが、自分の居場所だと思う。
気がつくと、自分もいい年齢になっている。 おじいちゃんから引き継いだお店をそろそろ終りにしても許してもらえるかなと、仏前で問答している事がある。 少し自由な時間を持ち、やりたかった事や、行きたかった所へ夫と共に行きたいなと思うこの頃である。